敗北のすゝめ。〜色々な視点でモノを見るために〜

「色々な視点でモノを見ろ」、というのは古今東西あらゆる場面で使われる金言である。
ところが、この金言には大きな欠点がある。
色々な視点でモノを見ろと提言される人間は、そもそも視点の増やし方を知らないんである。
つい最近も色々な視点でモノを見ろと言われた僕が言うのだから、間違いない。

最近でもそうなのだから、若いころはもっとひどかった。
自分からワンパターンな楽曲しか出てこないことを嘆き先輩に相談すると、決まってこう言われたものだ。

「もっと色んな曲聴いたらええねん」

ハッキリ言って、それをやりたくないから聞いているのだ。
今までと何も変えず、何も変わらず、目覚めたように名曲がジャバジャバ湧いてくる方法を聴いているのに、そんなことを言われてはがっかりする他ない。
たまに「そうかぁ」と意を決して勧められたCDを聴いてみても、結局その日聴きたいのはサザンの東京シャッフルだったりして、アルバムの2曲目くらいで飽きてディスクを交換することになる。

そうこうしている内に何年か経って、自分の周りの環境が変わって、周りの人間が変わって、自分が変わったような気になる。
ところがまた次の場所でしばらくやっていると、どこからともなく聞えてくるのだ。
「毎回似たような曲だよね」と。

このように、新たな視点を手に入れるということは生半可ではない。
新しい視点は周りの人がいくらでも教えてくれる。
難しいのは、これまでの視点を手放すことだ。
これまでの自分を手放すことだ。
そうしたいと思ってやってきたことを、やめることだ。

今自分の身に起こっていることは、全て今までの自分の考え方の集大成である。
僕はサザンだけをウットリ聴いて生きていたかったから、自分の中に色々な形の音楽を入れることをしたくなかった。
それが、いざ音楽を作る側になった時に、当然似たような曲しか出てこない。
ちょうど庭の畑に大根の種しか蒔いていないのに、ナスが取れないと嘆くようなものだ。
何というか、正気の沙汰ではない。

ところが、僕たちは時折そんなことを本気で思ってしまう。
困ったものだ。
待てど暮せどナスの収穫の日は来ない。
彼女様の足のような立派な大根が取れたとしても、「ナスがほしいのに」とブツブツ言っているものだから、つまらない。

隣の家のナスが収穫できている人は「ナスの種を蒔けばいいよ」と言われて種を分けてくれる。
でも自分は大根の育て方を良く知っていて、ナスを蒔いても自分の知っているセオリーと違うからしっくりこない。
気が付くともらったナスの種を腐らせていたり、蒔いた種に水をやらないようになっている。
結果、昨日と同じ大根が取れる。
昨日と同じ曲ができる。
昨日と同じ悲しみがやってくる。

ナスがほしいのに大根の種を蒔き育てていても、決してナスは実らない。
しかし、答えは簡単だ。
隣の家の人から、ナスの種を貰って、蒔いて、言われた通りに育てればいい。

それができない理由は、たったひとつ。
ナスの種を貰うこと、ナスの育て方を教わることを、「負けてしまう」と感じるからだ。
それが悔しくて、僕たちは差し出された愛を握りつぶしてしまう。
受け取ることが、できない。

あのね、ナスの種を貰っても、ナスの育て方を教わっても、いい。
とっとと負けてしまえばいい。
勝負に勝つための唯一の方法は、負けを認めることだ。

隣人はナスを作ることができる。
自分にはできない。
アンタの負けなんである。
認めて、白い旗を振って、手とり足とり教わればいい。
そのうち、聞かれるはずだ。
「ところでアンタとこの大根、ずいぶん立派だけど、どうやって作ってるの?」と。

負けて初めて、勝つことができる。
負けて初めて、勝負などなかったことが分かる。
負けて初めて、自分が自分を敗者に仕立て上げていたことが分かるものである。

先日、彼女様から要冷蔵のドレッシングを常温保存していた件で非難轟々罵詈雑言の弾幕を浴びた。
「少しくらいは台所周りに気を回す視点を持て」という。

言っておくが、僕は台所周りに実に多分に気を回している。
ただ、初心者なんである。
初心者とは、何が大事で何が大事でないのか、判断できない者のことを言う。

カフェのキッチンで働いている料理人が初心者に本気でダメを出すのは、いくら何でも無茶ではないか。
しかし、口は悪くとも(手も足も悪い)隣人がくれたナスの種だ。
僕はしっかりと受け取って、せっせと蒔いて水をやった。
涙ぐましい初心者の努力である。
こういう努力の積み重ねで、僕も徐々に初心者を脱却するんである。

ところで、先日冷蔵庫に入れたみりんの注ぎ口の周りや内側にガリガリの結晶が付いて困っているのだけど、これも怒られるだろうか。
怒られるだろう。
怒られるにちがいない。

新しい視点を手にいれるのは、難しい。


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WindowsPCの降臨と地獄の単語登録作業


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縁があって、わが事務所にWindowsPCがやってきた。
すっかりとMacの術中にハマっている僕はすっかりとWindowsの使用感的なものをどこか千葉県の船橋あたりに置き忘れてきていて、特にMacbookがメインマシンであったものだから、手元にマジックトラックパッドがなければPCじゃないんだかんね的様相を呈していたのである。

