キャラクタービジネスに学ぶ自分の育て方と、ポケモンの間違った遊び方。


世間ではしばしば「◯◯世代」という言葉が使われる。「ゆとり世代」「団塊の世代」などがよく使われるところだろう。僕の少し上の年代は「キャプ翼世代」と呼ばれ、快活でサッカーに熱く語られる。しかしある時は「エヴァ世代」などと呼ばれ、ナイーブで内面に暴力性を孕んでいるという面倒な印象を抱かれる愛憎入り混じった世代である。

では、僕は「何世代」かというと、それはもう完膚なきまでに「ポケモン世代」である。まだピカチュウがトキワの森で出てくるハムスター体型のちょいレアモンスターであった頃を知る世代である。ポケモン達が、まだ本当にモンスターらしかった頃を知る世代である。


赤を買うか緑を買うか。ちょっと違うよ。



■キャラクタービジネスの3大法則を見よ

山本家はゲームの解禁が遅かったため、初代ポケモンを自前でプレイすることはなかった。僕が初めて手に入れた自分のポケモンは、第二世代に当たる「金」であったのだ。

ポケモンが生み出したキャラクターゲームの系譜は、今や大きく花開いている。妖怪ウォッチがその末裔であることは揺るがぬ事実であるが、その傍らでいまなお「ポケモン」というブランドが大変な存在感を放っている。ジバニャンとしては、少々肩身の狭い思いであろう。

ところで、子供は元より大人としても、キャラクタービジネス産業における「集める」「育てる」「戦わせる」の三大法則は、実に魅力的である。取り分け「育てる」に関しては、最初は弱く小さかったモンスター達が成長と進化を繰り返し、強力な技を覚え、新しいステージへと進む進歩の快感を味わうことができる。

僕たちは実生活の中で自分の成長を感じることができるが、それには「耳を澄ませる力」が必要だ。ポケモンが進化のレベルに達すると画面が切り替わり派手な演出が始まって、姿形が変わる。実に分かりやすい。

ところが現実は、画面が切り替わることもなければBGMも変わらず、姿形もそのままである。せめてボーナスポイントとして財布の中身が増えていればまだ許容の余地はあると言えるが、どうやらそのようなことが起こるようには、この世界は出来ていないらしい(29年間に及ぶ調査研究による)。

「育てる楽しさ」はゲームが教えてくれているのに、「自分を育てる楽しさ」を教えるものは、少ない。


・「育てる楽しさ」のベクトル

「自分を育てる楽しさ」を最も感じる分かりやすいポイントは、アルバイトなどを始めてすぐの頃だろう。新しい仕事を覚え、自分の明らかな成長が感じられる。調理の仕事なら食材を切るのが早くなるだろうし、配達の仕事なら効率的な体の動かし方やルートの取り方が見えてくるはずだ。これは、面白いんである。

しかし概ねの仕事を覚えたところで、飽きがくる。もう自分に足すものが無いように感じられるのだ。この時点で仕事にやり甲斐を感じられなくなり、新しい刺激を求めて転職をしたり、無刺激に慣れて張りのない日々を送る人が一気に増える。これがつまらないんである。

では、全ての仕事内容を覚えてしまったら、それは「成長の停止」になりえるのだろうか。答えは「ノー」であろう。よほど特殊な仕事でない限り、その職場には必ず「他人」がいるはずだからだ。

人生とは、「自分以外の何か」との縁、交わりのことを言う。人は「自分以外の何か」との交わりの中で自分の輪郭を感じ、あるいは同一性を感じる。ちょうど彼女様に暴力を振るわれた時に


「この女は僕を敵と見なしている」


と感じ、あるいは目の前で容赦なき放屁の洗礼を放たれた際には


「この女は僕を空気か何かと見なしている」


と感じるのと似ている。この一見矛盾とも取れる対人感覚は、実にシンプルな理由で矛盾ではなくなる。つまり、人は点ではなく多面であるのだ。数面ばかり嫌いな面があったところで、他にそれを補って余りある好意的な面があれば、バランスは保たれる。我々のような被害者と加害者のような、常に暴行殺傷事件が勃発しているような間柄でも、それがあるからこそ恋人という関係が続いているのである。たぶん。たぶん・・・


