都知事選をネットとテレビで見ていて感じた「平等」の意味。

舛添さんが都知事に就任したというニュースを聞いて、酷く驚いた。というのも、TwitterやFacebookに舛添さんのネガティブな情報がわんさと流れていたからである。

・度量が狭い。
・被災者を馬鹿にしている。
・演説に人が集まらない。

などなどなどなど。

それでいて、開票してみると二位の細川さんに倍差をつけての勝利であった。んもうネットはどこを向いても批判しか転がっていなかったから、何かの冗談のように見えたほどだ。

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この件について考える機会があったのは、自宅で優雅に食後の珈琲などを頂いていた時だ。都知事選のニュースを見ていた父と祖父が

父「見てたら、舛添さんって気がするなぁ」

祖父「せやろかえ(そうだね)」

という話をしていたのである。父は多少ネットを使うようだが、祖父は完全にテレビや新聞からのみの情報を自らの判断材料としている。リテラシー意識って何さ、というお二人だ。

そこで、いくつかの疑問が生まれた。

父と祖父は他の立候補者のことを知っていたのだろうか?ということだ。

例えば家入さんなどは、少なくとも僕が見ていたニュースでは『起業家』としか表記されず、どのような理念信念でどのような会社を起こしどのように運営してきたのか、という報道が全く目に入らなかった。

そしてこんなことを言っている僕でも、マック赤坂さんや鈴木さんがどういう人物であるのか、全く知らないのだ。

多くの方との関係の中で事を成すためには認知度がモノを言う。そんなことはフリーランスのミュージシャンをしている身であるから大いに理解している。まず知られなければ、善し悪しの判断さえされない。知られたら、次は何をどう伝えるか、という話が待っている。これは古来から変わらぬ人の世の真理である。

平等とは何か。
公正とは何か。
認められるとは何か。
選ばれるとはどういうことか。

それはそのまま、ミュージシャンという生き方を選んだ自分達への問い掛けでもある。

知らないことは学び、出来ないことは修練し、息苦しいのならその原因に迫って解決を目指せばいい。

そんなことを思い生きていても、こういった巨大な第三者の介入があまりに圧倒的に見えてしまうことがある。それがまさに、今回の都知事選であった。

しかし

マスメディアは大変に大きな情報発信能力を持っているが、それ故に視点が固定的過ぎるのではないか、一部の人間の都合が反映された編集ではないのかと思うと、真っ直ぐ受け止めてよろしいものかと躊躇してしまう。

対してネットは大いに自由で多角的な視点が含まれるが、それ故に信憑性が低い。また″伝える力″の弱いユーザーの情報は、それがどれほど良い内容であったとしても、伝わらないし伝わってこない。

これが、現在の僕の感じている素直なところだ。

結局、事実というものはそれを受けた人の視点や価値観に偏る。仮に僕が都知事選の全てを知ったところで、その事実は僕の視点や価値観に偏って情報に変換されるんである。それは誰の何にとって公平で、平等であると言えるだろうか。様々な事柄は僕たちが思っている以上にグレーで、人の数だけ偏りがある。人を伝って伝わってきた情報は、既に大いに偏っているのだ。

それでも、万事は今回の都知事選のように、決定し、流れて、過ぎてゆく。躊躇していては老いて死ぬだけだ。今自分の手元に何があって、何ができるのかをしっかり考えて、実行しなければ。

というか、何かを持っているとかいないとか、出来るとか出来ないとか、そういう判断が既に幻想なのだろう。不安に根拠が必要無いように、自信にも根拠は必要無い。それなら僕は根拠の無い自信を持って、未来には希望があると仮定して生きていたい。

一人ひとりが能動的でいることが、本当の意味での平等であると信じる。

そして僕の大切な仲間達が日々戦っている東京が、あらゆる意味でより良い街になってゆくことを心から願っている。