ところが、Macには大きな欠点がある。
それは、世間のメインマシンがWindowsである、ということである。

僕も実業家である以上、他の方とファイル共有やofficeソフト的なものを使ってやりとりをする機会がとても多い。
ところがそうすると、だいたいの方は仕事用のマシンがWindowsなものだから、誇り高きMacユーザーである僕は自らの誇りを誇示する前に周囲から煙たがられてしまうんである。
埃っぽいったらありゃしない。

それを見かねた僕の取引相手というか秘密裏に仕事をさせて頂いている施主様というかお師匠というか、そういう方がどーんとWindowsPCを会社の資産としてお貸しくださったのである。
そんなカッコいいことをして頂いたなら、Macユーザーの誇りなどまさに塵芥、圧倒的懐の深さと熱意という大気の流動に煽られて、大阪の鶴見区あたりの空に雲散霧消したんである。
PC?
Windowsに決まってんじゃん。
ワールドスタンダードですよ、やっぱりさ。

ところでマシンが新しくなると、ひとつ非常に大変な作業が生まれる。
セッティング?
いや、最近のPCは本当に繋ぐだけで使えるから、そんなものに時間は要らない。
僕が苦しむのは、単語登録の作業である。

僕は普段の仕事の中でよく使う単語をユーザー辞書にどんどん登録していく。
Macbookに登録されている単語は150近い。
たとえば、

「や」とうてば「山本優作」と出るようにしているし、「ひ」と打てば「2015-07-01」などと出るようになっている。
あるいは、こういったネットに記事を上げる時に必要なHTMLと呼ばれるコードなんかも登録しているから、今実際に使っているものだけでも新たに登録し直すのは、実に骨の折れる作業なんである。

その点、MacはひとつのMacアカウントを同期できるから、たとえばiPhoneでユーザー辞書に登録した単語はMacbookにも同期される。
当然別のマシンにも、たとえば以前仕事用に使っていたMacminiにも、反映される。
「あ、これ要るわ」と思った単語はその場でメインマシンに辞書登録できるものだから、それはそれは楽チンなんである。

しかし、そんなことはどうでもいい。
僕のMacユーザーとしての誇りは既に鶴見区を離れ、城東区の上空あたりをさらさらと漂っているのだ。
もはやダイソンの最新式空気清浄機のフィルターに引っかかるのを待つだけのPM2.5的存在なんである。

Windowsのテーマカラーを眼球にガツッとくるショッキングイエローにしたことを若干公開しつつ、黙々と単語登録をする。
それはまさに写経の行に勤しむ修行僧の如き風体である。
足、痺れてきました。

ちなみに、僕が100も150も単語を登録しているというと、「単語登録をして手を抜いて文章を書いて、不謹慎ではないか」と言う人がいる。
しかしそれは大きな間違いだ。

日本語は実に複雑で、その組み合わせ次第では千にも万にも姿を変える。
「愛している」の一言を伝えるために、過去何人の詩人が言葉を紡いできたかわからない。

しかし、たとえば仕事で使われるメールの

お疲れさまです。
山本です。

表題の件について、作業が終了致しました。
お手数ですが、お時間のある時にご確認をお願いします。

という文章がほぼ登録された単語で作られた文章であったところで、誰の感受性が傷付くというのか。
事務的なメールを送るたびに

「君の報告メールには心を揺さぶるものがない。一文字一句魂を込めて作文したまえ。」

などという純文学の鬼的ダメ出しをもらっていては、仕事が前に進まない。
まして

「あの人の事務メールはなんかこう、じーーーんとくるんだよなぁ」

などという訳の分からないニッチなポジションを確立したわけでもない。
言葉というのは物事の本質ではなく、あくまで”指し示すもの”である。
小高い丘の上で竹林の囁くような歌を乗せた風に肌を撫でられながら輪郭の曖昧な満月を見上げる感動を、言葉が表現できるだろうか。
おそらく、それは果てしなく高めてゆける。
しかし、どれほど言葉を尽くしても小高い丘も竹林も風も輪郭の曖昧な満月も、この場には登場しない。

伝えたいことの本質は言葉ではないのだから、言葉の選ばれ方をとやかくいうのは実にナンセンスである。
いかに情報を的確に素早く伝えられるか、という場面では、むしろ画一的な型にはまったテキストが望まれるものである。
それを予め用意しておく愛情、思いやり、仕事への意識の高さを褒められこそすれ、非難される覚えなどさらさらない。

僕は自分の襟元を正し、姿勢を正し、単語登録の作業に戻る。
コードは後でまとめてコピペしてくるから、まずは文章文節の登録だ。
思いつくままに登録すべく、キーボードを叩く。
いちばん最初に登録した単語は、「ほ」から始まる文章だった。

「本当に申し訳ありませんでした。」

霊感商法で300万円を騙し取られたおばちゃんの話しを聞いて。人は「不安」でアホになる。


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不安になるとアホになる。
先日テレビで霊感商法に引っかかって300万円を騙し取られたおばちゃんが、自分に詐欺を働いた会社や寺にカチ込むという番組をやっていた。
あららららぁ、なんて気分で見ていたのだけど、まあでも、テレビ局を連れてカチ込めるだけの元気があるのだから、もう大丈夫だろうと思う。

