肯定的な指示が出せない理由。

6

子供の頃、よく母親から「落ち着きなさい」と叱られた。
あまりによく「落ち着きなさい」と叱られるので、日々叱られるのではないかと不安がつのり、ますます落ち着がなくなったものだ。

このように、「〜してはいけない」という指示は高い確率で望まない結果に繋がる。
この事実は指摘されて久しいが、実践出来ている者は少ない。
その理由は、以下のものが挙げられる。

①「〜してはいけない」という指示を出すのが楽

人に「〜してはいけない」という指示を出すとき、出す側は高い確率で怒りや不快感を覚えている。
それを押して肯定的な指示を出す精神性の高さを兼ね備えた人物は、少なくとも僕の恵まれない交友関係の中には存在しない(疑わしければ、僕を見よ。類は友を呼ぶのだ)。

加えて、発音の問題もある。
「いいよ」よりも「ダメ」の方が言葉として言いやすいし、「Yes」よりも「NO」の方が咄嗟の時に口を付いて出るだろう。
関係ないが、「ゆうさく」よりも「おまえ」の方が言いやすく、「ここを直してほしい」よりも「地獄の底までぶっ飛べ」の方が言いやすいとという証言も、一部の人物から上がっている。

言葉を制するというのは、己の感情を制することと同義である。
感情を制することができないうちは、言葉を制することは叶わないだろう。
感情を制する気がない者も、言葉を制することはないだろう。

②代案を考え出せない

「〜してはいけない」という指示を出さないというのはつまり、「〜してほしい」という代案を出すということだ。
代わりにどのような言葉を使えばいいのかというのは、感情を制する能力に加えて、目の前の物事を別の視点で見つめる能力が必要となる。

事実を湾曲して捉える人物は多数存在するが、建築的な別視点で言葉を生み出せる者は少ない。
そんな人物にこの問題を相談したらきっと、代案を考え出さなくて済むような代案を出そうと言われるだろう。

③行動を矯正する気がない

理由は分からないが、否定形の指示が相手の行動を変える力を持たないことを知った上で、わざと「〜してはいけない」といった指示を行うパターンだ。
そうすることでどのような利益があるのか分からないが、もしかしたら注意をする振りをして相手の人生を棒に振ってやろうと考えているのかもしれない。

そう考えると僕に向かって日常的に「食べすぎるな」「無駄遣いをするな」「怠惰な生活をするな」と指示している彼女様は、僕の人生を破滅に向かわせる諸悪の根源であると考えられる。
それはジョーズで言うところのジョーズ、エイリアンで言うところのエイリアン、ドラゴンボールで言うところのフリーザ様である。
たぶん一度二度打破した程度ではパワーアップして再登場してくるるから油断ならない。

肯定的な指示を出すことの困難が理解していただけたかと思う。
思えば僕たち自身が様々な場面で「〜してはいけない」といった指示をされてきたから、肯定的な指示がどのようなものであるかを知らないのかもしれない。
あるいは、自分がこれほど否定的な指示をされてきたから、後輩にも一発カマしてやらねば気がすまないといった前時代の体育会系的発想もあるだろう。

しかし僕たちは過去に住まう大人達でもなければ、前時代的体育会系マッチョイズムに燃える先輩でもない。
今を生き、未来に向かう理性的な現代人である。
今この瞬間に僕たちが変わること、過去や前時代を許し、決別のために優しい歌を歌うことが、理性的な現代人に課せられた使命である。

だからこそ、忘れないで頂きたい。
「〜してはいけない」という指示は絶対にしてはいけない。

連想型発想の難解


lgi01a201312181900


人の発想には2種類ある。
垂直型の発想と、連想型の発想だ。

このうち直立型の発想は比較的自分の意思で生み出しやすいのだが、連想型の発想の場合は「ひらめき」的な要素が大きくなる。
女性の会話が論理的に破綻しているように感じられても問題なく続いているのは、この連想型の発想を繰り返していて、またその場にいる者同士がお互いの突飛な発想を認めているからだ。

特に女性は言語ではなくイメージで連想を組み立てる傾向が強いという。
つまり、男もある程度イメージで連想を組み立てることができるようになれば、女性の不可解な言動にもある程度ついていけるのではないか、と仮定できる。

しかし先日、この仮定が誤りであることが明らかになった。
彼女様が作ったカレーを食べていたら先日行ったカレー屋のことを思い出し、「梅田に上手いカレー屋があってさ」という話しをしたところ、劇的に不機嫌になったのだ。

