専門家の言葉は分からない

誰にでも分かる言葉というのは難しい。
僕なんかは自分の好みでわざわざ簡単に言えることを小難しく言ったり書いたりすることが好きなものだから、「誰にでも分かる」はわが嗜好の対角線上にあるように思う。

しかしパソコンのような電子機器やインターネットのプロキシやら何やらという専門用語の羅列に相対すると、「もう少し誰にでも分かるように書かなければ意味がないではないか」と憤慨する僕がいる。
難解な技術書やマニュアルに向き合ってGoogleで解説を探したらそこでも謎の言葉が現れてさらに検索して…といった荒業に快感を覚える特殊性癖でもあればいいのだろうが、そんな変態さんを想定して書かれたものが技術書やマニュアルと呼ぶのはアンタ、いくら何でも仕事サボり過ぎじゃないか。



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このように、人間その時その場の立場ひとつで意見が大いに変わるものだ。
禅の世界ではこれを「日々是新」と呼ぶそうだが、きっと禅僧も専門用語がぎっしり詰まった取り扱い説明書などにはかァーーーーツ!と一発入れたくなっちゃうに違いないのだ。

禅僧でさえそうなのだから、正座なんかやっちゃうとものの5分で下半身麻痺状態に陥る我々俗人は、その場の怒りに飲み込まれて当然であろう。
そんな俗世を生きるに当たって大切なことは、やはり「相手にとって分かりやすい言葉」を選ぶことではなかろうか。

例えば、農業を営む人には草木土水に例えて語る。
接客業を営む人には人の視線や身振りなどに例えて語る。
自分の中に専門的な知識がなくとも、相手との共通言語を探る努力をする。
これがあるだけで、コミュニケーションは実に潤滑になる。

「専門性」とは深い縦穴のようなものだ。
その奥を覗いた者はえもいわれぬ恍惚感に陥って気持ち良くなれる反面、広い視野や見聞といった他者との共通言語を見失いがちである。

私は何の専門家でもないと言う人もいるかもしれないが、それはない。
人間誰しも「自分」の専門家なのだ。
その経験、その価値観、その論理は、自分だけのものだ。
違う親の元に生まれ、違う人間関係の中で育ち、違うものを食べて違う歌を歌い違う風景を見てきた人間が、同じ訳がないではないか。

僕らは時々そのことを忘れて、気遣いの面倒を回避する理由に「常識」だとか「普通」という言葉を引っ張り出す。
「これが社会の常識だ。」「これくらい普通にできてもらわないと。」そんなことを言う度に、何か大事なものがすり減ってゆく。
それはきっと相手との信頼関係や、この先築けたかもしれない幸福な未来なのだろう。

毎回とは言わないし、相手にしなくても良い人というのは確かにいる。
だけどまずは、目の前の人に理解して貰えそうな言葉を選ぶ。
いつまで経っても、どんなに大人になっても、やっぱりここから始めてゆきたい。