家族が笑顔になっている未来のビジョンを無視することにした話し

ゆうさく
ゆうさく
男性用ブラジャーに今更興味が湧いていることを告白しておきます。

住まいの近くに新しい家が建って、若い夫婦が引っ越してきた。ずっとただの箱だった場所に人がやってきた途端、箱は家になった。玄関に置かれた小さな植木鉢やアスファルトに擦り付けられた泥の足跡が、主人の存在を声高らかに宣言している。ここは彼らの聖域なのだなぁ。おめでとう。おめでとう。

そんな気分で歩いていたら、足元に落ちていたドングリを知らずに蹴っ飛ばした。ドングリはチチチッと軽い音をたててはずみ、敷地内に突入。敷石を渡り、玄関先のちょっとした草むらで静止した。

若い夫婦の聖域に「いやこりゃ失敬!失敬!」などとのたまいつつ、ずずずいと割り込む自分の姿が思い浮かばれた。なんか、ごめん。

アメリカンバイクは本当に僕の夢か

その家には乗用車が一台停まれる駐車スペースがあるのだが、車ではなくバイクが停まっている。ふだんはカバーを被っているのだけど、先日偶然風でカバーが外れているところを見た。アメリカンタイプのバイクだった。

僕はバイクに暗いので、車種もメーカーも全然わからない。最後にバイクに跨ったのは、確か10年ほど前だ。友達の森山さんが「乗らない原付があるけど、乗るか?」と言ってくれて、ホンダのマグナ50というアメリカンバイクっぽいマシンを借りたのだ。

スピードが出ないくせに車体は重く、一般的な原付より長くて広い、扱いにくいヤツだった。当然カゴもなく、足元には空間の代わりにエンジンが搭載されていたから、買い物の助けにもならなかった。ガソリンメーターがないからガス欠に気付かず、仕事終わりの疲れた体でガソリンスタンドが見つかるまで何キロもハンドルを押して歩いたのは一度や二度ではなかった。

それでも乗り続けていると愛着も湧いてきた。長い休みを取ってチンタラと千葉の九十九里あたりまで走りにいこうかと思っていた矢先、自宅で盗難に合った。警察を呼んで現場検証をしてもらったけれど、近所に悪い高校生グループがあって、彼らが本体を盗んでエンジンを引き抜いて売っ払ってしまうので、おそらく出てくることはないだろう、ということだった。

あれ、そういえば森山さんにバイクが盗まれたことを伝えていたっけ。

…。

はい。


森山さんに対する罪悪感をあざやかに払拭しつつ、僕は黒光りするアメリカンバイクに目をやった。明らかにマグナ50ではない。黒くて大きいから。分かるのはそれくらいだ。

刹那、僕がアメリカンバイクを押している隣りで妻と息子が笑っているイメージが見えた。実に爽やかだ。あまりに爽やかだったので、自分の中にこのような爽やかが隠されていたことに驚きつつ、押していたバイクが盗難車でないことを祈った。

とにかくそんなことだったので、もしかしたら僕は近い将来アメリカンバイクのオーナーになり、妻と息子の笑顔をバックにさわやかにハンドルを押すのかもしれないと直感した。

直感したのだけど、「ちょっと待て」と。確かに爽やかなイメージは見えたが、本当にそんなことがしたいのかと。そしてはたと気付いた。僕が見たイメージは第三者の視点であって、僕の主観ではない。バイクの後ろにいる妻子の表情は読み取れるが、バイクを押している自分の表情は見えない。なんだか、雲行きが怪しくなってきた。

バイクを押している僕はぜんぜん幸せじゃない

さっそくイメージの主観を第三者から自分の眼球に戻した。するとどうだ。僕の後ろで笑っている妻と息子の姿は一切見えない。だって後ろにいるんだもの。

バイクの全景が見えないことにも気付いた。目に飛び込んでくるのはハンドルのパイプや何かのメーターばかりで、せっかくのイカしたシルエットは一切見えない。

さらに両肩と腕に強い力みを感じた。バイクは重いのだ。マグナ50という小ぶりなバイクだって、ガス欠で押している時は地獄の手応である。アメリカンバイクなんて巨大なものを押していたら、僕は丸太をぐるぐると押し続ける奴隷のような気分になるに違いない。

そう考えたら、客観的なイメージの時に見えていた妻と息子は、僕が苦しんでいるところを見て笑っているのではないかという可能性が出てきた。妻は分かる。そういう女だ。息子よ、お前もか。まぁ、妻の子だものな。ぐすん。

結論。僕の人生にアメリカンバイクはいらない。

この判断は本当に正しいのか

直感に従って動けばいい。心からそう思う。しかし直感はアホほど落ちてくる。とてもじゃないけど全部やっていられない。

だとしたら、落ちてきた直感の中からGoするものを選ぶ基準が必要だ。僕はそれが「ワクワク感」ではないかと思う。

特に今回のような「何かを手に入れる系」の直感は、「手に入れた後の姿」を強くイメージすることが大切だ。それも主観的に、である。

だって、それを手に入れるまでの時間より、手に入れてからの時間の方がずっと長いのだ。手に入れた後のイメージを想像して、気分を味わって、ワクワクするかどうかの吟味が必要だ。

繰り返すが、直感は直感を受け入れる準備ができている人のところにはバカバカ降ってくる。アホでバカだ。うるさいったらありゃしない。

そして直感の内容は、実は現在の自分の心身のコンディションや傾倒している考え、周囲の環境などの成分で構成されている。不幸にフォーカスが合っていた時に降ってきた直感には、不幸が混ざっているかもしれないのだ。

だからできるだけフラットな気分で、軽やかに吟味することが必要である。その直感が叶った世界に、僕はワクワクするのか。あなたはワクワクするのか。

どうせ直感の正誤の検証などできない。できたと感じても、その時その場所のコンディションと考えと環境をベースにした判断なのだ。時と場所が変われば、その判断は変わってしまう。

そんな曖昧なものを追いかけるより、やると決めるか、やらないと決めてしまう。僕はアメリカンバイクを手に入れるより、ブログのネタにすると″決めた″。

正しいか、間違っているかではない。それでいいのだ。