希望とは思い出すもの

やらないといけないことはあるのだけど、どうにも胸元がざわざわしてきたので、色々整理するために新百合ヶ丘のカフェコロラドでキーボードを叩いている。ここしばらくの間に色々な変化があって、その変化にもう身を任せてしまおうと力を抜いたのだけど、そうしたときに身体をこわばらせることで押さえ込んでいた気持ちや感情の塊が膿の塊のようにどろりと流れ出てきた。こんなに熟成してましたか、とやや引いたり、戸惑ったりもしたのだけど、よく見るとその膿の中にに懐かしく輝く宝物のような気持ちがいくつも混ざっていた。いつの間にか憧れて、背伸びをして追いかけて、あの日諦めたもの。そんなものばかりだ。

その中からひとつ、確認できる中でも一番大きかったものを拾い上げて、少し眺めてみたい。

◆◆◆

僕は小学生のころ、合唱の練習をしているとき音楽の先生に「優作くんは口パクにして」と言われたことがきっかけとなって、歌うということに強いコンプレックスを抱いた(それよりも前に、「自分がやりたいことに人は価値を感じない」というより根源的な思いを抱くきっかけになった出来事が何度もあったのだけど、それは別の話し)。中学校に上がった優作少年は自分の歌に対して「そうじゃない」「ダメだ」と言われることが怖すぎて、音楽の授業で歌えなくなった。思春期真っ盛りだった当時は、どちらかというと、自分を傷付けようとした何かに対する反抗や復讐のつもりでそうしていたのだけど、要は、否定を向けられることが怖かったんである。

などという学生活動を行う傍らで、家でギターを弾いたり歌ったりということを本格的に始めたのも、中学校に上がったころだった。10代前半らしいデリケィトな心理状態を表現しつつ、隠れて野良猫を育てるように、僕はトラウマの陰で歌いたい気持ちに水をやり続けた。

◆◆◆

人間の記憶というのは基本的に「これはいつごろのもの」というタイムスタンプが押された状態で残るらしい。ところが、大きすぎるショックというのはタイムスタンプを”押し忘れた状態”でサーバーに放り込まれるのだそうだ。サーバー内のフォルダは年月日の視点でで整理されているので、タイムスタンプの押されていないショックの記憶は細分化されたフォルダの奥に格納されることはない。「分類不可」ということで、フォルダの上の方に放置され続けるのだ。つまりトラウマとは、人間の記憶フォルダの上層部に放置された、分類不可の悲しいファイルなのだ。

・・・ということはつまり、僕の音楽フォルダの一番には、常に「優作くんは口パクで」の超リアルな動画ファイルがどーんと置かれていたのだ。だから僕が音楽に関する思いを抱く度に、目の端にチラチラ入ってきたり、勝手に動き出してメディアプレーヤーが動画を再生させはじめたりする。しかも、「やっぱり優作くんは口パクしていた方がいいんだな」と解釈のできる物事と、タグでガンガンつながり始める。ちょうど、Googleで『墓石』と検索をかけると、次の日から大量の墓石に関するレコメンド広告が流れ込んでくるのに似ている。すいません、まだ予定ないです。

◆◆◆

聞きかじっただけの話しをエビデンスも探さずに展開させてみたけど、僕としてはこの仮説にとても強い納得感を抱いている。仮に僕の音楽フォルダの上の方に、トラウマファイルが整理されないまま大量に放置されているとしよう。そうするとどうなるかというと、僕はトラウマフォルダを目の端にとらえつつ、そそくさと次のフォルダに潜っていく、ということをするようになる。「歌う技術」とか「ギターの弾き方」とか、そういった枝葉的なフォルダを大急ぎで開こうとしてしまうのだ。