僕は驚愕した。
ふと浮かんだイメージで言葉を紡いだのだから、これはある種女性的な発想ではないのか。
どうして不機嫌になったのかを尋ねたところ、自分の作ったカレーを食べている時は、自分の作ったカレーを褒めるべきであると言われた。
それ以外のカレーの話しをするのは、言語道断、打ち首獄門、マハリクマハリタヤンバラヤンヤンヤンなのだそうだ。

失敗から学んだ僕は数日後、彼女様が作ってくれた野菜炒めを食べながら、それを褒めた。
人を褒めるというのは高度な技術が必要だ。
「おいしいよ、水揚げしたばかりの昆布より」などと言っても喜んでもらえるかどうかは微妙である。

僕が一生懸命に褒める言葉を探していると、不意に彼女様が昨年言った京都のかき氷屋の話しをし始めた。
今年ももう一度行きたいのだと、焼肉のタレで炒められたキャベツをバリバリと齧りながら訴えてくる。

僕は「そうだね」と返すのだけど、そのかき氷屋のことをどうしても思い出せない。
一体この野菜炒めのどこに、京都のかき氷屋に繋がるエッセンスがあるというのか。

その場しのぎの生返事をしていると、確実にそれを見破るのが女性の恐ろしいところだ。
呆気なく記憶の欠落を見破られた僕は、「ありえへん」と言われつつ皿の中にあった肉の切れ端を奪われた。

「時と場合」などという言葉では全く理解のできないことが、この世には溢れかえっている。
そもそも「時と場合」という言葉から連想されるアイデアが男女間で異なるだろうから、問題は深刻だ。

取り急ぎ次回彼女様に料理を作ってもらった時には、京都のかき氷屋の話しをすることにする。
どんな店でどんなものを食べたのか全く覚えていないが、彼女様から詳細を聞くうちに思い出せるだろう。
かき氷屋の話しの途中で、先日借りた1000円の話しになったりしなければ。

声に生きる男の話し〜申し訳なさそうな声の出し方〜

よく「自分の声をレコーダーに録音して聞き直すと自分の声に聞こえず、気持ち悪い」という話しを聞く。
そういった話題が上がる度に「その意見さえも今まさに気持ちの悪い声で訴えているのだね」と相手の精神を谷底に突き落とすよう努力している。

録音した自分の声を「気持ち悪い」と感じる理由は2つある。

①本当に気持ち悪い
②普段自分の声を意識していない

である。
このうち、①はもう救いがない。
「気持ち悪い」の基準は個々別々のものであるから、斬新な感性を持った人(他の生物種、異星人も含める)との出会いに期待するしかない。

改善の余地があるのは、圧倒的に②である。
多くの場合、人は自分の発声に対して主に「身体的な感覚」を「声」であると錯覚している。
ちょうど、「努力しているのだから報われるべきだ」と考えている人が報われないのと似ている。

例えば、二次関数のテストで100点を取るために後鳥羽上皇の出生の秘密を研究するのは、明らかに努力の方向を間違っているだろう。
しかし当人は実に何回な課題に取り組み、大変な努力を捧げたのだから、自分は報われて然るべきである、と考える。
結果的にその人は二次関数のテストではロクな点がとれず、「努力は報われない」という法則への確信を深める。

「声」もそれと同じなのだ。
ふつう人は「発声」することで自分自身が感じる「感覚全体」を「声」として捉えているものだから、いざレコーダーに録音した「声”だけ”」を聞くと、ふだん自分が感じているものとあまりに違うから、違和感を感じるんである。

だから何度もレコーダーに録音した自分の声を聞き返していると、ふだんの自分の体感の中から純粋な「声」の部分がしっかりと浮き出て聞こえるようになってくる。
実際に僕は日常的に自分の声を録音して聞き直しているが、スピーカーやマイクといった外的要因を除けば、ほぼ自分の喋りながら歌いながら感じている自分の「声」と、同じ音に聞こえる。

どうして突然こんな話しをするのかというと、「声」というのは人が思っている以上に大きな力を持っているからだ。
人に謝罪する時、どれほど心が伴っていても「申し訳なさそうな声」でなければ、相手は納得しない。

特に男はふだんから無意識に不徳を積んでいるものだから、いざ女に叱られる場面になるとまず前提として許されないのだ。
そんな中でも極力早い段階で場をやり過ごすためには、「申し訳なさそうな声」が出せるかどうかが勝負なんである。

