ハッピーに生きるために必要な絶望の話し

ゆうさく
風邪気味だったから義実家で葛根湯をもらってたんだけど、出てくる葛根湯がどれも種類が微妙に違って、食前に飲むものもあれば食感に飲むものもあって、翻弄され続けてるなう。

何十年か人間をやってると、大なり小なり絶望と出会う機会があるものです。それは悲しくて、辛くて、苦しいことです。できることなら、出会わずに済ませたいものです。

ところが、僕たちがハッピーに生きていくためには、この絶望がどうしても必要なのです。むしろ、絶望のない人生がハッピーになるはずなどないとさえ思います。

どうして不幸の代名詞である絶望が、ハッピーな人生に必要なのか。今回の記事ではそんなことを考えてみます。

絶望とは「求めていたものが手に入らないことが確定した」ということ

絶望は「望みが絶たれる」と書きます。もうとょっと砕いて言うと、「求めていたものが手に入らないことが確定した」ということでしょうか。

「求めていたものが手に入らないことが確定した」のだから、悲しいし、辛い。それはとても自然なことです。あるべき感情です。

悲しくて辛いことはしんどいですが、求めていたものが手に入らないことが確定したと」いうのは、落ち着いて考えてみれば、悪いことばかりではありません。いいことも沢山あるのです。

そのうち最も大きないいことのひとつが、自分の限界がひとつ見える、ということだと思うのです。

僕の絶望。テレアポ社員とミュージシャンとしての失敗

ある領域で求めていたものが手に入らないことが確定した…例えば、勤めていた会社で芽が出なかったとしたら、どうでしょう。

僕は、某通信大手の携帯電話補償サービスのテレコミュニケーターの仕事をしていたことがことがあるのですが、一年も経たずにノイローゼ状態になって、次の仕事に転職しました。

始業と終業の時間がはっきりしていたことと、マニュアルワークだったことで体力を温存して、ネットでビジネスを作る時間を捻出しやすいのではないか。あと、声だけの接客でどれだけお客にいい気分になってもらえるか実験してみよう、とか、沢山の期待がありましたが、ダメでした。

上手くいかなかった理由は、僕が人と話しをすると疲れてしまう人だった、ということです。

また、雑魚メンタルなので、終始怒鳴っているような人からの電話を受けると、最高に疲弊してしまうということもありました。でもテレオペはスタッフに本数を取らせてナンボなので、しんどい一本が終わったら、すぐに次の電話の待機に回らなければなりません。

普通に話しても疲れる。怒ってる人に当たると最高に疲弊する。そんな時間が毎日確実にやってくる。僕はあっという間に疲れ果てて、当初この仕事を通して叶えたかったことが全てご破産になりました。つまり、絶望したわけです。

もうひとつ、僕の絶望の例を出します。僕は10代の前半くらいからミュージシャンになりたいと思っていました。それで実際に勉強と練習を積み上げて、20代の半ばくらいでフリーのミュージシャンとして独立します。

ところが、これも1年ほどで廃業しました。理由は、営業が苦手だったこと。あと、人が多くて賑やかな場所が苦手だったことです。苦手な人の多い場所を作るために、苦手な営業をしなければならないという二重苦でした。こんなもの、続くわけない。

音楽は10年越しの夢でしたから、廃業した時は本当に空っぽになりました。何もかもなくなって、真っ白になったGoogleカレンダーを眺めたまま、まさに絶望していたことを、昨日のことのように思い出せます。

しかしこの2つの絶望が、次の希望を運んできてくれたのです。

絶望が見せてくれた、自分というツールの輪郭

テレオペとミュージシャンの失敗という2つの絶望が教えてくれたのは、僕はどうしようもなく内向的な人間だ、ということです。

営業もダメ。人が多いところがダメ。そもそも人と話すのがダメ。そんな風に自分がつまづいた点を繋いでいくと、自分の輪郭がよく見えてきました。

さらに、諦めたはずのテレオペやミュージシャン業の中でも、得意なことがあったことにも気付けました。

例えば、テレオペは2つのPCと3つのディスプレイを駆使して、顧客情報を参照しながら補償サービスのシステムを操作する、という作業が求められたのですが、そういったシステムの仕組みやマニュアルを覚えることは、同期の中では最速でした。

ミュージシャン業の方では、自分の音楽はそっちのけで、仲間のミュージシャンや、彼らの楽曲をブログを通して人に紹介するのが得意でした。

面倒くさいほどナイーブで、引っ込み思案で、一人が好き。そのくせ自分が気に入ったものは黙々と飲み込んで、それがいかに素敵かを語らずにはいられない。

それが演出のない僕という人間の、あるがままの姿でした。「こうありたい」という理想ではなく、「こうである」という事実。それが分かったから、僕は改めてスタートを切ることができたのです。

絶望の先に必ずあるもの

自分という人間を測り間違えていた僕にとって、絶望は死にたくなるような劇薬でした。同時に、自分という人間の正しいスペックを知るための良薬でもありました。

これで、やっと自分というツールを正しく使う準備ができた。搭載されていない機能を嘆く必要もないし、無理やり導入する必要もない。

ちょっとややこしい言い方ですが、自分というツールを使う、僕というユーザーが賢くなった、という感じです。今僕は、このツールを、もっと上手く、正しく使うぞ、という気概に溢れています。この感覚にも名前がありますね。希望、だと思います。

たぶんこれからも、僕は大小沢山の絶望と出会います。それ自体はすごく怖いことです。けれど、その絶望をなぞった線を追えば、今以上に自分というツールを上手く使えるようになることを、もう知っています。絶望の先には、必ず希望があるのです。

だから、安心して絶望できる。だって、どうせ僕らは幸せになるのだもの。

あ、あと多分なんだけど、絶望の理由を他人や環境に押し付けるタイプの人は、幸せになれない気がする。僕がテレオペやミュージシャンで失敗した理由をお客さんや環境のせいにしてたら、きっとまだ自分が内向型の人間だったっていうスタートラインにも立ててないと思うし。

だからって、自分のことを責めればいいのかというと、そういうわけでもないし。その辺のことは、また別の機会に記事にします。では、今回はこの辺で。アデュー。