駆け出したバスと駆けて帰った男

僕は普段は自宅から最寄り駅まで片道15分ほどの道を歩いているのだけど、ごくまれにタイミングが偶然重なった時にだけ、気まぐれにバスに乗ることがある。

バス車内の人間関係は、電車のそれとはやや趣きが異なる。
バス一台あたりが受け持つエリアが電車よりも狭いからか、同乗者との距離感が近いのだ。
あの少年もそのじいさんも、同じ鳥の声を聞き、同じ春風に季節の移ろいを感じる隣人なのだと思うと、とても安らぐものがある。
対して電車は、どちらかというと戦場に兵士を運ぶ輸送機の様相である。
圧倒的な体積と質量を誇る巨漢(たいてい持っているカバンもパンパンだ)や、周囲数メートルにけたたましい香水の臭い撒き散らす中年女と同席になるにつけ、異能特殊部隊専用の輸送装置開発を望んでやまない。
まあそれはそれとして、そういうわけで、どうにもバスの同乗者には妙な安心感と仲間意識を持ってしまうのだ。

今朝乗ったバスでもそうだった。
朝の仕事が終わったタイミングで家を出たら、ちょうどバス停に人が並んでいたので、やあやあというノリでもって列に加わった。

僕のすぐ前でバスを待つお姉さんは、ショップの店員だろうか。
肩にすさまじいフリルの付いたシャツを着、その上に黒いツナギ風の洋服を合わせており、サイヤ人の戦闘服を彷彿とさせる攻めのコーディネートで今日という日に踏み出している。

そんなことを考えているうちにバスが到着した。
行き先を告げるアナウンスを聞きながらバサバサと揺れるショップ店員の肩フリルを見守っていると、あっという間に車内である。
坊主頭のベテラン風ドライバーに挨拶をしつつ、かれこれ7年ほどの付き合いになるSuicaで乗車賃210円を支払う。

ところで、小田急バスはドライバーの服装に随分と寛容である。
人によって上着を羽織っていたりいなかったり、ネクタイを締めていたりいなかったり、帽子をかぶっていたりいなかったりする。
一般的に規律を守る者ほど自制的で真面目な印象を持つが、少し前に世話になった上着・ネクタイ・帽子完全装備のドライバーが車外スピーカーから最大出力の罵詈雑言ビームを放ってバス停付近に路駐していた工事現場のオヤジのトラックを蹴散らしているのを見たことがあるから、身なりがきちんとしているからといって油断ならない。

全く目的を果たしていないとおぼしきスポーツ団体のイジメ防止啓発広告を眺めていると、2つほど先のバス停でやたら急いでいる様子の男が乗り込んできた。
さすがにドライバーに「急げ」とまでは言っていないが、その様子は明らかに予定に遅刻しつつある者のそれである。
をれを察してか、バスはひときわ大きくエンジンを吹かし、駅を目指して走り出した。

ドライバー「おう兄ちゃん、いっつも乗ってくれてるよな。
いいぜ、困った時はお互い様だ。
法令境界線ギリギリの走り、見せてやろうじゃねえか。
ちょっと揺れるが、しっかり捕まってるんだぜ!いくぜ、みんな!」

そんなドライバーの心の声が、粋が、逞しくも優しく車内を満たしていくのが分かる。
ショップ店員の肩フリルも、心なしか高ぶっているように見える。
肩フリルだけではない。
ゲームをしている学生も、鳴り止まないLINEの通知に耳を傾けているOLも、誰もが心をひとつに重ねている。
今このバスは、アスファルトを蹴って奔る一匹のけものである。

昂揚していると、不意にお兄さんの顔に絶望の色が落ちたことに気付いた。
冷静に観察してみれば、先ほどからずっとバッグやポケットを漁り、何かを探している。
3周目の捜索が終わり、目を閉じて天を仰いだその男は果たして、すぐ脇の停車ボタンを押し、次の停車場で力なく降りていった。
すさまじい勢いで来た道を引き返していく彼の背中を、乗客の誰もが見送った。
ドライバーも見送った。
肩フリルも寂しそうだった。