赤点ギリギリぐらいがちょうどいい。

仕事の関係で今Windowsのデスクトップをメインマシンとして使っているのだけど、Macの歴が長くなっていたのと画像の編集などに使うアプリの使い勝手の関係で、ブログ記事の仕上げは今まで使っていたMacbookしている。
実際小さな画面の方が集中できるし、キーボードの使い勝手も(F9キーなどの短縮変換機能を除き)Macの方がいいもんだから、持ち運びができて記事が仕上げられて最低限の仕事もできるということで、やはりMacbookは良いものだと思う。

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よくMacとWindowsでどっちがいいだのなんだのと論争が起こっている。
僕もケータイ屋時代に、Mac信者と呼ばれる、んもうMac製品のことを語っている時が人生の至福と言わんばかりのおっちゃんから酷く専門的なクレームというかイチャモンを付けられて、困惑したことがある。
おっちゃんは「自分たちが扱っている製品の知識くらいきちんと持っておけ」と言うが、どう考えてもMac素人相手に知識を振りかざして気持ちよくなりたいだけのイチャモンだったから、僕はいい歳こいたおっちゃんの自慰行為に巻き込まれたアワレなイケメンだ。

「現場個人のレベルにはどうしてもバラつきがあるから、メーカーのサポートデスクというものがあるのですよ」

などともっともらしいことを言ってみたが、ウサ晴らしのターゲットに指定した若造からもっともらしいことを言われたおっちゃんは、んもう引っ込みがつかなくなってしまった。
当方の仕事ぶりがいかに稚拙であるかを、iPhoneとiPadの同Wi-Fi環境下における通話転送機能活用方法を交えつつこんこんと説いてくださった。
これは失敗だった。

そういう一部のメンドクサイおっちゃんにはなるまいと決意を固めつつ、しかしやはり僕はMacのこのロジックではなくマジックに訴える構造や発想が好きである。
Windowsは世の中のスタンダードだからPCを商売道具にする上では必ず一台は持っていないといかんのだけど、自分に合っているものや素敵だと感じられるアイテムを知っているというのは嬉しいことだ。

行為にせよ、物理的なモノにせよ、自分の好き嫌いを知るには「比較」が重要である。
僕はずっとWindowsユーザーだったのだけど、ある時ふと思い立ってMacを導入したところ、これが実にフィットした。
それは即ち、Windowsとの「比較」があってこそのMacへのフィット感であって、最初からMacを当たり前に使っていたらこの「合致感」といいますか、そうそうこれこれという「巡り合えた感」は、なかったと思うんだなあ。

よく自分の好きなことが分からない人が多いという話しを聞くけれど、それってつまり、「比較」するものが少ないからなんでしょう。
僕の知り合いには異常なほど音楽を聴いている気持ちの悪い人が何人かいるけれど、本当に山のような情報が自分の中にあるから、ワタクシの統計学と言いますか、そういったフィーリングが実に高度に発達している。
笑顔で

「ビートルズは全部レコードを買って、全部聴いたよ。やっぱりすごいバンドだよね。大っ嫌い。」

と語る某音楽バーのマスターを理解するには、今世残った時間ではどう考えても足りない。

Windows/Macと一緒で、どれだけの音楽を聴いているのかと一緒で、何ならどれだけ沢山のアニメを見ているのかと一緒で、頭の中にある体験や経験や知識の量がそのまま自分という人間の好き嫌いの振り幅になる。
好き嫌いがあるというのは、先述した「比較」ができるだけの知識と体験、そしてそれらへの「理解」と「解釈」があるということだ。

僕は『勇者警察ジェイデッカー』というロボットアニメが好きで、ビールがあれば二晩でもぶっ通しで語れる自信があるのだけど、それは同シリーズの別アニメ『勇者特急マイトガイン』とか、『太陽の勇者ファイバード』とか、そういうものを見まくってよく知っているからである。

「なーんつーかよう、他の連中は個々のロボの個性が全然なくってよう、後半になったら飛び出してきて合体してやられっちゃうだけなんだけどよう、ジェイデッカーつーのはな、オイ、寝るな、あのな、この番組だけはな、最終回前後で合体して悪いヤツとくんずほぐれつ大爆発なーんてことがなくってよう、みんなで合体もしねーで並んで自分の考えを述べて、オイ、だから寝るな、オイ」

といった濃厚なトークは、「比較」と「理解」と「解釈」なくしては成り立たないのである。
逆に、「比較」と「理解」と「解釈」さえあればある程度の好き嫌いや自分への向き不向きが見える訳だから、沢山のサンプルを得て、体験して、その渦中に身を置き続ければ、いずれ明確なものが見えてくる。
それがつまり「色々な体験をしなさい」という大変抽象的な言葉として世の中に飛び出していくんだけど、色々な体験をすること自体が楽しいと理解してない人にとっては、やっぱり抽象的すぎてよくわかんねーんだな、これが。

という訳で結論。
ちょっとでも興味が湧いたものには、手を出してみる。

僕は自分の嗜好が見えなかった時期が長かったから言いきっちゃうけど、自分が何が好きなのか分からない人は、その物事が「こいつァ間違いねえ!」的100点満点を自分に提示してくれないと動かないのだ。
でも、やる前から100点を見せてくれるものなんか、こっちの財布を狙ってる娯楽業界の広告くらいしかないもんだから、行動してみたところで消費者という立場から抜け出せない。
別に生産者になろうと言いたいわけじゃあないんだけど、少なくとも自分自身は、まあ30点くらいの赤点を回避した物事に関しては、こう、びしばしと手を出していきたい。

