美しく楽しい日本語表現の仕組みとリスク。


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以前あるイベントで知り合った女性の方が僕のことをFacebookに書いてくださった時に、

「噺家さんみたいな話し方で緊張した(笑)」

というコメントを残していた。
僕自身は噺家という人の話し方を聞いたことがないのでよく分からないのだが、その噺家という職業には、さぞクールなイケメンの方が多いのだろう。
だからこそ、彼女も僕との対話で緊張を強いられたに違いない。
申し訳ないことをしたものだ。

今回の件だけではない。
僕は度々、話し方が独特であると言われる。
確かにお喋りは好きだが、そう言われるようになるまで、あまり自分がどう喋っているのかということを意識したことがなかったんである。

無意識で話していても注目を集めてしまうというのは、やはりそういう星の元に生まれたのだと思う他あるまい。
僕に注目をした者は軒並み僕に危害を加えてきているが(攻撃的な彼女様、変態の友人、爪の鋭い近所の野良猫など)、おそらく水面下には大量の隠れヤマモトファンが蠢いているのだろう。
美女、あるいは美少女のファンにもみくちゃにされる日がいつ来るのか、楽しみでならない。

自分がどのように話しをしているのかを冷静に考えてみると、僕は何かを話す前に、頭の中に文章を一度書き出しているということに気付いた。
高校生の頃からユーモアエッセイを愛読してきたからか、僕にとって日本語表現の美しさ、楽しさというのは話し言葉ではなく、書き言葉なんである。

一度頭の中で文章を起し、推敲し、それを滑舌よく感覚的に抑揚を付けて話している。
それが、僕にとっての、美しく楽しい日本語表現なんである。

美しく楽しい日本語表現には、いくつか条件がある。
まずひとつ目は、『人と違う視点を持っていること』だ。

これは深く考えると難しいように感じるが、何のことはない。
例えば、いつもダイエットに失敗している人ならば、

「痩せたいという欲求にその都度打ち勝っている鋼の精神の持ち主」

と表現するだけだ。
普通に考えれば非難の対象になりそうなことを非難していては、これ普通である。
普通は非難されることを絶賛するように表現するからこそ、そこに『人と違う視点』というものが生まれる。

ただし、ここで「ダイエットに失敗するなんて意思薄弱なダメなヤツだ!」という価値観を持っていると、美しく楽しい日本語表現は、実に容易く遠のいてしまう。
例えば、僕が夜中にチョコレートを食べながら

「今回もダイエットをしたい欲求に打ち勝つことができた・・・」

と胸を撫で下ろしていると、敵は必ず「私は一切の肯定を持たない」といった表情を維持しつつ、

「今包丁渡すから、それで10キロくらい痩せられるから。」

などとスプラッターなことを言う。
脂肪は無くなるかもしれないが、死亡して亡くなる。
落としたいのは命ではなく、腹の肉である。
キッチンから刃物を持って現れる彼女様は、実に堅牢な価値観でもって、美しく楽しい日本語表現を切り裂くのだ。

美しく楽しい日本語表現を嗜むためには、自分の価値観を可能な限りフラットに保つ必要がある。
「これはダメだ」という否定の感情が芽生えると、それは日本語表現どころの騒ぎではない。
いかに自分の意見の方が優れているかということに固執してしまっては、そもそも自分自身が純粋な言葉遊びを楽しむことができないではないか。

それ故に、仮に目の前の女が嬉々として自分の恋人(男性)あるいは亭主の悪口を語ったとしても、それに対して反論の意見などを持ってはいけない。
目の前に牛肉が出たからといって、今日もどこかで牛が屠殺されていると涙を流さないのと同じである。
我々はただ手を合わせて、犠牲となった命に祈りを捧げるだけだ。

軽薄にも反論などしようものなら、自分の亭主や恋人がいかに無能で低俗で軽薄なのかを延々と語られることになる。
打ちのめされた後に「どうして別れないのか」と聞くと、「あんたの彼女にも聞いてみたい」と言われる可能性がある。
そうすると精神的な再起動は困難を極めるから、やはり価値観は可能な限りフラットに保った方がいい。

そういう訳なので、僕はいつでもあなた(美女・美少女に限る)からのファン宣言をお待ちしている。
場合によっては密会なども検討するので(写真添付連絡の手続きが必要)、ぜひお気軽にお声掛け頂きたい。

なお、この募集は永年的に継続する予定であるが、特定の人物の目に留まった段階で告知なく終了する可能性があるので、予めご了承頂きたい。
場合によっては、僕の人生が終了する可能性もゼロではないのだ。

相当の覚悟を、ご理解頂きたい。