最近王道嫌いが薄れてきた理由を考えたらすごい真面目な感じになった。

僕には王道を嫌う性質がある。例えばいちばん好きな怪獣はビオランテだし、仮面ライダーは主人公よりもサブライダーに愛着が湧くし、ポケモンの御三家はプレイ開始15分後にはパソコンの中に片付ける。

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ビオランテさんフロムゴジラ。

そんな僕の王道嫌いが、昨今、解消されつつある。例えばフューチャーフォン時代はその当時売れていない機種の中から気に入るものを手に入れてしまうという手法が主であったのだが、スマホに切り替わってからはiPhone一本である。パソコンもMacBookに切り替わり、自分の価値観よりも人の価値観を大切になるようになり、フックの効いたニッチな楽曲作りからスタンダードでシンプルな楽曲作りに変わった。

こういった背景には、僕の中に起こったひとつの事件がある。それは、自分の世界を守ろうとするよりも、誰かの役に立つことにエネルギーや時間を使った方が、楽しかったということだ。

そもそも、そのきっかけは音楽ではなかった。厳密には音楽とは関係があるのだが、その本質は商いであった。その商い事は自分で使うためではなくて、仲間のために使うために学んだ。それが、最高に楽しかったんである。楽しかったと同時に、実に使命感を感じたものだ。

そう、使命感。生まれてそのかた自分の安全地帯を守り認めさせることに躍起になっていた僕が、初めて感じた感覚であった。

何が才能でどれが努力であるのかは分からない。とにかくそういった経験を経た数年間で僕が得た教訓は、自分のために起こす行動と他人のために起こす行動とでは、自分の中から出てくるエネルギーの質と量がまるで違う、ということだ。そしてこれは、多くの人にとって共通であると考えている。

どうしてそう考えるのかというと、そもそもこの世に存在するものは、それが何であれ他のものに貢献するという役割りがあるからだ。海からイカが消滅すると小魚と大型魚の間を繋いでいる食物連鎖の鎖が外れ、たちまち海の生態系は崩れるという。野原からミツバチが消えてなくなると、植物は受粉できなくなりその殆どが死に果てるという。

人間も自然の一部である以上、そういった貢献の役割りを担って生きている。

生態系という大きな括りの上でもそうだが、とても複雑な営みをする生活の中においても、人と人というのはお互いに貢献し合うことで生きている。

たとえば、僕が警備会社で働いていた時のことだ。

僕が仕事に出掛けることで、会社のお客さんと、その会社からお代を頂く会社、僕という労力を提供してもらえるお客さんが何らかの形の利益を得る。

さらに、僕が交通整理をすることで資材の半出入をする職人やドライバーがスムーズな荷物の受け渡しができ、親切丁寧な近隣対応をすることでその近隣さんの不満や悶々としたものが解消され、現場の監督の精神的な負担が減る。

さらにさらに、移動に電車を使うから鉄道会社が利益を得て、食べ物を買うスーパーやコンビニが利益を得て、近所の自動販売機の売り上げが上がる。道行く車が危険に晒されることがなくなり、新人警備員が仕事を覚え、ベテラン警備員が楽をして、お喋りが好きなものだから僕と気の合う連中は大笑いができる。

そうして僕が貢献していった全ての人が、同じようにその人の一日の中で他の人に貢献し、時にはお金で、時には気持ちで、時には何か他のもので利益を交換しながら、いきている。

人は、互いの貢献の中で生きている。それこそが、人はひとりでは生きられないという言葉の真意である。そして、掛け値なしに誰かの役に立って感謝された時のことを思い出してもらえれば分かると思うのだが、誰かに貢献するというのは、大変に嬉しいことなんである。

話しを元に戻そう。

結局のところ僕の王道嫌いが薄れてきたのは、王道が最も人に貢献できるという実感を、この何年間かを通して実感してきたからである。それは決して少数派を見捨てた、などという情緒的なものではなく、単にミュージシャンという商人として生きていくために最も有効な手法が板に付いてきた、ということだ。

だからもしかしたら僕のことを随分と変わってしまった、と思って見ている人もいるかもしれないが(それほど酷かったのだ)、僕は断じて少数派の味方である。多数という無難に甘んじず、自分の感覚に従順で居られる人は少ない。

そしてそれは、表現に関わっている関わっていないに関係無い。人の感性というのは、突き詰めれば突き詰めるほどに孤独である。僕たちは同じ大きなものを見つめているかもしれないが、をれを見ている窓は自分だけのものだ。誰かと同じ窓から大きなものを同じ窓から見つめていることは、ありえない。

そして、何度も言うが、僕にとっての仕事とは、誰かに圧倒的に貢献することである。であるから、そりゃあ色々勉強しているが、それは全て貢献のための手だてである。僕の音楽や文章に触れて幸せな気持ちになれる人に、僕は自分の音楽や文章を届けなければならない。そしてそれを続けてゆくためには、お金が要る。それだけのことなんである。

自分の貢献を信じることは、相手の喜びを信じることだ。そしてより多くの貢献を放つ人が、必要とされる人になれる。

誰かに必要とされるためには、相手の喜びを信じなくては。

・・・ううむ、最近重い話しが多い。明日は気持ちよくエッセイでもしたためよう。

では、最後までお付き合いありがとう。