軽薄なる諸兄には、ぜひこの「申し訳なさそうな声」をマスターして頂きたい。
「申し訳なさそうな顔」や「申し訳なさそうな仕草」をマスターできるとなお良い。
僕のように生まれながらにそういった所作を身に付けている者はまだいいが、そうでない人はぜひレコーダーで自分の声を録音して、研究すべきである。

ところで、「申し訳なさそうな声」をマスターしても、男の苦労が終わる訳ではない。
「申し訳なさそうな声」は主に詰問などを受ける時に使うのだが、女は高い確率で「優しそうな声」をマスターしている。
ちょっと「優しそうな声」を出されたからといって「あ、許されるかも」と勘違いし、本来墓まで持っているべきである秘密事項を漏らしてしまうのだ。

常に女は男のひとつ上をゆくものだ。
「申し訳なさそうな声」をマスターし、「女には叶わない法則」を知るのだ。
そうすれば僕のように、顔を合わせる度になんらかの理由で叱られたり怒鳴られたり暴力を振るわれたりするだけで済むようになる(今の所命までは取られていない)。

今すぐ手元のスマホなどのレコーダー機能を立ち上げて一言「申し訳ございませんでした」と録音してみよう。
豆腐をしゃもじで叩くような声が聞こえるかもしれないが、安心していい。
生まれてこの方、その声で生きてきているのだ。
もうとっくに手遅れだから、開き直ってトレーニングに励もう。

089

虎穴に入らずんば虎子を得ないけど虎はめっちゃ怖くて危ない。


150423_morinomiya_001


大阪の森ノ宮というところにキューズモールというショッピングモールが出来たと聞いた。
このショッピングモールの売りは何と言っても屋上に設置されたエアトラックという人口芝のランニングコースである。
全長300メートルのこのランニングコースは、ショッピングモールというビジネスモデルに新たな一石を投じる一つの流暢の表れであるとかないとか、なんかそんな話しなんである。

時代の流暢の某かはとりあえずおいておく。
ここのところすっかりと引きこもりだった僕は野外の空気を吸う理由が欲しくて、無謀にも彼女様に声を掛けてこの森ノ宮キューズモールへと繰り出した。

森ノ宮キューズモールは規模こそそれほど大きなものではなかったが、各所に前進的な試みが取られている。
ドッグランを併設し、愛犬と歩き回れる施設。
お客が持ち寄った本を読みながらコーヒーが飲めたり、備え付けのMacでブラウジングができるカフェ。
表情豊かな輸入食品のお店、などである。
犬好きカフェ好き輸入食品好きの彼女様はそれはもう凄まじい勢いで食いついてきて、いかに犬とカフェと輸入雑貨が素晴らしいかを聞いてもいないのに延々と語っていた(「どうしてお前は車を持っていないのか」「どうして今までそのような施設の存在を教えなかったのか」「どうしてお前は綾野剛ではないのか」といった意見を含む)。

モールに到着すると、すぐに室内ロッククライミングの施設が目に入った。
ナウでヤングな呼び方があったような気がするが、まあいいじゃないか。

岩っぽい質感の壁がどどーーーんと3フロアくらいぶち抜きでおっ立っていて、そこに色々な色の手がかりがある。
おそらくコースによって難易度があって、初心者は白色のコース、上級者は紫色のコースといった具合にわかれているのだろう。
よく見てみると、やはり壁が突き出しているような部分は、手がかりの色も偏っているように見えた。

「ちょっとやってみたい」

そういって大きな壁を見上げる小さな女は、「今日は無理やけどな」と肩の出た服をさすってそういった(肩で人を攻撃した時に服が破れないようにするためだろう)。
「あそこ難しそうやなあ」と目を細める彼女様のご尊顔は見つめる先の、挑戦者を重力の底に叩き落とすべく突き出した険しい壁肌によく似ていた。

適当なカフェで食事を済ませ、「うちの料理の方がおいしい」という彼女様の洗脳を受けてから、店を一通り巡ってブックカフェに入った。
壁じゅうが本棚になっていて、コーヒーを楽しみながら本が読めるというコンセプトのカフェだ。
店の名前は忘れたが、絵本からビジネス書までたくさんの本が集まっていて、活字とカフェインに目がない僕にとっては、んもう卒倒しちゃいそうなくらいうれしい場所である。