「ふざけんな」は新感覚

とかく人間バランスが大事でござんす。
僕なんかはそれはそれは穏健友好、とにかく優しいイケメンなのだが、つまり「おとなしい」という方面にバランスが傾向しているということでもあるのです。
よって至極個人的な話しで申し訳ないのだけど、たびたび自分のことを締め上げちゃったりして落ち込んだりであるとか、そういうことになるんである。

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よく鬱になっちゃうとか、落ち込んでしまうという人は、どうにもこういった優しくておとなしい人が多い。
これが攻撃的なヤツだと自分よりも弱いヤツを必死こいて見つけ出してはイジめはじめる訳だから、それと比べると随分とマシだなぁと思う。
だけども、うっかり舐められてしまうとそういう攻撃的なヤツに狙われてしまうから、そこはしっかりと「お前な、余計なことしたらな、どうなるかわかんねーんだかんな」的武装防衛を示さねばならない。
目の前に暴力を振るうつもりのヤツが現れたらこちらも戦う覚悟と準備をしないと、サンドバッグになってまた後ほどネチネチと自分を責めて、それがまたまた鬱屈としたヤツの弱いモンレーダーに索敵されて・・・といったスパイラルを繰り返すのだ。

冒頭から話しがそれてしまったが、つまり優しい人はちょっと強く、強い人はちょっと優しくなれると、それは実にバランスのとれたええ感じの人間が出来上がる訳なんである。
それで、ここがまたちょっと難しいところなんだけど、人によってそのバランスの取れる位置というのは全然違ったりする。

例えば僕は元々がイジメられっ子体質だから、ある程度の武装が必要である。
だけどそもそもがイジメられっ子なのだから、多少の強さを手にいれたところで人間的に大きな変化がある訳ではない。
むしろそこでガツッと変化しちゃうのは、ちょっとマズいでしょう。

要は、今よりちょっとマシになればよいのである。
優しいだけだった人が、優しくて強い人になる。
強いだけだった人が、強くて優しい人になる。
可愛いだけだった人が、可愛くて自立した人になる。
自立していた人が、可愛い面もしっかり出していく。

そうやって自分の今の立ち位置から、少しだけ未知の方向に踏み出すと、人は思わぬところでバランスをとって、いい感じになる。
そういうもんである。
そういうふうにできているんである。

話しを元に戻すと最近自分の中にひとつキーワードがあって、それは、「ふざけんな」なのです。

例えば今椎名誠さんの本をしこたま読んでいて、たぶん今のブログにも随所にその影響が現れてると思うのだけど、あのおっさんがまぁいい文章を書くんである。
語彙が多いのも当然なのだけど、僕らが普段知ってる使ってる言葉を使って「おのれ!」とハンケチを噛み締めちゃうような、その手があったか的表現が本当に多い。

で、ふつうだったらそういう格上の文章に打ちのめされるとスイマセンとショボくれちゃうのだけど、そこで白旗の代わりに「ふざけんな」という反旗を翻すと、それまで感じたことのなかった新しい質のエネルギーが湧いてくる。
「ナニクソ根性」とか「負けん気」とか言ったりするのだろうけど、僕はそういう戦いとか怒りみたいなものは随分と握りつぶしてきたから、本当に「戦うエネルギー」というのが、新鮮であったのです。

なんだかちょっとしたことを言うために大げさなことを書いちゃったけど、毎回そうだから、今更いいか。
今宵も僕ァ悔し涙のメロディーに復讐の言葉を乗せて、面白おかしいこだわりにぐいぐいと突入してゆく。
それはとてつもなく楽しくて幸せなことなのです。

わが新居のホコリっぽきお掃除事情。

窓を全開にして玄関を開けると、秋の渇いた風が高い空からぐんぐんと流れ込んでくる。
玄関は内向的なくせに時折暴発的なワンパクさを発揮するわがチワワ達がくぐり抜けられない程度の隙間なのだけれど、それでも十分な量の新しい空気が、部屋にこびりついた疲労や苦悩を連れ出してくれた。

よく言われる話しだけど、水は流れていればこそ新鮮で、バケツにすくって閉じ込めた途端にたちまち腐ってしまう。
小さい頃に祖父の海釣りに付いていくと、竿を構える前に海の水をバケツですくって側においておく。
その後釣れた魚をその中にポイポイ放り込んでいくのだけど、その魚たちはしばらくするとすぐにぐったりとして死んでしまうのだ。

「そりゃアナタ、当たり前でしょう」なんて思われるかもしれないが、僕にはとても意味深く感ずる記憶なんである。
『大きな流れから切り離されたものは死んでしまう。』
この世にいくつかある、真理だと思う。
そういう訳で、大いなる真理に基づき、僕は額に汗して新居の清掃活動に勤しんだのであった。

