毎日たくさんの文章を書いていて気付いたことと僕が電話を切ることもあるという話。

僕は今毎日ブログを2本書き、Facebookページを3つ管理している。文字数などカウントしたことはないが、それなりの文量を毎日書いている。それに加えて本格的にメールマガジンを始めるために、最近は仕事の合間をぬってメルマガの原稿をせっせと書いている。文字を書くことが好きだから出来ているのだな、納得しつつも、自分がミュージシャンであることに自身が持てなくなってゆく次第だ。なんかもう、そういうカテゴライズ、いいんじゃないかな、別に。

ともかく、毎日それくらいの文量を書いているから、不意に思うことがある。それは、そもそも「書く事」というものは、自分の中などには無いのではないか、ということである。

例えばこのブログ。僕はテレビやネットで見かけたニュースや、その日の生活の中でしたこと、考えたことを切り口にして記事を書き始める。この何を切り口にするかの「何」の部分は、例外無く外部刺激である。

・おじいちゃんに畑でこき使われた
・日本の総理大臣は誰がやっても文句ばかり書かれている
・山の色が日々移ろっている
・机に積み上がる請求書の束が毛根によくない
・ブラザーちゅわさんのイビキを録音加工するとコントラバスのような音になる

などがそうだ。

もちろんしっくりこなくて途中で辞めてしまうこともあるから、その時は別の切り口を探す。それは業界向けのニッチな情報を発信しているもうひとつのブログでも、各Facebookページの更新でも変わらない。物理的なものであれ、感情的なものであれ、精神世界的なものであれ、それらを見つめ感じている自分自身の核にとっては、あらゆる事柄は外部刺激である。それをいくつ感じ取れるか、いくつ記憶しておけるのか、ということがヒトの役割りであって、やはり美しいものは、我々が何かせずとも既にそこに在るのである。

このことに気付いた僕は、気まぐれにブログを書いては放置し、を繰り返している彼女様にひとつ説教をすべく、電話をした。

僕「刺激は常に自分の外側にあるんだ」

彼女様「それは間違いないな」

僕「今日ややけに素直じゃないか。何かあったんですか?」

彼女様「自分の外側の刺激に晒されたんや」

僕「どんな風な?」

彼女様「エス〜最後の警官〜っていう実写ドラマの主人公の向井くんと綾野くんが完全にカップルでお互いの背中を守るために足を交差するシーンを見た瞬間に公式の罠に気付いてでも気付いた時にはもう落ちてて落とし穴の底の竹槍で穴だらけになってて大急ぎで」僕「(ガチャ)」

気付かなくてもいい刺激もある。

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こういうことをしえ満足してるのかと思ったら、僕も知らない鍵付きの腐ったアカウントもあるとのこと。やっぱり知らないでいいこともたくさんある。

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