人が間違った判断をするのは、たいていの場合「不安」になっている時である。
僕自身、今まで不安にかられた時に様々な失敗を重ねてきた。
例えば彼女様が不機嫌な顔をした時などは(基本的に不機嫌だ)、一体どの件何の件で怒られるか分かったものではないから、あらゆる心当たりに備えて身構えていると

「男のくせにオドオドするな」

といって怒られるのである。
それもこれも、僕の中に「不安」が生まれるせいである。

「不安」は人の本能である。
僕たちの祖先は「不安」を持っていたからこそ、あらゆる未知に「備えて」生き延びてきたのだ。

不安になることは悪いことではい。
マズいのは、「不安に支配されること」だ。

不安に支配されると、面白いことが起こる。
自分は不安でいなければいけない、ような気になってくるのだ。

どんな話しをしても「それは○○でマズいんじゃないか」とか、「そんなことしたら××になってしまう」とか、そういって悪いことばかりを言う人がいる。
どうしてそんな話しの腰を折るようなことを言うのかというと、脳のアンテナが常に「不安」に向いているからだ。
どんな出来事からもどんなアイデアからも不安のポイントを見つけ出して、「ほら見ろ!」と過剰に反応するんである。

それはつまり、「不安でいたい」ということだ。
どんな素敵なものを見ても聞いても、最終的には「自分が不安を感じる何か」を探してしまうんである。
「不安を感じなければ不安」という、ナゾのスパイラルの底で転がりまわってしまうんである。

その次にどうなるかというと、人は自分と考えの近い人たちで集まると心地いいという性があるから、自分と同じような人が集まってくることになる。
ズバッというと「不安になりたい人たち」がぎゅぎゅぎゅっとより集まって、あれも不安だこれも不安だと始める。
そのうち、自分の周りの人たちがみんな「不安だ」と言っているものだから、それがその人にとっての世界の当たり前になる。

そうするとどうなるか!

「安心」して生きている人を見ると、「あの人は間違っている!」という感覚を持つようになる。
「僕はこんなに不安で毎日苦しんでるのに、なんだそんな安心し切った顔をして!けしからん!」的な、懐の深さ0ミリ的発想がぬるっと現れるんである。

霊感商法で300万円を騙し取られたおばちゃんは、本当は普通に頭がいいのだ。
だけどその当時は、家族のことやら何やらでずっと不安だったらしい。
頭の中が、不安でいっぱいだったらしい。
そこに、

第1ステップ:大丈夫だよ、神様がついてるから
第2ステップ:あれ、神様が何か言ってるよ。「お祓いしなさい」ってさ。
第3ステップ:お祓い始めたら、あなたにとんでもないものが憑いていることが分かりました!当初の予算では祓いきれません!マジパネェ!


という3段攻撃を加えられた。

一度優しい言葉を掛けた相手を不安にさせてお金を使わせるのは、霊感商法に限らず詐欺の常套手段である。
詐欺どころか、普通の会社でも同じような手法を取っている。

シワを伸ばす美容液を売る会社は、「この美容液を塗ってキレイになった自分」と同じかそれ以上に、「この美容液を使わずにシワシワになっていく自分」をイメージさせる。
売れている広告というのは、「不安」の分量が実に巧妙に調整されているんである。

・・・時に、僕は神様を信じている。
朝夕ご先祖に手を合わせ、毎日神社で手を合わせている。
そうすると、「不安」と「安心」のバランスが取れるからだ。

不安が消えるのではない。
「バランスが取れる」。

どうせ「不安」は、放っておいても視界の後ろ側にある闇の中から際限なく湧いてくるのだ。
だから、別のことで頭をいっぱいにする。
中和して水にする。

言っておくが僕にはご先祖なんか一人も見えない。
神様の声も聞こえない。
そんな面白おかしいスキルは持ち合わせていない。

だけど、手を合わせる。
例えば血縁のご先祖は、たったの4代遡るだけで、総数28名に登る。
僕ひとりが今生きていることに、浅く振り返っただけでも28人分の命が関わっているんである。

昨日の小さな喜びも
あの日の仲間達との馬鹿騒ぎも
大好きな仲間や家族との関係も

その28人の人生がなければ、命がなければ
僕は感じることができなかったんである。
 
 
 
 
 
 
 
 

・・・と、いうことにして

手を合わせて「ありがとうありがとう」とやっていると、本当にスーッと気持ちが楽になっていく。
胸のあたりをぎゅっと締め付けていた不安が緩むんである。

「だから皆さん手を合わせて感謝しましょう!」

と言いたい訳ではない。
僕という人生を送ってきた僕だから、今そういうことをすると心が楽になる、というだけの話しだ。

大切なことは、心を軽くすることだ。
君が、楽なことだ。

風俗に行くと心が安らかになるのならそうすればいいし、美味しいものをたらふく食べると心が安らかになるのならそうすればいい。
旦那がロクデナシなら別れればいいし、別れた自分を褒めればいいし、別れられない自分なら笑えばいい。