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掃除は「上から始める」が鉄則だ。
軽薄にも掃除機掛けなどから始めて棚やライトの拭き掃除を後回しにしようものなら、ピカピカにしたフローリングの上にボタボタとホコリやゴミが落ちてきて発狂することになる。
そもそも床だって「いっちょ掃除でもやったるかァ」という思いに駆られる時には様々なナニガシで埋め尽くされているものだから、まずは掃除機や雑巾を掛けられる床を発掘する作業が必要である。

手掛ける順序を誤ると、それだけでどんなに頑張っても掃除が進んでいる気がせず、そのうちやる気が削がれてうっかり目を合わせた未読の書籍にヨヨヨと引き込まれてしまう。
そんなことだから貴様は生まれてこのかた片付けられない女としてホコリと犬の毛を胸いっぱいに吸って生きているのだと、掃除が始まると同時に掃除機に手を伸ばした彼女様に心の中で叱責した。

思いが通じたのか(通じては困る)彼女様は直ぐに掃除機を所定の位置に戻し、「これは美女の仕事ではない」と言った。
異論は無いが、掃除機を手放した理由は分からなかった。

掃除が終わると部屋の中が見違えるように明るくなった。
ちょうど水を入れ替えたばかりの水槽のように晴れやかだ。
その中を大河と半蔵が、これから買い出しに伴う長時間の留守番を強いられるとも知らずに気持ち良さそうに泳ぎ回っている。
帰宅後われらは部屋の各所に投下された報復のウンティーヌを目撃することになるのだが、それはまた別の話である。

見渡すと、彼女様の調理器具および小物類およびその他分類ままならぬサムシングが各所に点在している。
それらについては収めるべき収納棚がまだ無いので致し方ないということだ。
確か引越し前に要るとも要らぬともつかぬ膨大なる所持品に跨って「引っ越し前なので致し方ない」と言っていた気がするが、まあ、気のせいだろう。

引っ越しは当分終わらない。
理由はよく分からないが、ホコリのよくたまる部屋だから、できるだけマメに掃除は続けていきたい。

その不安は的中する。だけど、同じくらい素敵なことも起きる。

悲しい人、不幸な人は、いつだって悲しくなることや不幸になるようなことを考えている。
悲しいことも不幸なこともしんどいのに、しんどいことが嫌だと言いながら、率先してそういうことを考える。

どうしてそういうことになるかというと、人がそういう風にできているからだ。
我らが祖先が大自然と体ひとつで向き合っていた頃、人の力を超えた強大な危機(肉食獣との遭遇、寒波の到来、嫁のヒステリーなど)に立ち向かう術として、率先して不安を発見する能力が必要だった。
その名残が現代を生きる人間の脳にも残っている。
それもなんとか新皮質とかいう、いかにも新しい感じの部分ではなくて、なんかもっと根深いところに組み込まれちゃってるもんだから、僕らの心からは不安がなくらんのである。

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不安がそこに形を持って存在するのではなくて、「恐怖を感じる」から不安が発生する。
車が走るから、「走っている車」が発生するのと同じだ。
彼女様が暴れ始めると、「暴れる彼女様」が発生するのと同じである。ぐすん。

「不安」とは、状態を指す言葉なのだ。
「恐怖を感じて嫌なことを想像している状態」を、「不安」と呼ぶんである。

で、世の中には恐怖に弱い人間というのがいる。
トキの雛の10倍デリケートであると言われた僕にしてもそうで、何かひとつ自分の恐怖の琴線に触れるものがあると、そこから実に様々な色々を想像して泣きたくなる。
新しい仕事に挑む時も、今の倍以上の家賃が必要な賃貸物件の契約をする時も、彼女様から電話が掛かってきた時も、それはそれは無数の恐怖がわらわらと湧いてきて、恐ろしくなったり悲しくなったりする。

そういった恐怖や不安の中で30年近く生きてきて、最近気付いた。



こういうものなのだ。



人生には恐怖が付き物だ。
しかし、それと全く同じように、喜びも付き物だ。

定食屋で生姜焼き定食を頼むとお勘定がついてくる。
しかし生姜焼きは美味しい。
そういうものなんである。

どう生きても僕は恐怖を感じるし、不安にもなるし、悲しくもなる。
ただ恐怖と不安と悲しみを感じる人生には、それ以上の喜びや感動がある。

せっかく街に散歩に出かけた人が、犬のフンや立ちションの後を見て嫌な顔をして帰ってくる。
よくある光景だけど、そこにはきれいなお姉さんも、美味しそうなパンの香りも、街角のミュージシャンの音楽も、きっとあったはずなのだ。
素敵なものはあって当然、自分が嫌なことばかりに目を向けているのだから、嫌な気分になるのは当たり前でしょう。

で、僕が言いたいのは終始一貫「気分良く生きよう」ということなんである。
嫌なことは、目に入る。
これは脳の仕組みだから、仕方ない。

ならばそれと同じかそれ以上に、素敵なものを見つけようとすればいい。
何もしないでいると嫌なこと、不安なことを見つけるのだから、何かしていればいいんである。
「楽しいことを見つける努力」をすればいいんである。

「楽しいことを見るける努力」は、やり始めると人生が最高に楽しくなる。
今までの「努力」という言葉のイメージがひっくり返る。

何せ、努めて自分の気分がよくなることや楽しくなることに身を投じていくのだ。
美味しい料理が好きな人は美味しい料理を食べ、素敵な音楽が好きな人は素敵な音楽を聴き、セックスが好きな人はナンパでも出会い系でも風俗でもどんどん楽しむ。