席を陣取ってからホットドッグとコーヒーを2杯頼んで席に戻ると彼女様が般若のような顔をして(いつもの顔だ)、自分のコーヒーはいらなかったのだと主張した。
僕が頼んだコーヒーを横から略奪して、経費を浮かせる作戦であったらしい。
確かにお店からは1人1品頼んでおくんなしよ、といった要望がある訳ではない。
なるほど、実に理にかなった作戦である。
唯一問題があるとすれば、それが注文を取りに行く実働隊たる僕に伝わっていなかったことだ。

「え、コーヒーいらんし。」

という彼女様の声が聞こえた時、既に僕が注文した2杯のコーヒーと1匹・・・じゃない、1本のホットドッグは、トレイの向こうでステンバイされていたんである。

そこからはまるで飢えたトラと一緒にいるような気持ちだった。
彼女様は怒りがある一定の水準に達すると黙り込むという性質を持っている。
そうなったら何をしても無駄である。

隣の席で騒がしく子供をあやすばあさんに怒り、それを止めない店員に怒り、恐怖に震えながらも自分の時間を楽しむ僕に対して怒っている。
その怒りをじゅくじゅくと溜め込み、鬱屈したエネルギーに変えているのだ。
ちょうど地球に飲み込まれる大陸プレートに引っ張られた活断層がエネルギーを溜めているのに似ている。
解き放たれるそのエネルギーは破滅的な勢いをもって未曾有の大災害をもたらす。
自然災害と違うのは、その破壊のエネルギーがたったひとりの紳士に向けられるという点である。

特にこれといった打開策が見いだせないまま2時間ほどが経った。
うるさかったばあさんが店を出て、彼女様も少し落ち着いたようであった。
遠くの方で今度はじいさんが2人で何やら話しているが、男2人の騒がしさなど、ばあさんのやかましさに比べるとハトが鳴いているようなものだ。

多少落ち着いてきた彼女様ともう1周スーパーを回って、その日の夕食の食材を買って帰ることにした。
輸入雑貨の店で見立てた商品を、この日5%オフのセールをしていたスーパーで買う。
これを嬉々として行う彼女様の背中に、世の女性方のリアルを垣間見た気がした。

その日は事務所に帰ってから、やたらと美味いソーセージを2人で貪るように食べた。
モモンガのきゃす子さんにはブルーベリーが振舞われた(彼女様は僕以外の生き物には優しい)。
そのような穏やかな時間が、唐突に破られた。

「お前は人が怒っててもよく楽しそうに本が読めるな」

現場は緊張に包まれた。
主語がないが、返答を誤ると命に関わる。
「怒って」「楽しそう」「本」というキーワードから、今日のブックカフェでの出来事に関する話であると推測された。
僕は天に祈るような気持ちでこう答えた。

「へ・・・平気じゃないけどね、2人で不機嫌になったって、きっと楽しくないじゃん・・・ないじゃないですか。」

一般的な答えだ。
つまらないが、無難であり、ベストである。
敵の出方を慎重に伺う。

「まぁそうなんやけどな。実際ああなったら何されても噛みつくし。」

よかった。
引き出された答えは決して喜ばしいものではないが、とにかくこの場はうまく切り抜けられそうだ。

「でもやっぱりムカつく。」

そうだろう。
そこは読めていた。
ここで僕に必要なのは、歩み寄りの姿勢だ。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
懐に入れば、トラの爪も届くまい。

「じゃあ、ああいう時ってどうしてほしいの?」

チェックメイトだ。
後は彼女様の要望を聞き入れて、次回からの施作として展開するだけである。
勝利を確信した僕は、祝いのビールを片手に返答を待った。

「噛み付かれてでもいいから優しくするべきや」

爪を避けて懐に飛び込んだら牙があった。
優しい明日がほしい、それだけなのに、僕の視界にはいつだって鋭いものが写り込んでいて、この喉笛を狙っているのだ。

苦いビールを噛み締めていると、ブルーベリーを食べ終わったきゃす子さんが「もっと美味いものをよこせ」と暴れ始めた。
「きゃぁ〜す子ぉ〜」と猫なで声で人参を差し出した彼女様が、指を噛まれて「このやろう!」と怒り始めた。
割といい歳になる女とモモンガの喧嘩を見ながら僕は、平和とは犠牲の上に咲く花なんであると悟った。
この土壌には、まだまだ土が必要らしい。