どういうことを考えたら、どういう風に考えたら、自分の心が軽くなるだろうか。
止めどなくあふれてくる不安に振り回されないでいられるだろうか。
いろいろ試すんである。

「じぶん学」。

この学問の解き方だけは、誰も教えてくれない。

不安の振り払い方

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僕たちは日々大変な不安を引きずって生きている。
同じことを繰り返す中にも不安を見出し、同じ人と付き合う中にも不安を見出し、新しいことをするためにも不安を見出す。

不安を感じる理由は実にシンプル。
「そういうふうにできているから」である。
太古、なんたらタイガーやら氷河期やらがやってくる度に身を守らねばならなかった遠い祖先の防衛システムが、僕たちの脳にバッチリ残っているのだ。

だから、不安を感じること自体は決して悪いことではない。
人として当たり前、むしろ正常である。

加えて、何に対して不安を感じるかということはまさに千差万別である。
恋人と会うことを考えるだけで胸がトキメクという者もいれば、どういった理由で怒られるか分からないから大量の言い訳を用意して逢瀬に臨む者もいるのだ(疑わしければ、僕を見よ)。

しかし率直に言って、不安は辛い。
不安に支配されている間は体が萎縮してあちこちが痛くなるし、よくない想像を繰り返している間は脳のメモリが食われるから頭も悪くなる。
場合によっては夜も眠れなくなることもあるだろう。

僕は生来の小心者であるから、これまで数々の不安に襲われてきた(今なお襲われ続けている)。
そのため、「安定した生活」や「確実な成功」といった言葉にすこぶる弱い。
手に入れられるものなら、手に入れたい。

しかし、ふとした時に自分の本質が「変化を求めている」ことを強く感じるんである。
それは勤めの中で自分の成績が変わることもそうだし、日々の生活の水準が上がることもそうだ。
周りの人間関係が良好になることもそう。
「より良い変化」があると、僕はそれはもう嬉しくなって、すっかり張り切ってしまうんである。

「安定」とは、「変化しない」ということではないのだと思う。
自転車でもバイクでも、前に進み続けているから倒れず、安定していられるのだから。

「不安」とは、「足を止めた瞬間に襲ってくるもの」だと思う。
それなりの給料の貰える仕事をしている時は、明日の夕飯を心配することはないのだから。

それを考えると結局のところ、「より良い変化を目指し続ける」ということができれば、僕たちは(少なくとも僕は)不安に襲われることがないのだ、ということになる。
これは実際正しくて、何かひとつものごとを初めてみた時に、それを実行に移すまでは不安で不安で仕方がない。
しかし、実際に行動に移してみると、どうしてこんなことで悩んでいたのかと笑ってしまうくらい、不安は消えてなくなるんである。

確証はない。
保証もない。
そんなもの、初めからどこにもない。

それなら、ひとところで立ち止まって不安に震えているより、バランスを取りながら前に進み続けている方がずっと楽だ。
「不安」とは、「停滞のサイン」なんである。

この話しを彼女様にしてみたところ、意外にも「実はうちにも不安がある」という答えが返ってきた。
人を不安にさせることについては人後に落ちない女であるから、まさか当人が不安を感じているとは思ってみなかった。
ちょうど、スタンガンが感電を恐れているようなものだ。

しかし、その矛盾こそ人間である証なのだろう(彼女様が人類であると仮定して)。
僕は大らかな心と疑いの目を向けて、優しくこう言った。

僕「どんな不安なんだい。言ってみるだけでも、楽になるかもよ」

彼女様「お前と一緒にいること」

新たな不安が芽生えた。

肯定的な指示が出せない理由。

6

子供の頃、よく母親から「落ち着きなさい」と叱られた。
あまりによく「落ち着きなさい」と叱られるので、日々叱られるのではないかと不安がつのり、ますます落ち着がなくなったものだ。

このように、「〜してはいけない」という指示は高い確率で望まない結果に繋がる。
この事実は指摘されて久しいが、実践出来ている者は少ない。
その理由は、以下のものが挙げられる。

①「〜してはいけない」という指示を出すのが楽

人に「〜してはいけない」という指示を出すとき、出す側は高い確率で怒りや不快感を覚えている。
それを押して肯定的な指示を出す精神性の高さを兼ね備えた人物は、少なくとも僕の恵まれない交友関係の中には存在しない(疑わしければ、僕を見よ。類は友を呼ぶのだ)。

加えて、発音の問題もある。
「いいよ」よりも「ダメ」の方が言葉として言いやすいし、「Yes」よりも「NO」の方が咄嗟の時に口を付いて出るだろう。
関係ないが、「ゆうさく」よりも「おまえ」の方が言いやすく、「ここを直してほしい」よりも「地獄の底までぶっ飛べ」の方が言いやすいとという証言も、一部の人物から上がっている。

言葉を制するというのは、己の感情を制することと同義である。
感情を制することができないうちは、言葉を制することは叶わないだろう。
感情を制する気がない者も、言葉を制することはないだろう。

②代案を考え出せない

「〜してはいけない」という指示を出さないというのはつまり、「〜してほしい」という代案を出すということだ。
代わりにどのような言葉を使えばいいのかというのは、感情を制する能力に加えて、目の前の物事を別の視点で見つめる能力が必要となる。