それが僕にとっては実家に帰ってのんびりすることであったり、部屋の掃除をすることだったりするのだ。
そういった事柄を見つけるのも簡単で、例えば「でもなぁ・・・」「どうせ・・・」が頭に付くモノコト。
これが往往にして、自分の本当にやりたいことであるケースが多い。

「実家なんか帰っても何する訳でもないもんなぁ・・・」と思っていたけど、帰ってみたら穏やかな空気と自然の囁きがめちゃめちゃ気持ち良かった。
「掃除なんかしてもどうせすぐ汚れるしなぁ・・・」と思っていたけど、やってみたら掃除の最中に自分の気持ちが心が整ってきて、部屋がきれいになるころには気持ちもかなりスッキリしていた。

「でもなぁ・・・」「どうせ・・・」に、挑戦してみてはどうだろう。
良いことも悪いこともちゃーんとおこるから、その中の「良いこと」「素敵なこと」「気分がよくなること」に全力でフォーカスを合わせてみてはどうだろう。

僕はこれから新しい部屋の鍵を受け取って、バルサンを炊いて天井と壁と床を掃除する。
しこたま掃除の指示を出してきた彼女様とは、まだ連絡が取れていない。
僕の心、整いまくっちゃって、仏のレベルに達しちゃうかもしれない。
ほら、素敵なこと、あるでしょう?(白目)

手に入れた鍵。失った鍵。虎子はなくとも虎穴の中。

鍵には2種類ある。
自分で用意する鍵と、人が用意する鍵だ。

自分が用意する鍵は、自分の大切なものを守るために用意する。
人が用意する鍵は、人の大切なものを守るために用意されている。
鍵というのは、人生の防衛網において実に重要な、まさにキーアイテムなんである。

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大切なものを守っているからこそ、鍵というのはおいそれと人の手を渡ったりしない。
仕事の休憩中に

「ちょっと悪いんだけどお前の部屋の鍵2〜3日貸してくんない?」

なんて話しは、普通しない。
そんなタバコ切らしちゃったから一本ちょうだい的お気軽さでやりとりするものではないからだ。
迂闊に女性にそんな言葉を掛けたら、鍵がもらえないどころか職を失う可能性もある。

鍵のやりとりには「信頼」が必要だ。
それも生半可な信頼ではない。
「この人は別に悪い人じゃないから」程度の信頼では、家の鍵や金庫の鍵、自転車の鍵だって、貸したくはないだろう。

不動産賃貸の部屋を借りるための手続きがあれほど煩雑なのは、その信頼を様々な角度で検証する必要があるからだ。
家賃を払えるだけの収入があるのか、その収入は安定しているのか、などなど、主に金銭的な部分に着目される。
その他にも、畳の上でボディペインティングをする趣味がないか、きちんとトイレで用が足せるか、週に一度ベランダから月に向かって泣きながら大声で般若心経を唱える習性がないかなどといった疑いの視線に勝ち得て初めて、我々は鍵を手にいれることができるのである。

明日、新しい部屋の鍵が手に入る。
今までで一番高額だった鍵だ。
新しい生活と、新しい日々が待っている。

懸念される唯一にして最大のポイントは、その部屋の鍵を所持するのが僕だけではないということだ。
虎穴に入らずんば虎子を得ずと言うが、その穴には虎しかいない。
どんなに疲れていても、どれほど良い気分でいても、常に鋭い牙や底なしの敵意と隣り合わせである。

幸いなことに、その部屋には僕の個室になる予定の5.5畳の部屋がある。
不幸なことに、5.5畳は今の事務所よりも狭いスペースだ。

しかし幸いなことに、その部屋があるお陰で僕は扉に鍵を設置することができる。
しかし不幸なことに、「お前の部屋の鍵を外せ」と恫喝された時に、それをはねのけるだけの力が僕にはない。

だが幸いなことに、彼女様は僕の仕事部屋に何の用事もない。
だが不幸なことに、彼女様は自分の気に入らないことは徹底的に排除する気質がある。

僕の当面の目標は、その部屋の鍵を手放さなくても済むように、さらに従順さに磨きをかけることだ。
既に彼女様から明日、家電やエアコンの搬入業者が来るまでにバルサンを炊いて部屋中を掃除しろという指示が出ている。
財布が一本化される関係で、僕の金庫の鍵も渡すことになった。

鍵を手に入れたはずのに、失ったものの方が多い気がする。

いい気分で一歩進む。気持ちの良いことは正しいこと。

実家に帰省してきた。
月に一度の楽しみで、週末土日に体が自由な時を狙って帰る。
今回は色々と報告事項もあり、お盆の行事もあり、締切間近の仕事もあったりしたのだけど、やはり毎回の帰省の目的は変わらなくて、それは「気持ちの良い場所に自分を置く」という、とてもシンプルなものだったりするんである。

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「気持ち良い」ということを、もっと大切にしたい。
僕はよく神社に行くのだけど、それもやっぱり「気持ちが良い」からだ。
逆にザワザワする場所や心が引きつりそうになる場所はどんどん避ける。

