理解と心情のつながりと、やっぱり理解できない猫の言葉。

人は自分が理解できないものを見下すか遠ざけるという性質を持つ。理解できない、ということそのものがストレスであるし、自分が理解できないのをいいことにダマされてしまうのではないかという不安が生じる。医療問題などが深刻化するのは患者の家族と医者の間で知識にあまりの差があるからであるし、政治家が嫌われるのもその理由による所が大きい。

といった事柄を踏まえた上で、いかに自分が理解できないことを受け入れるか、ということが大切なんである。

例えば政治家の話でいくと、彼らのことが信用できないのなら、自分が政治の勉強をして政界に乗り出せば良い、という正論がある。しかし、殆どの人がそうはしない。それには「ただ攻撃する対象が欲しいだけ」「理解できないから見下しているだけ」「口を突く不満は実は隣にいる亭主への意見である」といった様々な心理的な理由があるからだ。

そこで、こう考えることにする。『彼らは、政治を理解し良くしてゆくための実行をしてこなかった自分に変わって政治を回してくれている。自分が放棄した政治という責任を背負って働いてくれている。その上、我々には選挙という権利まである。』

こう考えると、彼らの色々について肯定的でいられるものである。当然言葉は行為を鵜呑みにしてよい、という意味ではない。彼らの発言や行為が自分の価値観に反するものであったなら、それは次の選挙で投票しなければいい、という話になるだけである。大切なのは、相手をリスペクトしつつ、自分なりの監視と正当な評価を向け続けることである。

この事に気付いた僕は居ても立ってもおれず、しかし彼女様に電話をしてはまたいつものようにぶった切られてしまうから、麗らかな春の日差しの中で温もりを満喫していた猫のポンちゃんに話し掛けてみた。

僕「相手が理解できないというのは、安直な批判に繋がるんだよ。」

ポンちゃん「んなぁー」

僕「だから、相手を理解できない自分に非があると考えるんだ。」

ポンちゃん「んなぁー」

僕「そうすると謙虚になれて、心が安らかになる。」

ポンちゃん「んなぁー」

ポンちゃんが何を求めているなかサッパリ理解できない。所詮は猫ということか。

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ポンちゃん「んなぁー」