知的労働者の憂鬱


PAK93_taikusuwariatama20140322-thumb-815xauto-16854


かねてより中々信じてもらえていないのだが、僕はミュージシャンである。
さらにさらに信じてもらえていないが、僕は知的労働者でもある。

知的労働の何たるかを理解できる者は少ない。
僕自身もよく分かっていないくらいだ。

しかし少なくとも自分自身の経験から、知的労働が肉体的労働に比べて精神的負荷の大きいものであることは分かっている。
工事現場で室内清掃の仕事をしていた時は適当にサボっていれば同じ仕事をしている仲間が進めてくれていたのだが、最近では自分が仕事を進めなければ仕事が進まないという危機的状況が常であるからだ。
具体的には、自分が曲を書かなければ曲が増えず、自分が練習をしなければ腕が上がらず、自分が記事を書かなければブログが更新されない。
自分の置かれた厳しい状況に目眩がする。

知的労働者は孤独である。
孤独故に抱える苦悩を理解してもらえることが無い。
先日も彼女様に「ブログを書かないでいたらページが更新されなくなった」と愚痴をこぼしたら、何も言わずに横っ面をはたかれたところだ。

もはや僕の苦悩を癒やしてくれる存在はモモンガのきゃす子さんだけである。
増築工事を経て広くなったゲージの中でモリモリとブルーベリーを食らうきゃす子さんに相対し、胸の内を明かした。
きゃす子さんは暫く黙って聞いていてくれたが、そのうちブルーベリーを食べ終わるとゲージの中をバンバンと飛び回り、「もっとブルーベリーをよこせ」と目で訴えた後つい最近新設したばかりの止まり木の上で放尿してココナッツハウスの中に帰っていった。

モモンガにさえ見放された僕はすっかり意気消沈して、ひとつの重大なる決意をした。

「ブログを書こう」

そもそも、これが出来れば問題は起こらないのだ。
現代インターネット史に残る大ヒット記事を書けば、それで事は全て丸く収まるんである。

僕はMacBookの電源を立ち上げ、ブラウザを開いた。
そしてYouTubeを開き、仮面ライダードライブの動画を見てから水曜どうでしょうの動画をチェックした。

気が付くともう寝なければならない時間だった。
ここのところ朝起きられない日々が続いているので、夜更かしをする訳にはいかない。
大泉氏のボヤキに後ろ髪を引かれながらブラウザを閉じて布団に潜り込むと、今日のブログが更新されていないことが気付かれた。
知的労働者の苦悩は、実に根深い。

鉄の精神のささみカツ定食

僕は自制心にあふれた男だ。
自らの中から溢れてくる欲求を退け、全体を俯瞰した大きな視点で生きている。

先日も出先で入った定食屋で、痩せたいという欲求を退けてささみカツ定食を平らげた。
衣とソースと白米の織りなすハーモニーが実に心地よい。
カウンターの奥のおばちゃんも満足げである。
俯瞰した視点で生きるというのは、あらゆる物事を正しく導いてくれるのだ(腹が出てくるという事象を除く)。

やりたいことをする、というのは、勇気が要るものだ。
例えば僕たちのような歌うたいは、常に「誰かに笑われる」というリスクを背負っている。

打って出るというのはそういうことだ。
多くの人の前に打って出て何かをしようとすると、あるいは、多くの人の前に打って出なくても、「そうすることで人から笑われる/バカにされるのではないか」といった悪しき想像が、僕たちの心と体を締め上げるものだ。

ささみカツ定食を食べきると、腹が出る。
オフィスワーカーにとって定食屋のメニューは明らかに栄養過多だ。

しかし、食べたいから食べる。
「腹が出る」というリスクは「食べて幸せ」とセットであるから、受け入れる。

かっちょ悪いのは、「腹が出るから嫌だなぁ」と言いながらささみカツ定食を食べきることだ。
そんなことを言っていたら締められて揚げられたトリだって、素直に栄養になってやろうなどと思ってはくれまい。
どうせ食べるのなら、ドキドキしていてもいいから、「食べて幸せ」にもっとフォーカスすべきだ。

痩せたい欲求に打ち勝ち続けた結果、僕は鉄の意志を手に入れた。
よほどのことがない限り、もはや僕は痩せたい欲求に負けることはないだろう。
米のツヤ、カツの歯ごたえ、味噌汁の味わいに見事にフォーカスし、まさしく幸せを噛み締めて生きている。