素敵なアイデアというのは、余裕のある心から出てくるでしょう。
優しい言葉というのは、穏やかな心から出てくるでしょう。

自分を気持ち良くさせる。
気持ち良くなった自分は、勝手に素敵なアイデアを吐き出すし、勝手に人に優しくなったりするのだ。
その「気持ち良い」という土壌に、技術やノウハウというものを立てていきたい。
気合いや熱意というものも、やはり「気持ち良い」という大地を踏みしめて解き放ちたい。

「気持ち良い」がないと、しんどい。
しんどいのは嫌である。

誰かの発言にカチンとくる時は
誰かの考えをバカにする時は
誰かの行動を非難する時は

僕らは結構な確立で、元々苛ついている。
「気持ち良い」と、「気分が良い」と、それが出来ない。
ええわいええわい、そーゆー考えのヤツもおってええわいと、余裕満面許しちゃったりする訳なんである。

もちろん人間だから、どんなに気分が良くても許せないこともある。
だけど、気分が良いとだいたいのことが許せる。
それだけで、「許せない」という状態を脱せるだけで、どれだけ楽か。

許せないとしんどい。
しんどいのは、嫌なんである。

という訳で今回も実に気分良く大阪の事務所に帰ってきた。
帰りの電車の中で気分良く本を読んでいたら、次の自分の人生のステージがなんとなく見えた。

やっぱり僕は、人に何かを教えるということをやりたいのだ。
長年教師をしている父を尊敬しているからか、袈裟を着て説法をしていた母方の祖父を見ていたからか、僕の周りに愛のあるお師匠が沢山いたからか、いいえ、たぶん、全部が理由で。

では、何を教えるのか。
それはやっぱり、「気持ち良い」ことなんだと思う。
今ポケットの中には、この「気持ち良い」という言葉ひとつしか入っていないのだもの。

そうと決まったら、次は何をするか、考える。
断じて気分良く。

敗北のすゝめ。〜色々な視点でモノを見るために〜

「色々な視点でモノを見ろ」、というのは古今東西あらゆる場面で使われる金言である。
ところが、この金言には大きな欠点がある。
色々な視点でモノを見ろと提言される人間は、そもそも視点の増やし方を知らないんである。
つい最近も色々な視点でモノを見ろと言われた僕が言うのだから、間違いない。

最近でもそうなのだから、若いころはもっとひどかった。
自分からワンパターンな楽曲しか出てこないことを嘆き先輩に相談すると、決まってこう言われたものだ。

「もっと色んな曲聴いたらええねん」

ハッキリ言って、それをやりたくないから聞いているのだ。
今までと何も変えず、何も変わらず、目覚めたように名曲がジャバジャバ湧いてくる方法を聴いているのに、そんなことを言われてはがっかりする他ない。
たまに「そうかぁ」と意を決して勧められたCDを聴いてみても、結局その日聴きたいのはサザンの東京シャッフルだったりして、アルバムの2曲目くらいで飽きてディスクを交換することになる。

そうこうしている内に何年か経って、自分の周りの環境が変わって、周りの人間が変わって、自分が変わったような気になる。
ところがまた次の場所でしばらくやっていると、どこからともなく聞えてくるのだ。
「毎回似たような曲だよね」と。

このように、新たな視点を手に入れるということは生半可ではない。
新しい視点は周りの人がいくらでも教えてくれる。
難しいのは、これまでの視点を手放すことだ。
これまでの自分を手放すことだ。
そうしたいと思ってやってきたことを、やめることだ。

今自分の身に起こっていることは、全て今までの自分の考え方の集大成である。
僕はサザンだけをウットリ聴いて生きていたかったから、自分の中に色々な形の音楽を入れることをしたくなかった。
それが、いざ音楽を作る側になった時に、当然似たような曲しか出てこない。
ちょうど庭の畑に大根の種しか蒔いていないのに、ナスが取れないと嘆くようなものだ。
何というか、正気の沙汰ではない。

ところが、僕たちは時折そんなことを本気で思ってしまう。
困ったものだ。
待てど暮せどナスの収穫の日は来ない。
彼女様の足のような立派な大根が取れたとしても、「ナスがほしいのに」とブツブツ言っているものだから、つまらない。

隣の家のナスが収穫できている人は「ナスの種を蒔けばいいよ」と言われて種を分けてくれる。
でも自分は大根の育て方を良く知っていて、ナスを蒔いても自分の知っているセオリーと違うからしっくりこない。
気が付くともらったナスの種を腐らせていたり、蒔いた種に水をやらないようになっている。
結果、昨日と同じ大根が取れる。
昨日と同じ曲ができる。
昨日と同じ悲しみがやってくる。

ナスがほしいのに大根の種を蒔き育てていても、決してナスは実らない。
しかし、答えは簡単だ。
隣の家の人から、ナスの種を貰って、蒔いて、言われた通りに育てればいい。

それができない理由は、たったひとつ。
ナスの種を貰うこと、ナスの育て方を教わることを、「負けてしまう」と感じるからだ。
それが悔しくて、僕たちは差し出された愛を握りつぶしてしまう。
受け取ることが、できない。