・人は美味なる多面体

「自分を育てる楽しさ」というのは、いかにしてこの多面の存在に気付くか、ということが鍵となる。それは仕事であれば、「新しい仕事を覚える」という面を抑えたなら、同僚の仕事を手伝うとか、上司を立てるとか、後輩を育てるとか、お客を喜ばせようとか、そいういう面があることに気付けるかどうか、ということだ。

誰しも枯れ果てて、誰しも魅力の無い時代である。そういうことに燃えること自体、笑い者にされるかもしれない。しかし、それで合っているのだ。事務処理を素早く済ませたり、良い商品を並べて売るだけなら、機械でもできる。しかし人の心に火を灯し、暖かに照らし出すことは、人にしかできないんである。

僕は長らくケータイの販売員をしていたが、ケータイの調子が悪い人が来た時に「じゃあどれにします?」と聞くと売れないことが多い。「大事にされて、この子も嬉しかったでしょうねぇ」なんて言うと、品物が売れるのだ。もちろん相手によって言葉は変わるが、大切なのは、人が何を大事に思い、何を感じて生きているのかを想像することである。

人は、己の大事を想ってもらうだけで報われるのだ。想像してもらいたい。たまには彼女様に料理をしようと手腕を振るい金色のチャーハンを製作提供したのに、小さく笑いながら


「フライパンにこびりついたダークマターの掃除が大変そうだ。」


などと言われては、気持ちが報われないんである。それが借りていた3000円を返すのをもう1週間待ってほしいというお願いのための布石のチャーハンであったなら、当方の肩身の狭さは、猫の額の比ではない。

話が逸れた(「哀しみが漏れた」とも言える)が、つまり、人の心を暖めることができるのは、人だけだということなんである。そして目の前の人の心をどれだけ暖められるのかということが、まさに好意の集まる面なんである。

仕事は、面倒臭い。人間関係も、面倒臭いのだ。しかし、それはあくまで多面体のごく一部でしかない。そこには「仕事が面白い」という面もあるし、「人間関係が楽しい」という面もあるのだ。確実にあるのだ。

それを人生は点だと思い込み、一点のみの判断で良し悪しを決めてしまっていては、楽しめるものも楽しめないのだ。


・人生はゲームだ。

決してレベルが数字で見えたり、経験値がゲージで見えたりすることはない。姿形が大きく変わることもないかもしれない。それでも、僕たちはどこかにある「自分を育てる楽しさ」が記された面を見つけ出し、生涯終わらないゲームを楽しむのだ。

ポケモンの主人公は、草むらに入って野生のポケモンと出会い、謎の巨大ビルに潜り込んで怪しげな組織をぶっ飛ばす。草むらに入り、謎の巨大ビルに忍び込むから、次のストーリーが始まるのである。

いつまでゲームのキャラクターのつもりでいるのだ。僕たちは、人生という名のゲームのプレイヤーである。もうちょっとプレイヤーらしく、ひとつ上の画面から自分の今の状態を見下ろすのだ。そうすれば「集め」るものも「育てる」るものも「戦う」べき次のステージも、見えてくるのだ。


・・・ところで先日、2002年に発売されたポケットモンスター/ルビー&サファイアがリメイクされたのだが、僕の彼女様は誰よりも早くそれを購入し、ポケモンマスターを目指す旅に出た。ニンテンドーDSに夢中になる彼女様の背中を見、チャンスとばかりにこの高尚な話しを聞かせてやろうと近付いたところ、


「木の実マスターに、私はなる!」


と叫んだきり一切の戦闘を行わず、各地の木の実にジョウロで水をやって回っていた。ゲームから離れて久しく、現在のポケモンがどのようなことになっているのかを、僕はよく知らない。しかし何かこう、根本的なことを間違っているような気がしてならない。


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「探せ!この世の全てをそこに植えてきた!」



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