不安の振り払い方

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僕たちは日々大変な不安を引きずって生きている。
同じことを繰り返す中にも不安を見出し、同じ人と付き合う中にも不安を見出し、新しいことをするためにも不安を見出す。

不安を感じる理由は実にシンプル。
「そういうふうにできているから」である。
太古、なんたらタイガーやら氷河期やらがやってくる度に身を守らねばならなかった遠い祖先の防衛システムが、僕たちの脳にバッチリ残っているのだ。

だから、不安を感じること自体は決して悪いことではない。
人として当たり前、むしろ正常である。

加えて、何に対して不安を感じるかということはまさに千差万別である。
恋人と会うことを考えるだけで胸がトキメクという者もいれば、どういった理由で怒られるか分からないから大量の言い訳を用意して逢瀬に臨む者もいるのだ(疑わしければ、僕を見よ)。

しかし率直に言って、不安は辛い。
不安に支配されている間は体が萎縮してあちこちが痛くなるし、よくない想像を繰り返している間は脳のメモリが食われるから頭も悪くなる。
場合によっては夜も眠れなくなることもあるだろう。

僕は生来の小心者であるから、これまで数々の不安に襲われてきた(今なお襲われ続けている)。
そのため、「安定した生活」や「確実な成功」といった言葉にすこぶる弱い。
手に入れられるものなら、手に入れたい。

しかし、ふとした時に自分の本質が「変化を求めている」ことを強く感じるんである。
それは勤めの中で自分の成績が変わることもそうだし、日々の生活の水準が上がることもそうだ。
周りの人間関係が良好になることもそう。
「より良い変化」があると、僕はそれはもう嬉しくなって、すっかり張り切ってしまうんである。

「安定」とは、「変化しない」ということではないのだと思う。
自転車でもバイクでも、前に進み続けているから倒れず、安定していられるのだから。

「不安」とは、「足を止めた瞬間に襲ってくるもの」だと思う。
それなりの給料の貰える仕事をしている時は、明日の夕飯を心配することはないのだから。

それを考えると結局のところ、「より良い変化を目指し続ける」ということができれば、僕たちは(少なくとも僕は)不安に襲われることがないのだ、ということになる。
これは実際正しくて、何かひとつものごとを初めてみた時に、それを実行に移すまでは不安で不安で仕方がない。
しかし、実際に行動に移してみると、どうしてこんなことで悩んでいたのかと笑ってしまうくらい、不安は消えてなくなるんである。

確証はない。
保証もない。
そんなもの、初めからどこにもない。

それなら、ひとところで立ち止まって不安に震えているより、バランスを取りながら前に進み続けている方がずっと楽だ。
「不安」とは、「停滞のサイン」なんである。

この話しを彼女様にしてみたところ、意外にも「実はうちにも不安がある」という答えが返ってきた。
人を不安にさせることについては人後に落ちない女であるから、まさか当人が不安を感じているとは思ってみなかった。
ちょうど、スタンガンが感電を恐れているようなものだ。

しかし、その矛盾こそ人間である証なのだろう(彼女様が人類であると仮定して)。
僕は大らかな心と疑いの目を向けて、優しくこう言った。

僕「どんな不安なんだい。言ってみるだけでも、楽になるかもよ」

彼女様「お前と一緒にいること」

新たな不安が芽生えた。