ひとりしりとり「祈り」


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◇「誤解」→「祈り」

103歳で亡くなった僕のひいばあちゃんは晩年、老人ホームのベッドの上で1日100回、お経を唱えていた。
和歌山県の山奥の炭焼き小屋に生まれ、背負った弟を亡くし、伴侶を亡くし、我が子を亡くし、それでも生きてきたひいばあちゃんが最後にしたことが、大切な人たちの元気と健康を祈ることだった。

人は一生懸命生きている時、何かを祈っている。
家族が幸せでいられるよう。
自分が健全でいられるよう。
仲間が豊かでいられるよう。
お客が喜んでくれるよう。

そうしてそうやって強欲に、幸せに対して実に強欲に生きることを、僕は「祈り」だと思うんである。
死にゆく人にこれらも生きる者ができることは、「僕は元気で頑張るからね。安心してね。」と祈ることだけだ。

お金を渡しても、高級外車やマンションを渡しても、あの世には持っていけない。
僕たちが持たせてあげられるのは、ありったけの感謝を込めた「祈り」だけである。

そしてそれはやはり、「自分」と「相手」の幸せを目指す行為だ。
ありがとうとお疲れ様を、日本人は花に込めて死者に添える。
その度に今生きる自分を見つめ、対話する。

では、生者が生者に「祈り」を向けるというのは、どういうことか。
それはきっと、相手の心を光で照らすことだ。
自分の中にあるスポットライトで、相手をしっかりと照らし出すことだ。

釈迦やキリストの絵には、よく後光が描かれている。
まさしくああいう風に、向き合った相手が自分がこの舞台の主役であることを感じられるほどに、まぶしいライトを当てる。
僕はそれが、「祈ること」ではないかと思う。

今日は僕と朗読家の玻瑠あつこさんが主催するイベント、『蔵人(くらと)ぴあ』の開催日である。
テーマは「祈り」。
1/18に公演したところ、満席で入れないお客さまが出たため、急遽再演の段取りと相成った次第だ。

今回の僕の仕事は、照明と映像。
まさに、出演者に光を当てることである。

では、僕はお客さんを照らしていないのかというと、そうではない。
僕が当てた照明は、出演者という鏡に当たって、お客さんに届くのだ。
演者自身も光っているから、それは僕が当てた光と重なって、彼女たちの舞いや言葉や音に乗って、七色に揺れながら、お客さんに届くのだ。

力を合わせる、とは、ひとつのことをみんなで作り上げる、というのは、そういうことなんではないか。
そこには明らかに、僕ひとりでは出せない輝きがあるんである。

では、そろそろ準備をしなければ。
できるだけ暖かい格好をしていこう。