その結果何が起こるか。僕はトラウマを目端で確認しつつ、”「音楽」フォルダの一番上は「歌う技術」フォルダだという勘違い”をし始めたのだ。僕のファイル管理システムは整合性を失った。音楽に向き合う度に、認識していない本当の一番上のフォルダから悲しい気持ちがこぼれてくる。それは以下のフォルダに黒い染みを作り、「ブレスコントロール」や「響きの調整」といったアプリケーションの動作を妨害した。どんなに練習しても、染みつきのアプリは正常に動かない。僕のアプリは、美しく動かない。

さらに深刻なことに、僕が音楽に向き合うための根本的な理由も失われた。自分がどうして音楽をしているのか、全く分からなくなってしまったのだ。なぜなら、僕がトラウマファイルを見たくないがために認識することさえ放棄した音楽の最上位フォルダには、『歌うことが大好きだ』というファイルも、タイムスタンプ無しで保管されていたのだから。

◆◆◆

歌は振動だ。人体の振動。人は母親のお腹の中にいる間、母親の振動を感じながら安らいでいる。だからそもそも、人体が作り出す振動には人に安らぎを与える力がある。僕は歌うことで振動し、安らぎを得ていた。そのことを思い出して歌ったら、やっぱり涙が出た。そうだった。歌うって、気持ちがいいことだった。

今のところ僕の周りに試験管で生み出された人造人間はひとりもいない。鉄と硫黄の濁流に雷が落ちて誕生したと思われるわが妻でさえ、実家には赤ん坊時代の写真がある。ということは、僕が歌うことで生み出す振動は、研鑽により生きた人間の純粋なそれに近付くにつれて、例外なく人の心に安らぎを思い出させるはずである。そう信じてみよう。

歌うって楽しい。膿の中から拾い上げた宝物は、ようやく認識された最上位の音楽フォルダの中身は、どんな超絶テクニックや音楽ビジネス事例よりも重要で素朴な、僕の取り扱い説明書の1ページだった。僕はやっと、歌手になれそうだ。

プロの遊び人に、俺はなる。

プロの遊び人を目指すことにした。
先日の過食からの嘔吐というイベントが良い意味で精神的な区切りとなり、その後1日に最低1回は自分会議をするようにしている。
自分会議といっても、やっていることはコンサルティングに近い。
僕がお気に入りの紳士なノートに向かい、お気に入りのぺんてる筆tuchiサインペンで質問を投げかけると、コンサルタントのマルさんが上手く答えてくれたり、僕から回答を引き出してくれるという、実にアヤシゲなスタイルである。

(ちなみに、コンサルタントの名前が「マルさん」なのは、紙に質問や回答を書き出していくときに、質問者としての僕の言葉の頭には「ー」、回答者としての発言の頭に「○」の記号を書いているから、というだけのことである。)

マルさんとのやりとりの中では、色々な視点から今の自分の考え方や生き方を眺めることになる。
あるときふと「遊び」や「仕事」、「生活」など、今まで自分の中で同じレベルのものだと思っていたものごとをじっくり眺めていたら、実は「遊び」のレイヤーが一番高くて、「仕事」のレイヤーが一番低いということに気付いた。

「仕事」は「遊び」の一部なのだ。
目的を持ち、ゴールをイメージし、達成のために必要なスキルやツール、仲間を獲得しながら一歩ずつ進めていく、リアルRPGである。
道に迷ったときは誰かにヒントを聞きに行き、倒せないボスが現れたときはレベルを上げたり、有効な武器を探しにいったり、すごくやりがいのあるゲームである。

◆◆◆

楽しいゲームにあって、つまらないワークにないもの。
それは「余裕」である。

ゲームの主人公がどうなろうと、プレイヤーが何か具体的な被害を受けることはない。
その、主人公とプレイヤーが別人である、ということが分かっているから、ゲームには余裕がある。
その余裕の中で、人はゲームを楽しむんである。

だから、例えば商品と自分とを同一化していると、商品の営業をして断られたとき、自分自身が否定されたような気持ちになってしまう。
”本当は客はただ単に商品が要らなかっただけ”だったとしても、である。
これ、出来ている人にとっては
 