ところが先日彼女様が僕の腹を見てこう言った。

「食べたい欲求に負けすぎとちゃうか。」

発送の転換とはまさにこのことだ。
目から鱗がボロボロと落ちていく。

そう言われてしまってはしかたあるまい。
今度から僕は食べたい欲求に打ち勝つ鉄の精神を持てば良い。

しかしなぜだろう、全く勝てる気がしないのは。

何する訳でもなき日の祝福。


写真 2015-06-15 6 07 10


土日に少し時間ができたので、和歌山の実家に一泊帰省をしていた。
両親もじーちゃんも猫のカイちゃんも健在で、実に安心した。

僕の地元はメインストリートの十字路に信号もないようなど田舎だ。
地域住民はモラルとアイコンタクトで角を攻める。

我が家はそんなメインストリートから200メートルほど山の中に入っていったところにある。
窓を全開にして寝転がれば水と稲の間を泳いできた風がカエルの鳴き声や木々のさざめきを連れてやってきて、僕を優しく撫でてくれる。
ただそこに居るだけで心が静かになり、余計なものが落ちていく。

雨の合間に曇天を見上げていると、白くて大きな鳥が二羽、連れ添って飛んで行った。
隣りに居たじーちゃんが、

「あの鳥が本流の川からこっちゃの細い川に来るから、魚が随分減ったど」

と言う。
確かに、広い川よりずっと漁がしやすいだろうと返すと、

「うぇあからっちゃらあぁぁょお」

と返ってきた。
一か八かで大きく頷くと、じーちゃんも満足そうに頷いた。
今回は僕の勝ちだ。

街で生きていると、そこにはたくさんの雑音がある。
いやきっと、田舎に生きていても、その雑音は聞こえてくるのだろう。

僕らはどうしたって過敏だから、その雑音の中から悲しい音や辛い音を拾ってしまう。
ただ、極端な環境を往復していると、その雑音は実は外から聞こえてきているのではなく、自分の中で鳴っているものなのだと気付く。

当然、いかに田舎の環境が素晴らしくても、親父が酒を飲むと暴れるとか、母親がガミガミうるさいとか、そういうのでは今ひとつピンとこなかったかもしれない。
しかし幸いなことに、僕の両親やじーちゃんや猫のカイちゃんは僕のことを笑顔で歓迎してくれるのだ(一部、ペディグリーチャムを要する者がいる)。

こんな幸せなことはない。

窓を全開にして、カーペットの上に枕だけだして、そこで昼寝をする。
生まれてこの方見上げつづけてきた天井がそこにあって、ぼんやり眺めてウトウトしているとため息が出るような至福が押し寄せてくる。
あまりに気持ちよくて、そのうちに自分と自分以外の境界線が曖昧になってくると、今度は感謝の気持ちが止めどなく湧いてくる。

そしてまた、この瞬間が永遠でないことも感じる。

既に僕は何人も家族を見送ってきた。
僕自身が子供から大人になるというプロセスも経てきた。

それは、僕たちの家族が生きていることの証である。
死の天使はいつでも、今この瞬間の幸福に感謝せよと、僕たちに語りかけてくれるのだ。

戻ってきた大阪は、雑然としていて狭苦しい。

だけど、僕は知っている。
この雑然とした狭苦しさは、僕の中にあるものだ。
本当なら今この瞬間に、家族や自然との繋がりを感じることだってできるのだ。

母が持たせてくれた弁当を食べていたら、ふとそんなことを思った。
出かけるまでまだ少し時間がある。
後で枕を持ってきて、事務所の床に寝転んでみよう。

写真 2015-06-15 6 07 10

大根で釘を打つ人


lgi01a201410180600


「ずっと大根で釘を打ち続けているのだけど、うまくいかない。
 なんとかしてもっと楽に上手くやりたいのだけど、大根以外の道具は使いたくない。」


こういう人が本当に、本当に山ほどいる。
僕は仲間の音楽活動のやり方にアドバイスをしたりすることがあるのだけど、その時にちょうどこのような話しになるのだ。

大根で釘は打てない。
カナヅチを使えばよろしい。

しかし、カナヅチを使うと指を叩いて怪我をするかもしれない。
あるいは、角度を間違えて釘が曲がるかもしれない。
っていうか、他の人はみんなカナヅチを使ってるんだから、自分は個性のために同じものは使いたくない。

という訳で、その人は変わらず、釘は打ち込めず、辺りは大根の欠片と汁にまみれる。

それは山本の教え方に問題があるのではないかという指摘の声が聞こえてきそうだ。
当然、問題はある。
しかしそもそも、大根を手放す気のない人には、知識以上の何かを注ぐことができないのだ。

変化する覚悟を持った人は、1の言葉を10にする。
変化を拒む人は、10の言葉を0にする。
大根を冷凍してみようとか、釘との間になにかを挟んでみようとか、そういう話しを求める。