事実を湾曲して捉える人物は多数存在するが、建築的な別視点で言葉を生み出せる者は少ない。
そんな人物にこの問題を相談したらきっと、代案を考え出さなくて済むような代案を出そうと言われるだろう。

③行動を矯正する気がない

理由は分からないが、否定形の指示が相手の行動を変える力を持たないことを知った上で、わざと「〜してはいけない」といった指示を行うパターンだ。
そうすることでどのような利益があるのか分からないが、もしかしたら注意をする振りをして相手の人生を棒に振ってやろうと考えているのかもしれない。

そう考えると僕に向かって日常的に「食べすぎるな」「無駄遣いをするな」「怠惰な生活をするな」と指示している彼女様は、僕の人生を破滅に向かわせる諸悪の根源であると考えられる。
それはジョーズで言うところのジョーズ、エイリアンで言うところのエイリアン、ドラゴンボールで言うところのフリーザ様である。
たぶん一度二度打破した程度ではパワーアップして再登場してくるるから油断ならない。

肯定的な指示を出すことの困難が理解していただけたかと思う。
思えば僕たち自身が様々な場面で「〜してはいけない」といった指示をされてきたから、肯定的な指示がどのようなものであるかを知らないのかもしれない。
あるいは、自分がこれほど否定的な指示をされてきたから、後輩にも一発カマしてやらねば気がすまないといった前時代の体育会系的発想もあるだろう。

しかし僕たちは過去に住まう大人達でもなければ、前時代的体育会系マッチョイズムに燃える先輩でもない。
今を生き、未来に向かう理性的な現代人である。
今この瞬間に僕たちが変わること、過去や前時代を許し、決別のために優しい歌を歌うことが、理性的な現代人に課せられた使命である。

だからこそ、忘れないで頂きたい。
「〜してはいけない」という指示は絶対にしてはいけない。

連想型発想の難解


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人の発想には2種類ある。
垂直型の発想と、連想型の発想だ。

このうち直立型の発想は比較的自分の意思で生み出しやすいのだが、連想型の発想の場合は「ひらめき」的な要素が大きくなる。
女性の会話が論理的に破綻しているように感じられても問題なく続いているのは、この連想型の発想を繰り返していて、またその場にいる者同士がお互いの突飛な発想を認めているからだ。

特に女性は言語ではなくイメージで連想を組み立てる傾向が強いという。
つまり、男もある程度イメージで連想を組み立てることができるようになれば、女性の不可解な言動にもある程度ついていけるのではないか、と仮定できる。

しかし先日、この仮定が誤りであることが明らかになった。
彼女様が作ったカレーを食べていたら先日行ったカレー屋のことを思い出し、「梅田に上手いカレー屋があってさ」という話しをしたところ、劇的に不機嫌になったのだ。

僕は驚愕した。
ふと浮かんだイメージで言葉を紡いだのだから、これはある種女性的な発想ではないのか。
どうして不機嫌になったのかを尋ねたところ、自分の作ったカレーを食べている時は、自分の作ったカレーを褒めるべきであると言われた。
それ以外のカレーの話しをするのは、言語道断、打ち首獄門、マハリクマハリタヤンバラヤンヤンヤンなのだそうだ。

失敗から学んだ僕は数日後、彼女様が作ってくれた野菜炒めを食べながら、それを褒めた。
人を褒めるというのは高度な技術が必要だ。
「おいしいよ、水揚げしたばかりの昆布より」などと言っても喜んでもらえるかどうかは微妙である。

僕が一生懸命に褒める言葉を探していると、不意に彼女様が昨年言った京都のかき氷屋の話しをし始めた。
今年ももう一度行きたいのだと、焼肉のタレで炒められたキャベツをバリバリと齧りながら訴えてくる。

僕は「そうだね」と返すのだけど、そのかき氷屋のことをどうしても思い出せない。
一体この野菜炒めのどこに、京都のかき氷屋に繋がるエッセンスがあるというのか。

その場しのぎの生返事をしていると、確実にそれを見破るのが女性の恐ろしいところだ。
呆気なく記憶の欠落を見破られた僕は、「ありえへん」と言われつつ皿の中にあった肉の切れ端を奪われた。

「時と場合」などという言葉では全く理解のできないことが、この世には溢れかえっている。
そもそも「時と場合」という言葉から連想されるアイデアが男女間で異なるだろうから、問題は深刻だ。

取り急ぎ次回彼女様に料理を作ってもらった時には、京都のかき氷屋の話しをすることにする。
どんな店でどんなものを食べたのか全く覚えていないが、彼女様から詳細を聞くうちに思い出せるだろう。
かき氷屋の話しの途中で、先日借りた1000円の話しになったりしなければ。

声に生きる男の話し〜申し訳なさそうな声の出し方〜

よく「自分の声をレコーダーに録音して聞き直すと自分の声に聞こえず、気持ち悪い」という話しを聞く。
そういった話題が上がる度に「その意見さえも今まさに気持ちの悪い声で訴えているのだね」と相手の精神を谷底に突き落とすよう努力している。