 
「は?何言ってんの?当たり前じゃん」
 
 
なんて言って鼻で笑っちゃうくらい当たり前のことなのだけど、僕のような繊細で感受性豊で真面目な好青年には、にわかには受け入れがたい発想だったりする。
 
 
「商品が売れないのは自分の能力がないせいだ。売れない理由を商品のせいにするなんてけしからん!」
 
 
だなんて思っちゃリするのである。
だから、商品が売れないと「自分を責める」という具体的な被害を自分で作り出す。
具体的な被害のあるゲームには余裕がないから、楽しむことなんかとてもできない。
その結果、能力が発揮できず、仕事が辛くなり、過食と嘔吐を繰り返す蒸し暑い夜を迎えることになる。

◆◆◆

では、余裕を作るにはどうしたらいいか。
マルさんは、
 
 
「優作は人から嫌われることにすごく過敏だから、とりあえず今嫌われたくなくてオドオド接してる人たちから嫌われたときのことを全部シュミレーションしちゃいな」
 
 
と教えてくれた。
で、やってみた。

そしたら、嫌われても全然大丈夫だったのだ。

たとえば仕事のボスに嫌われて、会社をクビになったとしたら、関西に帰ってしまえばいい。
貯金は妻がしてくれているし、大阪の妻の実家には空き部屋がたくさんあるから、入り婿よろしくお世話になることだってできる。
そこで次の生活を送る準備を整えればいいし、何なら住み着いてしまってもええじゃないか。

万が一そこで妻の家族に嫌われたら、和歌山の僕の実家に帰ってしまえばいい。
実家の家族には徹底的に愛されている自信があるから(笑)、それ以降は嫌われシュミレーションの対象外である。

・・・とまあそんな感じで、僕の長年の悩みは見事に2ステップで解決し、そこには今までなかった余裕が、ふわあっとお花畑のように登場したのである。

◆◆◆

とはいえ、30年間培ってきた生き方だから、一瞬で切り替えるということはさすがに難しい。
ツーといえばカー的に、ギャーと言われればヒー的な思考回路が、わが脳内にバッチリ構築されちゃっていいるからである。
だからまずは、オートマチックになっている僕の反応を、マニュアルに切り替えるところから意識していくことにする。
それもまた、余裕がなければできないことである。
余裕ができたときにこそ、取り組むべき課題であろう。

ともあれ大丈夫なのだから、大丈夫なのだ。
大丈夫だという余裕の中で、楽しさを感じたり、安心を感じたりしながら、伝説の武器やら愉快な仲間やらを見つけて増やしていくのだ。

マルさんはこうも言っていた。
 
 
「不安と恐怖で、人は馬鹿になっちゃうんだな。
あれってめっちゃメモリ食うから、動きもガックガクになるし、時々フリーズしちゃうし、度が過ぎると壊れちゃうし。

だから、すっごい結果を残し続けてる人って、すっごい余裕があって、その中で安心と楽しいを感じてる人な訳よ。
余裕があればあるほど、機械は本来のスペックが発揮できるのよ。

動きがガックガクのスマホに新しいアプリなんか、入らないよね。
無理矢理入れたら壊れちゃうよね。

だから、まずはデフラグとかクリーンアップをして、普通に普通の動作をするようにするんだよ。
そしたらそれだけで、単純に使い勝手よくなるから。
それを、自分らしく働くっていうの。
その程度のことで言っちゃっていいのよ。
ほしいアプリを入れるのは、その後がいいよね。

大丈夫だよ、すぐそうなるから。
だからさ、まずはプロの遊び人を目指すといいんだよ。
遊んでいいんだよ。
遊んだ方がいいんだよ。
だって、遊ばないように働いてきて、今そんな動作ガックガクになっちゃってんだからwww」

 
 