しかし、答えは「カナヅチを使おう」なのだ。

人に、人を変える力は無い。
皆無である。
しかし、自分が認識する世界を変える力は無限に備わっている。

どうすれば大根を手放し、カナヅチを受け入れられるのか。
それは、1度カナヅチを使ってみることだ。

当然、上手くいかない。
大根とカナヅチでは、使用感も手触りもよっぽど異なる。
釘は曲がるだろうし、指を叩いて怪我をすることもある。

しかし、釘は進む。

少し練習して上手くなってくると、それが当たり前になる。
そうして初めて、「美しい釘の打ち方」という段階の話しができるのだ。

僕に人を変える力は無い。
音楽にも、人を変える力など無い。

君の中に君が変わる力があるのだ。
君の中に、音楽から力を生み出す心があるのだ。

日本の神道では、あらゆるものの中に神が宿ると言う。
「あらゆるもの」に神が宿るのだから、「君」にも神が宿っているということになる。

神社の本堂には殆どの場合鏡が置かれている。
賽銭を入れてガラガラとやって、手を合わせて感謝と願いを託して、目を開けるとそこには鏡に映った自分の姿がある。

「君」が「神」なのだ。
「神」なのだから、「何でも」できるのだ。
「何でも」できるのだから、「大根を手放してカナヅチを使う」ことだってできるのだ。

そのことに気付くだけなんである。
ボロボロの大根を何本も使って疲れ果てる必要はない。
大根のストックが無くなったからといって次の収穫の時期まで待つ必要もない。
打てど進まぬ釘を見て「自分には才能がない」などと愉快なことを言う必要もない。

もちろん、「大根で釘を打つ」ことも、「何でも」の中に含まれる。
しかし、それで上手くいかないから、今しんどいのだ。
「何でも」できるのに「やり方を変えたくない」というのだから、それはその人の考え方の問題なんである。

君の鏡に映るのは、いつだって君自身だろう。
君以外の人には、君を変えることはできないのだ。

僕はいつでも、「カナヅチを持とう」という歌を歌っている。
何か相談されると、やはり「カナヅチを持とう」というアドバイスをする。

飛び散った汁が目に入って、随分と痛そうじゃないか。
1度カナヅチを使ってみたら、どうだろうか。

無意識のポケットにポテトチップスみかん味。


写真 2015-06-04 7 29 10


先日彼女様がコイケヤのポテトチップスみかん味なるものを買ってきた。
「優作にも食べさせてあげたいと思って」などと言いつつ、既に封の空いた袋を差し出してくる。
死ぬほど不味いか、毒が盛られているか、二つに一つだ。

恐る恐る手を伸ばしてひとつ口に含めてみると、塩気とイモの微かな香りの手前で微妙な柑橘の香りが待ち構えていて、それが咀嚼を終えて飲み込んでもしばらくの間舌の付け根でランバダを踊り続ける。
顔をしかめて嗚咽を漏らしていると、彼女様は実に満足げに微笑んでこう言った。

「胸焼けがするであろう」

負けると分かっていても戦わねばならない時がある。
いかな危機的状況においても冷静さを失わず、泥水を飲む覚悟を決めておくのが、紳士の嗜みである。
泥水を飲まなければ、泥団子を食べさせられるのだ。

今年に入ってから新しいことを大量に始める機会に恵まれている。
仕事もプライベートも、去年の年末とは随分と変わってきたものだ。

変化するのだから、当然そこには戸惑いや不安が付きまとう。
我が家にモモンガがやってくることになった時などは逡巡する間も与えられなかったのだが、普通は多少迷う程度の時間はあるものだ。

そこで迷わず変化を受け入れることが真髄であると知った。
新しい仕事、新しい試み、新しい生活・・・これらは実に激しく僕たちの不安を煽ってくる。
しかし、あらゆる物事というのは何らかの理由で起こるものだ。
仮に目の前の出来事が全て自分の人生のために起こっているのだとしたら、それがどれほど困難でもポケットに入れて歩いていくのだ。

その時、今までポケットに入れていた宝物をひとつ、捨てなければならない。
それがどうにも、辛いんである。

それでも、辛くても、捨てる。
拾って捨ててを繰り返す。
僕たちのポケットには、「ひとつのもの」しか入らない。

使わなくなったものは捨てる。
要らなくなったものは捨てる。
古くなったものは捨てる。
常に「ひとつのもの」が最新であるように努める。

とは言っても、そもそも人は一度見聞きしたもの、魂に刻んだ物事というのは、決して失わない。
仕事でも、覚え始めの頃は色々なことを意識しながらでなければこなせないが、そのうち何も考えなくてもある程度の作業ができるようになる。
僕たちのポケットの奥には無意識のポケットがもうひとつあって、そこまで入っていった物事というのは、絶対に失くすことがないんである。

