脳と世界のただならぬ関係〜美女よ来れ〜


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ドラマーとヴォーカリストでは、同じ曲を聴いていても全く違う聴き方をしている。
ドラマーはドラムをよく聴いているだろうし、ドラムに絡む要素をよく聴いている。
ヴォーカリストは歌と、それに絡む要素をよく聴いている。

何に興味があるのか。
何に楽しみや気持ち良さを感じるのか。
何を見つけようとしているのかで、音楽ひとつの聴き方も異なってくる。

人は常々常在的に自分が望むものに無意識にフォーカスを合わせて生きている。
分かりやすいのは仕事関係のもので、例えば僕はケータイ屋をやっていた時は、街を歩けば販売店や展示の仕方、接客やカタログの情報など、色々なものが気になって、目に入ってきていた。
それはつまり、「僕はケータイ屋だから」という自覚の上で、自分にとって「当たり前」の情報を選び取っていたということだ。

「幸せ」と「不幸せ」にも同じことが言える。

自分が「幸せ」だという自覚の上で生きている人は、自分にとって「当たり前」の情報、つまり、「自分が幸せな理由」をこの世界から切り取る。
自分が「不幸せ」だと自覚している人は、その逆をしているということだ。

カウンセリング業界や自己啓発の業界では「今この瞬間にあなたは幸せ」というフレーズを連呼するのだが、それはつまり、「自覚の矯正」、あるいは「ポジティブな自己洗脳」をしているということである。
脳科学者の茂木健一氏は、これを「脳を騙す」と言った。
メンタリストのDaigo氏が「認知的不協和」という言葉を流行らせたことがあったが、まあどれも同じことだ。

何度も繰り返し「自分は幸せだ」と口に出したり紙に書き出したりしていると、我々の脳は「幸せの理由」を探さざるをえなくなる。
脳は、そういう風にできている。
そういう役割を持った内臓なんである。

脳というのは僕たちが思っている以上にシンプルなのだ。
一流のスポーツ選手は試合前に自分が勝利するイメージトレーニングをやりまくる。
ボクシングの選手に大口を叩く人が多いのも、同じ理由からだ。

言葉を繰り返すことによって脳に「自覚」を植え込む。
どのような「自覚」を持っているかで、僕たちの世界は喜劇にもなるし、悲劇にもなるんである。

僕は楽しくハッピーに生きていたい。
ということは、「楽しくてハッピー」という「自覚」を持つにはどうすればいいのか、考えてやればいい。

やることは簡単だ。
ことあるごとに「楽しくてハッピー」と言えばいい。
「楽しくてハッピー」のハードルを、極限まで下げればいい。
そして、出来る限り「楽しくてハッピー」のハードルが低い人たちと一緒に居ればいい。
そうすることで、「そうか、これも楽しくてハッピーなのか」という発見があるからだ。

これさえ出来れば、僕たちはハッピーの達人になれる。
望むものが手に入るというのは、こういうメカニズムなんである。

ただ、なぜだろう。
これほど求め望んでいるにも関わらず、僕を養ってくれる優しくて働き者の絶世の美女は、未だに現れない。