録音した自分の声を「気持ち悪い」と感じる理由は2つある。

①本当に気持ち悪い
②普段自分の声を意識していない

である。
このうち、①はもう救いがない。
「気持ち悪い」の基準は個々別々のものであるから、斬新な感性を持った人(他の生物種、異星人も含める)との出会いに期待するしかない。

改善の余地があるのは、圧倒的に②である。
多くの場合、人は自分の発声に対して主に「身体的な感覚」を「声」であると錯覚している。
ちょうど、「努力しているのだから報われるべきだ」と考えている人が報われないのと似ている。

例えば、二次関数のテストで100点を取るために後鳥羽上皇の出生の秘密を研究するのは、明らかに努力の方向を間違っているだろう。
しかし当人は実に何回な課題に取り組み、大変な努力を捧げたのだから、自分は報われて然るべきである、と考える。
結果的にその人は二次関数のテストではロクな点がとれず、「努力は報われない」という法則への確信を深める。

「声」もそれと同じなのだ。
ふつう人は「発声」することで自分自身が感じる「感覚全体」を「声」として捉えているものだから、いざレコーダーに録音した「声”だけ”」を聞くと、ふだん自分が感じているものとあまりに違うから、違和感を感じるんである。

だから何度もレコーダーに録音した自分の声を聞き返していると、ふだんの自分の体感の中から純粋な「声」の部分がしっかりと浮き出て聞こえるようになってくる。
実際に僕は日常的に自分の声を録音して聞き直しているが、スピーカーやマイクといった外的要因を除けば、ほぼ自分の喋りながら歌いながら感じている自分の「声」と、同じ音に聞こえる。

どうして突然こんな話しをするのかというと、「声」というのは人が思っている以上に大きな力を持っているからだ。
人に謝罪する時、どれほど心が伴っていても「申し訳なさそうな声」でなければ、相手は納得しない。

特に男はふだんから無意識に不徳を積んでいるものだから、いざ女に叱られる場面になるとまず前提として許されないのだ。
そんな中でも極力早い段階で場をやり過ごすためには、「申し訳なさそうな声」が出せるかどうかが勝負なんである。

軽薄なる諸兄には、ぜひこの「申し訳なさそうな声」をマスターして頂きたい。
「申し訳なさそうな顔」や「申し訳なさそうな仕草」をマスターできるとなお良い。
僕のように生まれながらにそういった所作を身に付けている者はまだいいが、そうでない人はぜひレコーダーで自分の声を録音して、研究すべきである。

ところで、「申し訳なさそうな声」をマスターしても、男の苦労が終わる訳ではない。
「申し訳なさそうな声」は主に詰問などを受ける時に使うのだが、女は高い確率で「優しそうな声」をマスターしている。
ちょっと「優しそうな声」を出されたからといって「あ、許されるかも」と勘違いし、本来墓まで持っているべきである秘密事項を漏らしてしまうのだ。

常に女は男のひとつ上をゆくものだ。
「申し訳なさそうな声」をマスターし、「女には叶わない法則」を知るのだ。
そうすれば僕のように、顔を合わせる度になんらかの理由で叱られたり怒鳴られたり暴力を振るわれたりするだけで済むようになる(今の所命までは取られていない)。

今すぐ手元のスマホなどのレコーダー機能を立ち上げて一言「申し訳ございませんでした」と録音してみよう。
豆腐をしゃもじで叩くような声が聞こえるかもしれないが、安心していい。
生まれてこの方、その声で生きてきているのだ。
もうとっくに手遅れだから、開き直ってトレーニングに励もう。

089

虎穴に入らずんば虎子を得ないけど虎はめっちゃ怖くて危ない。


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大阪の森ノ宮というところにキューズモールというショッピングモールが出来たと聞いた。
このショッピングモールの売りは何と言っても屋上に設置されたエアトラックという人口芝のランニングコースである。
全長300メートルのこのランニングコースは、ショッピングモールというビジネスモデルに新たな一石を投じる一つの流暢の表れであるとかないとか、なんかそんな話しなんである。

時代の流暢の某かはとりあえずおいておく。
ここのところすっかりと引きこもりだった僕は野外の空気を吸う理由が欲しくて、無謀にも彼女様に声を掛けてこの森ノ宮キューズモールへと繰り出した。

森ノ宮キューズモールは規模こそそれほど大きなものではなかったが、各所に前進的な試みが取られている。
ドッグランを併設し、愛犬と歩き回れる施設。
お客が持ち寄った本を読みながらコーヒーが飲めたり、備え付けのMacでブラウジングができるカフェ。
表情豊かな輸入食品のお店、などである。
犬好きカフェ好き輸入食品好きの彼女様はそれはもう凄まじい勢いで食いついてきて、いかに犬とカフェと輸入雑貨が素晴らしいかを聞いてもいないのに延々と語っていた(「どうしてお前は車を持っていないのか」「どうして今までそのような施設の存在を教えなかったのか」「どうしてお前は綾野剛ではないのか」といった意見を含む)。