・・・うちのコンサルタントは終始こんな感じなんである。
「www」とか付けちゃうんである。

そんな訳で、プロの遊び人を目指すことになりました。
これからもよろしくお願いします。
ぱふぱふ。

ストレスからの過食からの嘔吐からのパッカン

8日に夏休みが終わって9日から働いているのだけど、この数日間のストレスがスゴすぎて、過食と嘔吐をやってしまったのだった。
今までストレスで食べ過ぎることはあっても、ひらがなを抜いて漢字を並べ替えて「過食」と呼んでしまうくらいの詰め込みは経験がなかったし、ましてそこから食べたものを全部吐くなんてことも初めてだったので、自分でもすごく驚いた。

小一時間ほどゲーゲーした後、しばらく放心した。
嘔吐すること自体が久しぶりで、これほど全身が疲れて、脳がフリーズするような感覚になるものだったろうかと、そんなことを考えていた。

放心状態はそこからさらに小一時間ほど続いたのだけど、ようやく体が動くようになったら、突然何かが吹っ切れた。
神奈川に戻って僅か2日でここまでのストレスを溜めてしまった原因は仕事だ・・・と思いたかったのだけど、絶対にそうではないという確信があった。
むしろ、今まで見逃し続けていた大事なことに気付けるのではないかという予感がムクムクと湧き上がってきた。
僕は、ああ、何かに導かれるっていうのはこういうことを言うんだなと、そんな気持ちでヨロヨロと立ち上がり、シャワーを浴びてデスクに向かった。
 
◆◆◆

僕は今日会社でプリントミスした際に誕生した大量の裏紙とペンを取り出し、自分コンサルを実施した。
自分コンサルは、つまりは自分との対話である。
僕は紙とペンを使って、紙面上で行うようにしている。
脳内だけでやろうとすると、マイナスな思考や感情が入り込んできて、問題が悪化したり堂々巡りになったりするのだ。

僕のコンサルタントは、僕のことを「優作」と呼ぶ。
とても優しくて、絶対に僕を否定しない。

そんなコンサルタントに胸の内を伝え、質問を受け、さらにそれに答えて・・・ということを4時間ほどやった所で、ひとつ答えが出た。
僕は、『仕事を楽しんではいけない』という気持ちを握りしめていたのだ。

◆◆◆

自分コンサルには約4時間が必要だった。
そのために100枚近くあった裏紙のほとんどと、サインペンを1本丸々使い切った。

僕の中では、「楽しむ」と「遊ぶ」は限りなくニアリーである。
そして、今僕が仕事で自分にはできないと思っていることが、遊びの中では全く問題なくできている。

ではどうして遊びでできることが仕事ではできないのか。
昔家の中で弟達と夢中で遊んでいる時に、手に持っていたテレビのチャンネルがすっぽ抜けて、隣りにいた母の額を直撃したことがあったのだ。

「痛ッ」と言って頭を押さえる母を見た瞬間、

「痛いことをして申し訳ない」
「怒られる」
「嫌われる」
「見捨てられる」
「見捨てないで」
「許して」
「もう近くで遊ばないから」
「もう近くで楽しまないから」

そんな思いが一緒くたになって優作少年の胸中に渦巻き、間もなく32歳になろうかという本日においても、ずっと渦巻き続けていたのだった。

で、ここからが本当に恥ずかしい、言いたくない話し。
僕の仕事のボスは母と世代の近い女性なのだけど、僕はボスにその時の母親を重ねて見ていたのでした。
つまり、ボスの近くで「遊ぶ(=楽しむ)」と何かものすごい迷惑を掛けて、嫌われて見捨てられてしまうんじゃないか、という恐怖を、ずっと抱いていたのだ。

だから、「遊び」の中でなら当たり前にできていることが、「仕事」の中ではできない。
「仕事」を「楽しむ(=遊ぶ)」と、嫌われて見捨てられてしまうから。
だけどそれでは自分の能力が全く使えないし、良い結果も出せない。
具体的な対策はいくつも見えているのに、それらに取り組むことは「仕事」を「遊び」に近づけることになるから、どこかでブレーキが掛かってしまい、本格的に取り組めない。
だから自分の成長を感じられず、期待に応えられていないという実感だけが大きくなってしまい、焦ってなんとかしようとしても、これ以上成長しようとすると見放されてしまうので、だけどそれだと・・・という堂々巡りが起こっていた。