あのね、ナスの種を貰っても、ナスの育て方を教わっても、いい。
とっとと負けてしまえばいい。
勝負に勝つための唯一の方法は、負けを認めることだ。

隣人はナスを作ることができる。
自分にはできない。
アンタの負けなんである。
認めて、白い旗を振って、手とり足とり教わればいい。
そのうち、聞かれるはずだ。
「ところでアンタとこの大根、ずいぶん立派だけど、どうやって作ってるの?」と。

負けて初めて、勝つことができる。
負けて初めて、勝負などなかったことが分かる。
負けて初めて、自分が自分を敗者に仕立て上げていたことが分かるものである。

先日、彼女様から要冷蔵のドレッシングを常温保存していた件で非難轟々罵詈雑言の弾幕を浴びた。
「少しくらいは台所周りに気を回す視点を持て」という。

言っておくが、僕は台所周りに実に多分に気を回している。
ただ、初心者なんである。
初心者とは、何が大事で何が大事でないのか、判断できない者のことを言う。

カフェのキッチンで働いている料理人が初心者に本気でダメを出すのは、いくら何でも無茶ではないか。
しかし、口は悪くとも(手も足も悪い)隣人がくれたナスの種だ。
僕はしっかりと受け取って、せっせと蒔いて水をやった。
涙ぐましい初心者の努力である。
こういう努力の積み重ねで、僕も徐々に初心者を脱却するんである。

ところで、先日冷蔵庫に入れたみりんの注ぎ口の周りや内側にガリガリの結晶が付いて困っているのだけど、これも怒られるだろうか。
怒られるだろう。
怒られるにちがいない。

新しい視点を手にいれるのは、難しい。


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WindowsPCの降臨と地獄の単語登録作業


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縁があって、わが事務所にWindowsPCがやってきた。
すっかりとMacの術中にハマっている僕はすっかりとWindowsの使用感的なものをどこか千葉県の船橋あたりに置き忘れてきていて、特にMacbookがメインマシンであったものだから、手元にマジックトラックパッドがなければPCじゃないんだかんね的様相を呈していたのである。

ところが、Macには大きな欠点がある。
それは、世間のメインマシンがWindowsである、ということである。

僕も実業家である以上、他の方とファイル共有やofficeソフト的なものを使ってやりとりをする機会がとても多い。
ところがそうすると、だいたいの方は仕事用のマシンがWindowsなものだから、誇り高きMacユーザーである僕は自らの誇りを誇示する前に周囲から煙たがられてしまうんである。
埃っぽいったらありゃしない。

それを見かねた僕の取引相手というか秘密裏に仕事をさせて頂いている施主様というかお師匠というか、そういう方がどーんとWindowsPCを会社の資産としてお貸しくださったのである。
そんなカッコいいことをして頂いたなら、Macユーザーの誇りなどまさに塵芥、圧倒的懐の深さと熱意という大気の流動に煽られて、大阪の鶴見区あたりの空に雲散霧消したんである。
PC?
Windowsに決まってんじゃん。
ワールドスタンダードですよ、やっぱりさ。

ところでマシンが新しくなると、ひとつ非常に大変な作業が生まれる。
セッティング?
いや、最近のPCは本当に繋ぐだけで使えるから、そんなものに時間は要らない。
僕が苦しむのは、単語登録の作業である。

僕は普段の仕事の中でよく使う単語をユーザー辞書にどんどん登録していく。
Macbookに登録されている単語は150近い。
たとえば、

「や」とうてば「山本優作」と出るようにしているし、「ひ」と打てば「2015-07-01」などと出るようになっている。
あるいは、こういったネットに記事を上げる時に必要なHTMLと呼ばれるコードなんかも登録しているから、今実際に使っているものだけでも新たに登録し直すのは、実に骨の折れる作業なんである。

その点、MacはひとつのMacアカウントを同期できるから、たとえばiPhoneでユーザー辞書に登録した単語はMacbookにも同期される。
当然別のマシンにも、たとえば以前仕事用に使っていたMacminiにも、反映される。
「あ、これ要るわ」と思った単語はその場でメインマシンに辞書登録できるものだから、それはそれは楽チンなんである。

しかし、そんなことはどうでもいい。
僕のMacユーザーとしての誇りは既に鶴見区を離れ、城東区の上空あたりをさらさらと漂っているのだ。
もはやダイソンの最新式空気清浄機のフィルターに引っかかるのを待つだけのPM2.5的存在なんである。

Windowsのテーマカラーを眼球にガツッとくるショッキングイエローにしたことを若干公開しつつ、黙々と単語登録をする。
それはまさに写経の行に勤しむ修行僧の如き風体である。
足、痺れてきました。

ちなみに、僕が100も150も単語を登録しているというと、「単語登録をして手を抜いて文章を書いて、不謹慎ではないか」と言う人がいる。
しかしそれは大きな間違いだ。

