悲しい人、不幸な人は、いつだって悲しくなることや不幸になるようなことを考えている。
悲しいことも不幸なこともしんどいのに、しんどいことが嫌だと言いながら、率先してそういうことを考える。
どうしてそういうことになるかというと、人がそういう風にできているからだ。
我らが祖先が大自然と体ひとつで向き合っていた頃、人の力を超えた強大な危機(肉食獣との遭遇、寒波の到来、嫁のヒステリーなど)に立ち向かう術として、率先して不安を発見する能力が必要だった。
その名残が現代を生きる人間の脳にも残っている。
それもなんとか新皮質とかいう、いかにも新しい感じの部分ではなくて、なんかもっと根深いところに組み込まれちゃってるもんだから、僕らの心からは不安がなくらんのである。
不安がそこに形を持って存在するのではなくて、「恐怖を感じる」から不安が発生する。
車が走るから、「走っている車」が発生するのと同じだ。
彼女様が暴れ始めると、「暴れる彼女様」が発生するのと同じである。ぐすん。
「不安」とは、状態を指す言葉なのだ。
「恐怖を感じて嫌なことを想像している状態」を、「不安」と呼ぶんである。
で、世の中には恐怖に弱い人間というのがいる。
トキの雛の10倍デリケートであると言われた僕にしてもそうで、何かひとつ自分の恐怖の琴線に触れるものがあると、そこから実に様々な色々を想像して泣きたくなる。
新しい仕事に挑む時も、今の倍以上の家賃が必要な賃貸物件の契約をする時も、彼女様から電話が掛かってきた時も、それはそれは無数の恐怖がわらわらと湧いてきて、恐ろしくなったり悲しくなったりする。
そういった恐怖や不安の中で30年近く生きてきて、最近気付いた。
こういうものなのだ。
人生には恐怖が付き物だ。
しかし、それと全く同じように、喜びも付き物だ。
定食屋で生姜焼き定食を頼むとお勘定がついてくる。
しかし生姜焼きは美味しい。
そういうものなんである。
どう生きても僕は恐怖を感じるし、不安にもなるし、悲しくもなる。
ただ恐怖と不安と悲しみを感じる人生には、それ以上の喜びや感動がある。
せっかく街に散歩に出かけた人が、犬のフンや立ちションの後を見て嫌な顔をして帰ってくる。
よくある光景だけど、そこにはきれいなお姉さんも、美味しそうなパンの香りも、街角のミュージシャンの音楽も、きっとあったはずなのだ。
素敵なものはあって当然、自分が嫌なことばかりに目を向けているのだから、嫌な気分になるのは当たり前でしょう。
で、僕が言いたいのは終始一貫「気分良く生きよう」ということなんである。
嫌なことは、目に入る。
これは脳の仕組みだから、仕方ない。
ならばそれと同じかそれ以上に、素敵なものを見つけようとすればいい。
何もしないでいると嫌なこと、不安なことを見つけるのだから、何かしていればいいんである。
「楽しいことを見つける努力」をすればいいんである。
「楽しいことを見るける努力」は、やり始めると人生が最高に楽しくなる。
今までの「努力」という言葉のイメージがひっくり返る。
何せ、努めて自分の気分がよくなることや楽しくなることに身を投じていくのだ。
美味しい料理が好きな人は美味しい料理を食べ、素敵な音楽が好きな人は素敵な音楽を聴き、セックスが好きな人はナンパでも出会い系でも風俗でもどんどん楽しむ。
それが僕にとっては実家に帰ってのんびりすることであったり、部屋の掃除をすることだったりするのだ。
そういった事柄を見つけるのも簡単で、例えば「でもなぁ・・・」「どうせ・・・」が頭に付くモノコト。
これが往往にして、自分の本当にやりたいことであるケースが多い。
「実家なんか帰っても何する訳でもないもんなぁ・・・」と思っていたけど、帰ってみたら穏やかな空気と自然の囁きがめちゃめちゃ気持ち良かった。
「掃除なんかしてもどうせすぐ汚れるしなぁ・・・」と思っていたけど、やってみたら掃除の最中に自分の気持ちが心が整ってきて、部屋がきれいになるころには気持ちもかなりスッキリしていた。
「でもなぁ・・・」「どうせ・・・」に、挑戦してみてはどうだろう。
良いことも悪いこともちゃーんとおこるから、その中の「良いこと」「素敵なこと」「気分がよくなること」に全力でフォーカスを合わせてみてはどうだろう。
僕はこれから新しい部屋の鍵を受け取って、バルサンを炊いて天井と壁と床を掃除する。
しこたま掃除の指示を出してきた彼女様とは、まだ連絡が取れていない。
僕の心、整いまくっちゃって、仏のレベルに達しちゃうかもしれない。
ほら、素敵なこと、あるでしょう?(白目)