そこから発生したストレスが何かのきっかけで溢れてしまい、今回の過食と嘔吐につながったのだ。

◆◆◆

だけど少し考えてみれば、夢中で遊んでいる時に母に痛い目を見せたのは、その1回こっきりである。
いやいや、もしかしたら何回もあったのだけど、僕が認識したのがその1回だった、ということかもしれない。
いずれにしても母は僕のことが大好きなので(確信)、んもうそんなことを心配する必要は全くないんである。

・・・ということに気付いて、明日からの仕事はどう変わるんだろうか。
胃酸で喉が焼けていて、唾を飲むとじわりと痛む。
神棚に置いている写真立ての中で、今日もふーばー(曾祖母:享年103歳)が優しく笑っている。

ノートを提出をする理由

夏になる少し前、妻とチワワ達の散歩をしている時に、学生時代の夏休みについて話しをした。
その時妻が
 
 
「夏休み前には友達のノートを写させてもらうのが大変やった」
 
 
と言っていて、不思議な気持ちになった。
僕はノート提出をしたことがないのだ。
それは僕が反骨精神に満ちた学生だったということではなくて、通った学び舎は小中高と、ノート提出の文化がない学校だった、というだけのことである。
 
 
僕「なんでノート出すの?」
 
妻「さあ。先生がチェックしてたから、ちゃんと授業聞いてたか的なことを見てたんとちゃうか」
 
僕「聞いてたか的なことの結果なら、テストの点で出てるよね。授業よりも先のことしてたりする人もいるし、本当に話しだけ聞くだけで点数取れる人もいるし、なんでノート出すんだろ?それこそ、友達のノート写すようなヤツが出てきて、本末転倒じゃない?意味なくない?」
 
妻「知らん。滅びろ」

 
 
会話2ターン目にして滅びの道を示された僕だった。
それは、生徒の教養を高めることよりも、決められたルールを守れるようになるトレーニングとしての、つまり前時代的教育体制の残骸なんだろうか。
それとも他廃的な宗教団体のように、「我が校の教育方針は世界一ィィィイイイイ‼︎よってェェエエエ‼︎その他の思考プロセスなど、ん必要なぁぁぁあああし‼︎」的なことなんだろうか。
なんだか否定的なことしか思い浮かばなかったので、もうやーめた、という意味も込めて、妻にこう言った。
 
 
僕「ちなみに奥さん、点数はとれてた?」
 
妻「なんでまだ人の形してるの滅びて早く」

 
 
どなたか『恐妻に許しを請う方法』か『痛くない滅び方』の授業のノート、貸していただけませんか。

家2軒は当たり前

理想の家というのがあって、よく妻と話しをするのだけど、僕が理想とする家には妻が「それ嫌」という要素が沢山含まれるのです。
(僕が「緑が多い」のが良いと言うと、妻は「虫が沸く」と言って嫌がる、など)
 
 
なので実は妻と理想の家の話しをする度にちょっと悲しい気持ちになっていて、僕は理想の家には住めないのかも、なんて思っていた。
・・・んだけど、何てことはなくて、将来家を2つ持てばいいんだと気付いて、とてもうれしくなったのです。
うちの親戚、家をいくつか持ってる人が実は多いんだよね。
みんなすっごいお金持ち、ということではない(ように見える)し、それでも全然やっていけてるし、誰ですか知らないうちに持ち家は人生に1軒だけって僕に刷り込んだ人は。
実家だって、ひとつの敷地の中に昔からある母屋と親父が建てた家の2軒があるし、それが僕の普通だったじゃないの。
 