日本語は実に複雑で、その組み合わせ次第では千にも万にも姿を変える。
「愛している」の一言を伝えるために、過去何人の詩人が言葉を紡いできたかわからない。

しかし、たとえば仕事で使われるメールの

お疲れさまです。
山本です。

表題の件について、作業が終了致しました。
お手数ですが、お時間のある時にご確認をお願いします。

という文章がほぼ登録された単語で作られた文章であったところで、誰の感受性が傷付くというのか。
事務的なメールを送るたびに

「君の報告メールには心を揺さぶるものがない。一文字一句魂を込めて作文したまえ。」

などという純文学の鬼的ダメ出しをもらっていては、仕事が前に進まない。
まして

「あの人の事務メールはなんかこう、じーーーんとくるんだよなぁ」

などという訳の分からないニッチなポジションを確立したわけでもない。
言葉というのは物事の本質ではなく、あくまで”指し示すもの”である。
小高い丘の上で竹林の囁くような歌を乗せた風に肌を撫でられながら輪郭の曖昧な満月を見上げる感動を、言葉が表現できるだろうか。
おそらく、それは果てしなく高めてゆける。
しかし、どれほど言葉を尽くしても小高い丘も竹林も風も輪郭の曖昧な満月も、この場には登場しない。

伝えたいことの本質は言葉ではないのだから、言葉の選ばれ方をとやかくいうのは実にナンセンスである。
いかに情報を的確に素早く伝えられるか、という場面では、むしろ画一的な型にはまったテキストが望まれるものである。
それを予め用意しておく愛情、思いやり、仕事への意識の高さを褒められこそすれ、非難される覚えなどさらさらない。

僕は自分の襟元を正し、姿勢を正し、単語登録の作業に戻る。
コードは後でまとめてコピペしてくるから、まずは文章文節の登録だ。
思いつくままに登録すべく、キーボードを叩く。
いちばん最初に登録した単語は、「ほ」から始まる文章だった。

「本当に申し訳ありませんでした。」

霊感商法で300万円を騙し取られたおばちゃんの話しを聞いて。人は「不安」でアホになる。


nayami


不安になるとアホになる。
先日テレビで霊感商法に引っかかって300万円を騙し取られたおばちゃんが、自分に詐欺を働いた会社や寺にカチ込むという番組をやっていた。
あららららぁ、なんて気分で見ていたのだけど、まあでも、テレビ局を連れてカチ込めるだけの元気があるのだから、もう大丈夫だろうと思う。

人が間違った判断をするのは、たいていの場合「不安」になっている時である。
僕自身、今まで不安にかられた時に様々な失敗を重ねてきた。
例えば彼女様が不機嫌な顔をした時などは(基本的に不機嫌だ)、一体どの件何の件で怒られるか分かったものではないから、あらゆる心当たりに備えて身構えていると

「男のくせにオドオドするな」

といって怒られるのである。
それもこれも、僕の中に「不安」が生まれるせいである。

「不安」は人の本能である。
僕たちの祖先は「不安」を持っていたからこそ、あらゆる未知に「備えて」生き延びてきたのだ。

不安になることは悪いことではい。
マズいのは、「不安に支配されること」だ。

不安に支配されると、面白いことが起こる。
自分は不安でいなければいけない、ような気になってくるのだ。

どんな話しをしても「それは○○でマズいんじゃないか」とか、「そんなことしたら××になってしまう」とか、そういって悪いことばかりを言う人がいる。
どうしてそんな話しの腰を折るようなことを言うのかというと、脳のアンテナが常に「不安」に向いているからだ。
どんな出来事からもどんなアイデアからも不安のポイントを見つけ出して、「ほら見ろ!」と過剰に反応するんである。

それはつまり、「不安でいたい」ということだ。
どんな素敵なものを見ても聞いても、最終的には「自分が不安を感じる何か」を探してしまうんである。
「不安を感じなければ不安」という、ナゾのスパイラルの底で転がりまわってしまうんである。

その次にどうなるかというと、人は自分と考えの近い人たちで集まると心地いいという性があるから、自分と同じような人が集まってくることになる。
ズバッというと「不安になりたい人たち」がぎゅぎゅぎゅっとより集まって、あれも不安だこれも不安だと始める。
そのうち、自分の周りの人たちがみんな「不安だ」と言っているものだから、それがその人にとっての世界の当たり前になる。

そうするとどうなるか!

「安心」して生きている人を見ると、「あの人は間違っている!」という感覚を持つようになる。
「僕はこんなに不安で毎日苦しんでるのに、なんだそんな安心し切った顔をして!けしからん!」的な、懐の深さ0ミリ的発想がぬるっと現れるんである。

霊感商法で300万円を騙し取られたおばちゃんは、本当は普通に頭がいいのだ。
だけどその当時は、家族のことやら何やらでずっと不安だったらしい。
頭の中が、不安でいっぱいだったらしい。
そこに、

第1ステップ:大丈夫だよ、神様がついてるから
第2ステップ:あれ、神様が何か言ってるよ。「お祓いしなさい」ってさ。
第3ステップ:お祓い始めたら、あなたにとんでもないものが憑いていることが分かりました!当初の予算では祓いきれません!マジパネェ!


