いつか極小の海底で

今「動き」というものに大変興味を持っている。
僕らは生きている限り、止まることがない。
坊主が座禅を組んでいる時も、パントマイマーが微動だにせず立っている時も、変態がギチギチに縛られた状態で熱い蝋が落ちてくるのを待っている時も、身体はごくごく微細に「動き」続けているんである。

そして、「動き」は「感覚」に密接に関わっている。
試しに視界の外で握りこぶしを作ってみていただきたい。
筋肉や骨の動きを感じて、「これ握りこぶし作ってるわ」という感覚があるだろう。

で、試しにその握りこぶしをこう、ぐぐぐぐぐっと握り込んでみてほしい。
少し心の視界が狭くなるというか、頑固さが増すというか、そういった固定的で、お堅い方向に、意識が変わらなかっただろうか。
何が言いたいかというと、「動き」は「感覚」となって「心」を作っているのだ、ということである。

「動き」が先。
「心」は後。

これ、テストに出ます。

◆◆◆

心の自由や、精神的な価値観が叫ばれて久しい昨今。
僕だって鬱やったり色々したところから戻ってきた男である。
心の世界については並々ならぬ興味があるし、これまでだって自分なりの理解や解釈はあったのだ。

ただ、これが何か、とても大事なものが抜けている気がしてならなかった。
どれだけその界隈の有名人の本を読みあさり、音声や映像に耳を傾けても、その「足りない」感覚は埋まらなかった。
「足るを知れ」という言葉を理解するための決定的な何かが足りないという、禅問答のような事態に陥っていたのである。

その「不足感」昨今解消された。
足りていなかったのはズバリ、「体感覚」だったのでした。

◆◆◆

「体感覚」というのは言葉の通りで、先ほどの握りこぶしの話しと同じことを言っている。
僕たちの筋肉には収縮を感じ取る神経が通っている。
緊張が緩んだ時には血管が広がり、暖かい血液が流れるのを感じ取ることもできる。
そういう、目に見えない内的な動作を感じ取るをれを、「体感覚」と呼ぶのです。
あ、「筋感覚」って言ってる人もいたかな。
まあつまり、そういうことで、そんな訳で、「足るを知る」には「ほんまや足りてるわ!」という体感覚が必要なんである。

◆◆◆

面白いことに、この体感覚というやつは、意識や状況が近い者同士であれば、共有することができる。

素晴らしい音楽を聴いて、魂が震えたことはないだろうか。
素晴らしい詩を読んで、涙があふれたことはないだろうか。
素晴らしい議論を通して、心が通じ合ったことはないだろうか。

これら全て、体感覚の共有によって起こっている。
これが「共感」の正体である。

対して、「反感」という言葉もある。
体感覚の反発・・・と言いたいところだが、実際は各々の観念によるところが大きいので一般的に語ることはできない。

まあ色々ダラダラと書いてきたけれど、長い充電期間を経て音楽を再開した今、「心は動きありき」という価値観が、僕の中に大きく根付きつつあるのだ。
音楽という形のないものと寄り添わんとする時、動きを通して心を見つめていく作業は、僕を深く満たしてくれる。

もっと深く、この幸せな海に沈んでいきたいと思う。
力を抜いて、身体と心のあるがまま、音と言葉の響きに身を委ねて。
そうやっていつか辿り着く極小の海底で、あなたとお会いできる日を楽しみにしている。