 
という訳で、僕は僕の普通の感覚に立ち返り、我ら夫婦は将来別々の、それぞれの理想の家に暮らすことにしました。
庭と風呂を隣接させて、さわやかな夜には裸で月をこうグッと見上げてねえ、ふふふ。

奴らは空からやってくる

空の交通ルールが作られはじめているらしい。

少し前から噂になっているドローンによる宅配サービスの実現のため、関係企業や団体がドローン同士の衝突や墜落を避けるためのルール作りを始めているそうだ。

昨今叫ばれる流通業者の負担軽減や道路上の交通事故減少、混雑による宅配の遅延減少などが期待されている。

自分が生きている世界が、かつての未来なのだと、しみじみ思い知る。
 
 
 
話しは変わるが、僕は東京があまり得意ではない。

数時間でも滞在すると、なぜだか気持ちが落ちてしまう。

妻と2頭のチワワのためにそんな甘いことも言っていられないから気合いを入れて頑張るのだけど、東京を歩き回っていると気持ちから余裕というか、隙間というか、そういうものが失われて疲れ果ててしまうのだ。

そしてその度に青く優しく広がる生まれ故郷の空を思い出しては、いつかあの空の下に帰りたいなどと、一昔前の演歌のようなことを思うのである。

風が吹き、木々がさざめいて、水が流れて山の獣が吠える、あんないいところは他にない。
 
 
 
国は2020年にドローンによる宅配の実現を目指している。

仮に年間約35億個の荷物を配送する場合、市街地1平方キロの上空を1時間に100台が飛び交うことになるのだとか。

当然、首都圏の空はドローンでいっぱいになるのだろう。

僕はそれが、ちょっと嫌だ。
 
 
 

(朝日新聞 2017/6/23 7面)

ビタミン”いっちょやったろか”の効能と弊害

ここしばらく働きづめだったので、今日は1日自分に休暇を与えてみた。

もう何もするもんかと心を決め、朝は10時まで布団の中でもう何周目か分からない巷説百物語を読み、起きてからは原因不明の胃痛に身もだう妻を横目に中華料理を食べに行ってきた。

帰ってきてからも何もやるもんか宣言は健在であるから、僕はふたたび布団に潜り込み、チワワを撫でつつスマホゲームを楽しんだ。
 
 
 
そうして過ごした結論なのだけど、何もしない日は至極つまらなかった。

どうにもこうにもパワーが沸いてこないんである。

あまりにつまらないので、結局夜7時を回ったくらいから部屋の掃除や洗い物をしたり、チワワ達の散歩に繰り出したり、色々やってしまった。

夜の川崎に吹く湿った風を浴びながら、僕はこれを、「ビタミン”いっちょやったろか”」不足と名付けた。
 
 
 
「ビタミン”いっちょやったろか”」は、主に働く男の闘争心を原材料として生成される栄養素である。

その日のやるべきコトや自分の役割が明確になるとよく分泌される。

ここまでやったら終わり、という区切りや、業務終了までの作業手順などが明確になると、分泌量が増える。

締め切りの日にちなどが近付いたり、同僚が病気で倒れたりしても出てくるが、その場合は原材料の一部に寿命を使用するので、可能な限り避けた方がいい。
 
 
 
というのが「ビタミン”いっちょやったろか”」の概要である。

普段働いている男は、高い確率でこの「ビタミン”いっちょやったろか”」を自身の活動エネルギーの大半に充てている。

それはつまり、「ビタミン”いっちょやったろか”」不足は、そのまま活動エネルギー不足に直結するということだ。

定年まで働いて退職したお父さんがそのまましょぼくれてしまったり、突然ボケが始まってしまったりするのは、この「ビタミン”いっちょやったろか”」の生成が終了したことによる影響が大きいと、僕はにらんでいる。
 
 
 