という3段攻撃を加えられた。

一度優しい言葉を掛けた相手を不安にさせてお金を使わせるのは、霊感商法に限らず詐欺の常套手段である。
詐欺どころか、普通の会社でも同じような手法を取っている。

シワを伸ばす美容液を売る会社は、「この美容液を塗ってキレイになった自分」と同じかそれ以上に、「この美容液を使わずにシワシワになっていく自分」をイメージさせる。
売れている広告というのは、「不安」の分量が実に巧妙に調整されているんである。

・・・時に、僕は神様を信じている。
朝夕ご先祖に手を合わせ、毎日神社で手を合わせている。
そうすると、「不安」と「安心」のバランスが取れるからだ。

不安が消えるのではない。
「バランスが取れる」。

どうせ「不安」は、放っておいても視界の後ろ側にある闇の中から際限なく湧いてくるのだ。
だから、別のことで頭をいっぱいにする。
中和して水にする。

言っておくが僕にはご先祖なんか一人も見えない。
神様の声も聞こえない。
そんな面白おかしいスキルは持ち合わせていない。

だけど、手を合わせる。
例えば血縁のご先祖は、たったの4代遡るだけで、総数28名に登る。
僕ひとりが今生きていることに、浅く振り返っただけでも28人分の命が関わっているんである。

昨日の小さな喜びも
あの日の仲間達との馬鹿騒ぎも
大好きな仲間や家族との関係も

その28人の人生がなければ、命がなければ
僕は感じることができなかったんである。
 
 
 
 
 
 
 
 

・・・と、いうことにして

手を合わせて「ありがとうありがとう」とやっていると、本当にスーッと気持ちが楽になっていく。
胸のあたりをぎゅっと締め付けていた不安が緩むんである。

「だから皆さん手を合わせて感謝しましょう!」

と言いたい訳ではない。
僕という人生を送ってきた僕だから、今そういうことをすると心が楽になる、というだけの話しだ。

大切なことは、心を軽くすることだ。
君が、楽なことだ。

風俗に行くと心が安らかになるのならそうすればいいし、美味しいものをたらふく食べると心が安らかになるのならそうすればいい。
旦那がロクデナシなら別れればいいし、別れた自分を褒めればいいし、別れられない自分なら笑えばいい。

どういうことを考えたら、どういう風に考えたら、自分の心が軽くなるだろうか。
止めどなくあふれてくる不安に振り回されないでいられるだろうか。
いろいろ試すんである。

「じぶん学」。

この学問の解き方だけは、誰も教えてくれない。

不安の振り払い方

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僕たちは日々大変な不安を引きずって生きている。
同じことを繰り返す中にも不安を見出し、同じ人と付き合う中にも不安を見出し、新しいことをするためにも不安を見出す。

不安を感じる理由は実にシンプル。
「そういうふうにできているから」である。
太古、なんたらタイガーやら氷河期やらがやってくる度に身を守らねばならなかった遠い祖先の防衛システムが、僕たちの脳にバッチリ残っているのだ。

だから、不安を感じること自体は決して悪いことではない。
人として当たり前、むしろ正常である。

加えて、何に対して不安を感じるかということはまさに千差万別である。
恋人と会うことを考えるだけで胸がトキメクという者もいれば、どういった理由で怒られるか分からないから大量の言い訳を用意して逢瀬に臨む者もいるのだ(疑わしければ、僕を見よ)。

しかし率直に言って、不安は辛い。
不安に支配されている間は体が萎縮してあちこちが痛くなるし、よくない想像を繰り返している間は脳のメモリが食われるから頭も悪くなる。
場合によっては夜も眠れなくなることもあるだろう。

僕は生来の小心者であるから、これまで数々の不安に襲われてきた(今なお襲われ続けている)。
そのため、「安定した生活」や「確実な成功」といった言葉にすこぶる弱い。
手に入れられるものなら、手に入れたい。

しかし、ふとした時に自分の本質が「変化を求めている」ことを強く感じるんである。
それは勤めの中で自分の成績が変わることもそうだし、日々の生活の水準が上がることもそうだ。
周りの人間関係が良好になることもそう。
「より良い変化」があると、僕はそれはもう嬉しくなって、すっかり張り切ってしまうんである。

「安定」とは、「変化しない」ということではないのだと思う。
自転車でもバイクでも、前に進み続けているから倒れず、安定していられるのだから。

「不安」とは、「足を止めた瞬間に襲ってくるもの」だと思う。
それなりの給料の貰える仕事をしている時は、明日の夕飯を心配することはないのだから。

それを考えると結局のところ、「より良い変化を目指し続ける」ということができれば、僕たちは(少なくとも僕は)不安に襲われることがないのだ、ということになる。
これは実際正しくて、何かひとつものごとを初めてみた時に、それを実行に移すまでは不安で不安で仕方がない。
しかし、実際に行動に移してみると、どうしてこんなことで悩んでいたのかと笑ってしまうくらい、不安は消えてなくなるんである。

確証はない。
保証もない。
そんなもの、初めからどこにもない。

それなら、ひとところで立ち止まって不安に震えているより、バランスを取りながら前に進み続けている方がずっと楽だ。
「不安」とは、「停滞のサイン」なんである。

この話しを彼女様にしてみたところ、意外にも「実はうちにも不安がある」という答えが返ってきた。
人を不安にさせることについては人後に落ちない女であるから、まさか当人が不安を感じているとは思ってみなかった。
ちょうど、スタンガンが感電を恐れているようなものだ。

しかし、その矛盾こそ人間である証なのだろう(彼女様が人類であると仮定して)。
僕は大らかな心と疑いの目を向けて、優しくこう言った。

僕「どんな不安なんだい。言ってみるだけでも、楽になるかもよ」

彼女様「お前と一緒にいること」

新たな不安が芽生えた。