モールに到着すると、すぐに室内ロッククライミングの施設が目に入った。
ナウでヤングな呼び方があったような気がするが、まあいいじゃないか。

岩っぽい質感の壁がどどーーーんと3フロアくらいぶち抜きでおっ立っていて、そこに色々な色の手がかりがある。
おそらくコースによって難易度があって、初心者は白色のコース、上級者は紫色のコースといった具合にわかれているのだろう。
よく見てみると、やはり壁が突き出しているような部分は、手がかりの色も偏っているように見えた。

「ちょっとやってみたい」

そういって大きな壁を見上げる小さな女は、「今日は無理やけどな」と肩の出た服をさすってそういった(肩で人を攻撃した時に服が破れないようにするためだろう)。
「あそこ難しそうやなあ」と目を細める彼女様のご尊顔は見つめる先の、挑戦者を重力の底に叩き落とすべく突き出した険しい壁肌によく似ていた。

適当なカフェで食事を済ませ、「うちの料理の方がおいしい」という彼女様の洗脳を受けてから、店を一通り巡ってブックカフェに入った。
壁じゅうが本棚になっていて、コーヒーを楽しみながら本が読めるというコンセプトのカフェだ。
店の名前は忘れたが、絵本からビジネス書までたくさんの本が集まっていて、活字とカフェインに目がない僕にとっては、んもう卒倒しちゃいそうなくらいうれしい場所である。

席を陣取ってからホットドッグとコーヒーを2杯頼んで席に戻ると彼女様が般若のような顔をして(いつもの顔だ)、自分のコーヒーはいらなかったのだと主張した。
僕が頼んだコーヒーを横から略奪して、経費を浮かせる作戦であったらしい。
確かにお店からは1人1品頼んでおくんなしよ、といった要望がある訳ではない。
なるほど、実に理にかなった作戦である。
唯一問題があるとすれば、それが注文を取りに行く実働隊たる僕に伝わっていなかったことだ。

「え、コーヒーいらんし。」

という彼女様の声が聞こえた時、既に僕が注文した2杯のコーヒーと1匹・・・じゃない、1本のホットドッグは、トレイの向こうでステンバイされていたんである。

そこからはまるで飢えたトラと一緒にいるような気持ちだった。
彼女様は怒りがある一定の水準に達すると黙り込むという性質を持っている。
そうなったら何をしても無駄である。

隣の席で騒がしく子供をあやすばあさんに怒り、それを止めない店員に怒り、恐怖に震えながらも自分の時間を楽しむ僕に対して怒っている。
その怒りをじゅくじゅくと溜め込み、鬱屈したエネルギーに変えているのだ。
ちょうど地球に飲み込まれる大陸プレートに引っ張られた活断層がエネルギーを溜めているのに似ている。
解き放たれるそのエネルギーは破滅的な勢いをもって未曾有の大災害をもたらす。
自然災害と違うのは、その破壊のエネルギーがたったひとりの紳士に向けられるという点である。

特にこれといった打開策が見いだせないまま2時間ほどが経った。
うるさかったばあさんが店を出て、彼女様も少し落ち着いたようであった。
遠くの方で今度はじいさんが2人で何やら話しているが、男2人の騒がしさなど、ばあさんのやかましさに比べるとハトが鳴いているようなものだ。

多少落ち着いてきた彼女様ともう1周スーパーを回って、その日の夕食の食材を買って帰ることにした。
輸入雑貨の店で見立てた商品を、この日5%オフのセールをしていたスーパーで買う。
これを嬉々として行う彼女様の背中に、世の女性方のリアルを垣間見た気がした。

その日は事務所に帰ってから、やたらと美味いソーセージを2人で貪るように食べた。
モモンガのきゃす子さんにはブルーベリーが振舞われた(彼女様は僕以外の生き物には優しい)。
そのような穏やかな時間が、唐突に破られた。

「お前は人が怒っててもよく楽しそうに本が読めるな」

現場は緊張に包まれた。
主語がないが、返答を誤ると命に関わる。
「怒って」「楽しそう」「本」というキーワードから、今日のブックカフェでの出来事に関する話であると推測された。
僕は天に祈るような気持ちでこう答えた。

「へ・・・平気じゃないけどね、2人で不機嫌になったって、きっと楽しくないじゃん・・・ないじゃないですか。」

一般的な答えだ。
つまらないが、無難であり、ベストである。
敵の出方を慎重に伺う。

「まぁそうなんやけどな。実際ああなったら何されても噛みつくし。」

よかった。
引き出された答えは決して喜ばしいものではないが、とにかくこの場はうまく切り抜けられそうだ。

「でもやっぱりムカつく。」

そうだろう。
そこは読めていた。
ここで僕に必要なのは、歩み寄りの姿勢だ。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
懐に入れば、トラの爪も届くまい。

「じゃあ、ああいう時ってどうしてほしいの?」

チェックメイトだ。
後は彼女様の要望を聞き入れて、次回からの施作として展開するだけである。
勝利を確信した僕は、祝いのビールを片手に返答を待った。

「噛み付かれてでもいいから優しくするべきや」

爪を避けて懐に飛び込んだら牙があった。
優しい明日がほしい、それだけなのに、僕の視界にはいつだって鋭いものが写り込んでいて、この喉笛を狙っているのだ。

苦いビールを噛み締めていると、ブルーベリーを食べ終わったきゃす子さんが「もっと美味いものをよこせ」と暴れ始めた。
「きゃぁ〜す子ぉ〜」と猫なで声で人参を差し出した彼女様が、指を噛まれて「このやろう!」と怒り始めた。
割といい歳になる女とモモンガの喧嘩を見ながら僕は、平和とは犠牲の上に咲く花なんであると悟った。
この土壌には、まだまだ土が必要らしい。