そういうことだから、僕は今日一日のつまらなさに危機感を抱いた。

何かを担っていなければ、責任を負っていなければ、頑張っていなければつまらないというのは、僕が何かを担えなくなったとき、責任を負えなくなったとき、頑張れなくなったときに、そこから死ぬまでつまらないということになる。

僕は30代に突入したばかりで、世間的にはここから20年ほど働き盛りと呼ばれる時間が続くわけだけれど、だからといって、「ビタミン”いっちょやったろか”」だけにわが活動のエネルギーを任せるのは、先述の理由により危険である。
 
 
 
そういう訳で、僕は今第二の栄養素である「ビタミン”これおもしろい”」を生成する方法を模索している。

手始めに、家をきれいに整理するとか、Amazonで見つけた便利そうな道具をDIYできないか試してみるとか、そういうところから徐々に始めてみている。

今のところ、家の整理がお金を使わず実利益も高く仕事への好影響もあるため、一歩リードといったところだ。

ただ、追い追いはそういった実利益的なものも手放していきたいと考えているので、まだまだ検討の余地はある。

もはや趣味だか仕事だか分からなくなってしまった音楽は、やっぱりどうにも仕事、という気持ちになってしまうのだけど、これによる「ビタミン”これおもしろい”」の生成への挑戦は、頑張るを手放すいい練習になるかもしれない。
 
 
 
「ビタミン”いっちょやったろか”」は、とても大切な栄養素だ。

だけど、それだけだと色気がない。

又市さんもおぎんさんも治平さんも、仕事だけが人生でないから、色気があって魅力的だったではないか。

百介くんがいつまでも野暮天なのは、知っている世界が狭いからだ。

てめぇをひとつの世界だけに閉じ込めちゃいけねぇよ。
 
 
  

 
実写とかアニメとか、色々やられてたんだね。

小池栄子さん!小池栄子さんじゃないか!もしかしておぎんさんですか!

部屋が凝った

どうしても集中力が切れてしまったので、気分を変えようと仕事部屋の模様替えをしたのが、昨日の夕方ごろだ。

以前の仕事部屋は6畳の洋室のうち2畳ほどのスペースを、ネットカフェよろしく「居心地の良い引きこもり空間」というコンセプトで切り取ったものだった。

とても気に入っていたのだけど、当初は心地よく感じていたクローズ感が最近になって息苦しくなってきていたものだから、閉じていた空間を解放し、生意気にもスペースを2畳半ほどに拡張したのだ。
 
 
 
僕は部屋の間取りや家具の配置にはとてもこだわる方で、最近は部屋の掃除が趣味ということも相まって、使いやすく管理しやすい自宅オフィスの構築に心血を注いでいる。

これまでもネットや書籍で様々な自宅オフィスの画像を漁り、あれやこれやと試してきた。

そんな中でひとつ、気付いたことがある。

それは「空間の凝り」である。
 
 
 
よく「思い出の品」というものがあるけれど、例えば昔こっぴどく振られた彼女がくれたマフラーとか、まあそういうものってのは、見る度に色々溢れてきて、元気じゃなくなる方向にグッとくるじゃないですか。

で、その「元気じゃなくなる方向にグッとくる」感じが、実はアイテム単品だけはなく、風景や立体的な空間、アイテム同士の組み合わせといったものにも染みついちゃうのだ。

そういう空間が「元気じゃなくなる方向にグッとくる」状態のことを、僕は「空間の凝り」と名付けた。なう。
 
 
 
「空間の凝り」は、そういったことに敏感な人はすぐに分かる。

なんだかイライラするとか、集中力が続かないとか、体調は悪くないのにいまひとつ調子がのらない、といった形で如実に表れるのだ。

そして、モノや汚れによる「モノの凝り」は掃除や整理でほぐせるのに対し、「空間の凝り」はどんなに面をきれいにしてもほぐせない。

だから、モノとモノとの位置関係を変えることを通してそもそもの空間を組み替えることで、つまり、模様替えをして、凝りそのものを分解してしまうのだ。
 
 
 