胸焼けにうなされていると、彼女様が「他にも桃味とか売ってたよ」と言う。
僕は丁重にお断りして、冷蔵庫の中のコーラゼロをぐぐーっと飲み込んだ。

無意識のポケットにまたひとつ、余計なものが落ちてくる音が聞こえた。

マリオとモモンガとイケメンの苦難の道。


lgf01a201304120300


同じパターンを繰り返すのは実に心地よい。
子供の頃スーパーマリオの得意なステージを延々とプレイし続けたことがあるのだけど、一つの流れの中で同じ作業をベストなタイミングで繰り返すというのは、他では味わえない絶妙な快感を連れている。
そういった繰り返しが高じて僕らは技術を磨いたり、得意なものを身に付けたりしてゆくものだ。

ところが、同じパターンだけを繰り返し続けていると、いずれ限界がくる。
マリオの目的はピーチ姫を救い出すことであって、フリーランのエキスパートになることではない。
キノコ城のガバガバなセキュリティ環境や危機管理体制についても検討の余地があるのだから、配管工の仕事をしている場合でもない。
ひとつのステージをクリアしたら、次のステージをクリアしないと、ヒゲのオヤジやヒゲのジジイとなり、桃の姫もいずれババアになってしまう。
亀だけが、万年生きて元気だ。

姫を助けるためには、水中ステージが苦手でも、水中ステージを超えていかなければならない。
勝手に画面がスクロールしていくステージが嫌いでも、超えていかなければならない。
「姫を助けない」という選択をすることもできるが、その後に残るのは「スーパーマリオがクリアできなかった」という事実のみだ。

自分がやりたいと感じたことに向かう道中で出会う苦労や苦難は、やりたくないことに耐える苦労や我慢とは、全く異質なものだ。
挑んでいる間は辛いかもしれないが、その次には必ず達成感や進行の喜びがある。

コーラは、あのとんでもない量の砂糖が入っているから甘くておいしいのだ。
美味しさは欲しいけど砂糖は要らないというと、とんでもない量の人工甘味料が入ったコーラ・ゼロがやってくる。

都合の良いことと悪いことというのは、常にセットでやってくるのだ。
新しく彼女ができたら、その彼女の過去や家族がセットでついてくるようなものだ。
ケータイを買ったら、月々の支払いが付いてくるのと同じことだ。

願いがあって、期待があって、それを叶えたい。
だけど、苦労も苦難もごめんこうむる。

そういったことを言っていると、人工甘味料たっぷりのアヤシイコーラが出てくるんである。
それを飲んで、「美味しくない」などと文句を言ってみたり、「結局人工甘味料ってヤバいんだよね」なんて言っているのが、僕たちだ。
もう何がしたいのかサッパリ分からない。

大量の砂糖を引き受けてみることだ。
飲んで、太ってしまえばいい。
そうすれば少なくとも、甘くておいしいコーラが飲みたいという願いは叶う。

コーラが良いという意味ではない。
コーラ・ゼロが悪いという意味でもない。

コーラが飲みたいのなら、飲めばいい。
大量の砂糖を引き受ければ良いのだ。

同じパターンを繰り返すことは心地よい。
しかし、コーラ・ゼロを選び文句を言い続けることが「いつもと同じパターン」になっているのなら、苦手で嫌いな水中ステージのように、不安で不快なものを引き受けなければならない。
少なくとも、コーラ・ゼロを飲みながら文句を言い続ける未来より、コーラを「美味しい」と言いながら飲み続ける未来の方が、よほど健全で健康的である。

先日僕の事務所で飼っているモモンガのきゃしーに食事制限が言い渡された。
食事の量は1日25グラム。
種のような種子系は1粒までなのだそうだ。

これまで日がな食べ続けていたきゃしーにとっては、苦難の日々である。
自分がゲージの中で飼われるモモンガでなくて良かったと胸をなで下ろしていると、ある日彼女様が僕のおやつにと持ってきた松の実の袋に、このようなメモが書かれていた。

・ゆうさく→1日10個
・きゃしー→1日1個


遥か遠い苦難の道に、地雷地帯とか有刺鉄線とか猛獣地帯とか、そういうものがゴロゴロ転がって見えた。