大根で釘を打つ人


lgi01a201410180600


「ずっと大根で釘を打ち続けているのだけど、うまくいかない。
 なんとかしてもっと楽に上手くやりたいのだけど、大根以外の道具は使いたくない。」


こういう人が本当に、本当に山ほどいる。
僕は仲間の音楽活動のやり方にアドバイスをしたりすることがあるのだけど、その時にちょうどこのような話しになるのだ。

大根で釘は打てない。
カナヅチを使えばよろしい。

しかし、カナヅチを使うと指を叩いて怪我をするかもしれない。
あるいは、角度を間違えて釘が曲がるかもしれない。
っていうか、他の人はみんなカナヅチを使ってるんだから、自分は個性のために同じものは使いたくない。

という訳で、その人は変わらず、釘は打ち込めず、辺りは大根の欠片と汁にまみれる。

それは山本の教え方に問題があるのではないかという指摘の声が聞こえてきそうだ。
当然、問題はある。
しかしそもそも、大根を手放す気のない人には、知識以上の何かを注ぐことができないのだ。

変化する覚悟を持った人は、1の言葉を10にする。
変化を拒む人は、10の言葉を0にする。
大根を冷凍してみようとか、釘との間になにかを挟んでみようとか、そういう話しを求める。

しかし、答えは「カナヅチを使おう」なのだ。

人に、人を変える力は無い。
皆無である。
しかし、自分が認識する世界を変える力は無限に備わっている。

どうすれば大根を手放し、カナヅチを受け入れられるのか。
それは、1度カナヅチを使ってみることだ。

当然、上手くいかない。
大根とカナヅチでは、使用感も手触りもよっぽど異なる。
釘は曲がるだろうし、指を叩いて怪我をすることもある。

しかし、釘は進む。

少し練習して上手くなってくると、それが当たり前になる。
そうして初めて、「美しい釘の打ち方」という段階の話しができるのだ。

僕に人を変える力は無い。
音楽にも、人を変える力など無い。

君の中に君が変わる力があるのだ。
君の中に、音楽から力を生み出す心があるのだ。

日本の神道では、あらゆるものの中に神が宿ると言う。
「あらゆるもの」に神が宿るのだから、「君」にも神が宿っているということになる。

神社の本堂には殆どの場合鏡が置かれている。
賽銭を入れてガラガラとやって、手を合わせて感謝と願いを託して、目を開けるとそこには鏡に映った自分の姿がある。

「君」が「神」なのだ。
「神」なのだから、「何でも」できるのだ。
「何でも」できるのだから、「大根を手放してカナヅチを使う」ことだってできるのだ。

そのことに気付くだけなんである。
ボロボロの大根を何本も使って疲れ果てる必要はない。
大根のストックが無くなったからといって次の収穫の時期まで待つ必要もない。
打てど進まぬ釘を見て「自分には才能がない」などと愉快なことを言う必要もない。

もちろん、「大根で釘を打つ」ことも、「何でも」の中に含まれる。
しかし、それで上手くいかないから、今しんどいのだ。
「何でも」できるのに「やり方を変えたくない」というのだから、それはその人の考え方の問題なんである。

君の鏡に映るのは、いつだって君自身だろう。
君以外の人には、君を変えることはできないのだ。

僕はいつでも、「カナヅチを持とう」という歌を歌っている。
何か相談されると、やはり「カナヅチを持とう」というアドバイスをする。

飛び散った汁が目に入って、随分と痛そうじゃないか。
1度カナヅチを使ってみたら、どうだろうか。