新しく構築されたわが仕事部屋は実に新鮮である。

同じだけの時間仕事をしていても、疲れ方や進み具合がまるで違う。

そんな現在の間取りも、ひと月ふた月と過ごすうちに、必ず何かが凝ってくる。

だから、「凝る前」に部屋の模様替えをする。

傍目には何をそんな落ち着きのない、と思われるかもしれないけれど、これは僕には必要な儀式なのだ。
 
 
 
そんなことを思いながら模様替えを終わらせ、角度を変えたデスクに向かうと、そこには新しい風景が広がっている。

何かを買うこともないし、余計なものは捨てるから減るし、いいことばかりではないか、うははと内心笑いながらキッチンに目線を向けると、妻が厳しい表情をして家計簿をつけていた。

そろそろ模様替えをした方がいいかもしれない。
 
 

ブラジャーとウンティーヌ

沈黙は金なりと言うが、
誰かの言葉によって僕は今日を生きているのだから、
やはり沈黙するだけではいけないのではないか。

そんなことを思い、仕事もそこそこに筆を取った。

ブログの更新が滞っているというか、
もはやそもそも更新しなくてもいいとさえ思っているというか、
だけど毎月いくらかのお金を払って維持しているサーバーだから、
少しはね、という俗感にも駆られてというか、

少なくともそれほど健全ではない理由でもって、
僕は改めてブログを書こうと思うのだ。



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就寝前に布団の中でAmazonの商品ページをフラフラとさまよっていたら、
「仕事のできる男のデスクは美しい。」
という感じのタイトルの本が出てきた。

TOYOTAの動作経済という考え方があるが、

(物を取る動作を、いかに短縮化てきるか、的なアレ。
 ペンは利き腕の側に、電話は左手側に、みたいな
 アレだったと思う。だぶん。)

あらゆる物事に理由を見いだし、
それらを納得して使用するというのは、
洗練されたアーバン的ムード漂う美しさにつながる。

僕くらいの洗練されたアーバン的ムード漂う大人ともなると、
デスクのひとつやふたつ、
それはもう摩天楼のように美しく輝いていてもおかしくない。

普段あまりに自然に使っているものだから自覚していなかったが、
あまりに自然に使えてしまっているあたり、
んもうアーバン的なムードでいっぱいではないか。

それについても自覚はなかったが、
おそらく僕のデスクは近付けばアーバンなジャズが流れてくるような、
トランペットの先っぽが上向きに曲がってるくらいがカッチョイイ的な、
そんなデスクであるのだ。

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ふふんと得意になって翌日、
僕はコーヒーを入れてデスクに向かった。
妻のブラジャーが置かれていた。

おそらく、夕べ洗濯物を取り込む時、
何かの拍子に落ちたのだろう。
ジャズではなく、ドリフの大爆笑のテーマソングが
流れてきている気がする。
ズンチャカスチャッチャラー。

眉間にシワを寄せて椅子を引くと、立派な二つ折りのウンティーヌが、
それはもうてらてらとして、それでいて無遠慮に鎮座していた。

ふと隣りを見ると、
少し離れたところで半蔵(チワワ/オス/最近死ぬほど毛が抜ける)が、
少し離れているのに音が聞こえるくらいの勢いで震えている。

彼なりに何か、言いたいことがあったのだろう。
残念ながらそれを察してやることは僕にはできないが、
ウンティーヌを配置する以外に、何か方法はなかったのだろうか。

僕はウンティーヌを回収してトイレに流し、
震える半蔵を妻のブラジャーで優しく包むと、
ようやくPCに向かって腰を下ろした。

少し冷めてしまったコーヒーを手に取る。
重ねていた書類と、その上に置いていた筆記用具が、
ばさばさと埃を立てて滑り落ちていった。

リラックスを求めて豆の香りを吸い上げると、
先ほどまで直下で圧倒的な存在を放っていた
半蔵のウンチョスの残り香が、僕の胸をいっぱいに満たした。