知的労働者の憂鬱


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かねてより中々信じてもらえていないのだが、僕はミュージシャンである。
さらにさらに信じてもらえていないが、僕は知的労働者でもある。

知的労働の何たるかを理解できる者は少ない。
僕自身もよく分かっていないくらいだ。

しかし少なくとも自分自身の経験から、知的労働が肉体的労働に比べて精神的負荷の大きいものであることは分かっている。
工事現場で室内清掃の仕事をしていた時は適当にサボっていれば同じ仕事をしている仲間が進めてくれていたのだが、最近では自分が仕事を進めなければ仕事が進まないという危機的状況が常であるからだ。
具体的には、自分が曲を書かなければ曲が増えず、自分が練習をしなければ腕が上がらず、自分が記事を書かなければブログが更新されない。
自分の置かれた厳しい状況に目眩がする。

知的労働者は孤独である。
孤独故に抱える苦悩を理解してもらえることが無い。
先日も彼女様に「ブログを書かないでいたらページが更新されなくなった」と愚痴をこぼしたら、何も言わずに横っ面をはたかれたところだ。

もはや僕の苦悩を癒やしてくれる存在はモモンガのきゃす子さんだけである。
増築工事を経て広くなったゲージの中でモリモリとブルーベリーを食らうきゃす子さんに相対し、胸の内を明かした。
きゃす子さんは暫く黙って聞いていてくれたが、そのうちブルーベリーを食べ終わるとゲージの中をバンバンと飛び回り、「もっとブルーベリーをよこせ」と目で訴えた後つい最近新設したばかりの止まり木の上で放尿してココナッツハウスの中に帰っていった。

モモンガにさえ見放された僕はすっかり意気消沈して、ひとつの重大なる決意をした。

「ブログを書こう」

そもそも、これが出来れば問題は起こらないのだ。
現代インターネット史に残る大ヒット記事を書けば、それで事は全て丸く収まるんである。

僕はMacBookの電源を立ち上げ、ブラウザを開いた。
そしてYouTubeを開き、仮面ライダードライブの動画を見てから水曜どうでしょうの動画をチェックした。

気が付くともう寝なければならない時間だった。
ここのところ朝起きられない日々が続いているので、夜更かしをする訳にはいかない。
大泉氏のボヤキに後ろ髪を引かれながらブラウザを閉じて布団に潜り込むと、今日のブログが更新されていないことが気付かれた。
知的労働者の苦悩は、実に根深い。

鉄の精神のささみカツ定食

僕は自制心にあふれた男だ。
自らの中から溢れてくる欲求を退け、全体を俯瞰した大きな視点で生きている。

先日も出先で入った定食屋で、痩せたいという欲求を退けてささみカツ定食を平らげた。
衣とソースと白米の織りなすハーモニーが実に心地よい。
カウンターの奥のおばちゃんも満足げである。
俯瞰した視点で生きるというのは、あらゆる物事を正しく導いてくれるのだ(腹が出てくるという事象を除く)。

やりたいことをする、というのは、勇気が要るものだ。
例えば僕たちのような歌うたいは、常に「誰かに笑われる」というリスクを背負っている。

打って出るというのはそういうことだ。
多くの人の前に打って出て何かをしようとすると、あるいは、多くの人の前に打って出なくても、「そうすることで人から笑われる/バカにされるのではないか」といった悪しき想像が、僕たちの心と体を締め上げるものだ。

ささみカツ定食を食べきると、腹が出る。
オフィスワーカーにとって定食屋のメニューは明らかに栄養過多だ。

しかし、食べたいから食べる。
「腹が出る」というリスクは「食べて幸せ」とセットであるから、受け入れる。

かっちょ悪いのは、「腹が出るから嫌だなぁ」と言いながらささみカツ定食を食べきることだ。
そんなことを言っていたら締められて揚げられたトリだって、素直に栄養になってやろうなどと思ってはくれまい。
どうせ食べるのなら、ドキドキしていてもいいから、「食べて幸せ」にもっとフォーカスすべきだ。

痩せたい欲求に打ち勝ち続けた結果、僕は鉄の意志を手に入れた。
よほどのことがない限り、もはや僕は痩せたい欲求に負けることはないだろう。
米のツヤ、カツの歯ごたえ、味噌汁の味わいに見事にフォーカスし、まさしく幸せを噛み締めて生きている。

ところが先日彼女様が僕の腹を見てこう言った。

「食べたい欲求に負けすぎとちゃうか。」

発送の転換とはまさにこのことだ。
目から鱗がボロボロと落ちていく。

そう言われてしまってはしかたあるまい。
今度から僕は食べたい欲求に打ち勝つ鉄の精神を持てば良い。

しかしなぜだろう、全く勝てる気がしないのは。