三十歳の一周忌

もう一年が経つのだ。
母方の祖母が亡くなって、一周忌の法事であった。

写真 2015-09-13 11 55 17

この日僕は30歳になった。
なるほど、30歳の風景というのは10歳の時のそれとなんら変わらない。
むしろ色々なことを知った上で好き放題するようになっているのだからタチが悪くなっていると言える。

祖母の法事は賑やかに終わっていった。
亡くなった人が生きている人を集めるきっかけになるのだから、死にまつわる催事というのは何度経験しても興味深い。
毎回徳のない坊さんがお経を上げて、終わったらみんなでブツブツ文句を言うのが一連の流れである。

母方の家族は女系で、実に元気が良い。
山本家は男系で親戚が集まってもそれほど賑やかにならないのだが、こちらの家族は集まる度にキャイキャイと大騒ぎである。

こういう時何の役にも立たない男衆は部屋の隅で「そこに座っていなさい」という女傑たちの無言の令に従う。
おっつぁん達は寄ればゴルフの話しだから、ゴルフをしない僕はせっせとこうやって記事を書いているというわけだ。
そうやってゴルフォっつぁん達の隙間でじっとディスプレイを眺めていたら「母の親戚達は全員引き笑いをする」という至極どうでも良い事実を発見した。

祖母が逝って僕たちは一年を過ごしたが、祖母はどうだろうか。
徳の無い坊さんは「死んだ人の時間は止まる」などといった話しをダラダラとしていたが、生きていても体感時間は伸びたり縮んだりするのだから、止まると言われてもいまいちピンとこない。

そもそも祖母という個はまだ存在するのだろうか。
僕の中にいる祖母は「ええわいしょ」などと言って足元のシロを愛おしそうに眺めていて、それは見事に祖母個人である。
それとは別の僕の理解の及ばない場所に祖母がいて、その個がまだ存在していたりして先に逝った家族達と再会したりしているのだろうか。

確認のしようもない。
ということは、あまり考えなくてもいいのでしょう。
そういうことにしてぼけっとしていたら「よくじっとしていられたな」と女傑たちから堂島ロールが振舞われて、われら男衆はあまいのううまいのうと口角に生クリームの髭を付着させたのであった。

そのうち一人また一人と参列メンバーが帰り始めた。
チーム高齢の皆様は「わたいらもいつ死ぬか分からんでえ」などと言って笑っている。
きちんと見送ろうと思う。
なんてことを思ったら、そういえば30歳になる前に死んじゃうヤツも大勢居た訳で、なんだ僕も立派に生きているではないかと少し元気になった。

窓の外を見ると早くも日が傾き始めている。
今15時だから田舎の涼やかな気候を考えてもやはり秋なのだと、ここでもまた時の流れを感じたのだった。