ノートを提出をする理由

夏になる少し前、妻とチワワ達の散歩をしている時に、学生時代の夏休みについて話しをした。
その時妻が
 
 
「夏休み前には友達のノートを写させてもらうのが大変やった」
 
 
と言っていて、不思議な気持ちになった。
僕はノート提出をしたことがないのだ。
それは僕が反骨精神に満ちた学生だったということではなくて、通った学び舎は小中高と、ノート提出の文化がない学校だった、というだけのことである。
 
 
僕「なんでノート出すの?」
 
妻「さあ。先生がチェックしてたから、ちゃんと授業聞いてたか的なことを見てたんとちゃうか」
 
僕「聞いてたか的なことの結果なら、テストの点で出てるよね。授業よりも先のことしてたりする人もいるし、本当に話しだけ聞くだけで点数取れる人もいるし、なんでノート出すんだろ?それこそ、友達のノート写すようなヤツが出てきて、本末転倒じゃない?意味なくない?」
 
妻「知らん。滅びろ」

 
 
会話2ターン目にして滅びの道を示された僕だった。
それは、生徒の教養を高めることよりも、決められたルールを守れるようになるトレーニングとしての、つまり前時代的教育体制の残骸なんだろうか。
それとも他廃的な宗教団体のように、「我が校の教育方針は世界一ィィィイイイイ‼︎よってェェエエエ‼︎その他の思考プロセスなど、ん必要なぁぁぁあああし‼︎」的なことなんだろうか。
なんだか否定的なことしか思い浮かばなかったので、もうやーめた、という意味も込めて、妻にこう言った。
 
 
僕「ちなみに奥さん、点数はとれてた?」
 
妻「なんでまだ人の形してるの滅びて早く」

 
 
どなたか『恐妻に許しを請う方法』か『痛くない滅び方』の授業のノート、貸していただけませんか。

家2軒は当たり前

理想の家というのがあって、よく妻と話しをするのだけど、僕が理想とする家には妻が「それ嫌」という要素が沢山含まれるのです。
(僕が「緑が多い」のが良いと言うと、妻は「虫が沸く」と言って嫌がる、など)
 
 
なので実は妻と理想の家の話しをする度にちょっと悲しい気持ちになっていて、僕は理想の家には住めないのかも、なんて思っていた。
・・・んだけど、何てことはなくて、将来家を2つ持てばいいんだと気付いて、とてもうれしくなったのです。
うちの親戚、家をいくつか持ってる人が実は多いんだよね。
みんなすっごいお金持ち、ということではない(ように見える)し、それでも全然やっていけてるし、誰ですか知らないうちに持ち家は人生に1軒だけって僕に刷り込んだ人は。
実家だって、ひとつの敷地の中に昔からある母屋と親父が建てた家の2軒があるし、それが僕の普通だったじゃないの。
 
 
という訳で、僕は僕の普通の感覚に立ち返り、我ら夫婦は将来別々の、それぞれの理想の家に暮らすことにしました。
庭と風呂を隣接させて、さわやかな夜には裸で月をこうグッと見上げてねえ、ふふふ。

奴らは空からやってくる

空の交通ルールが作られはじめているらしい。

少し前から噂になっているドローンによる宅配サービスの実現のため、関係企業や団体がドローン同士の衝突や墜落を避けるためのルール作りを始めているそうだ。

昨今叫ばれる流通業者の負担軽減や道路上の交通事故減少、混雑による宅配の遅延減少などが期待されている。

自分が生きている世界が、かつての未来なのだと、しみじみ思い知る。
 
 
 
話しは変わるが、僕は東京があまり得意ではない。

数時間でも滞在すると、なぜだか気持ちが落ちてしまう。

妻と2頭のチワワのためにそんな甘いことも言っていられないから気合いを入れて頑張るのだけど、東京を歩き回っていると気持ちから余裕というか、隙間というか、そういうものが失われて疲れ果ててしまうのだ。

そしてその度に青く優しく広がる生まれ故郷の空を思い出しては、いつかあの空の下に帰りたいなどと、一昔前の演歌のようなことを思うのである。

風が吹き、木々がさざめいて、水が流れて山の獣が吠える、あんないいところは他にない。
 
 
 
国は2020年にドローンによる宅配の実現を目指している。

仮に年間約35億個の荷物を配送する場合、市街地1平方キロの上空を1時間に100台が飛び交うことになるのだとか。

当然、首都圏の空はドローンでいっぱいになるのだろう。

僕はそれが、ちょっと嫌だ。
 
 
 

(朝日新聞 2017/6/23 7面)

ビタミン”いっちょやったろか”の効能と弊害

ここしばらく働きづめだったので、今日は1日自分に休暇を与えてみた。

もう何もするもんかと心を決め、朝は10時まで布団の中でもう何周目か分からない巷説百物語を読み、起きてからは原因不明の胃痛に身もだう妻を横目に中華料理を食べに行ってきた。

帰ってきてからも何もやるもんか宣言は健在であるから、僕はふたたび布団に潜り込み、チワワを撫でつつスマホゲームを楽しんだ。
 
 
 
そうして過ごした結論なのだけど、何もしない日は至極つまらなかった。

どうにもこうにもパワーが沸いてこないんである。

あまりにつまらないので、結局夜7時を回ったくらいから部屋の掃除や洗い物をしたり、チワワ達の散歩に繰り出したり、色々やってしまった。

夜の川崎に吹く湿った風を浴びながら、僕はこれを、「ビタミン”いっちょやったろか”」不足と名付けた。
 
 
 
「ビタミン”いっちょやったろか”」は、主に働く男の闘争心を原材料として生成される栄養素である。

その日のやるべきコトや自分の役割が明確になるとよく分泌される。

ここまでやったら終わり、という区切りや、業務終了までの作業手順などが明確になると、分泌量が増える。

締め切りの日にちなどが近付いたり、同僚が病気で倒れたりしても出てくるが、その場合は原材料の一部に寿命を使用するので、可能な限り避けた方がいい。
 
 
 
というのが「ビタミン”いっちょやったろか”」の概要である。

普段働いている男は、高い確率でこの「ビタミン”いっちょやったろか”」を自身の活動エネルギーの大半に充てている。

それはつまり、「ビタミン”いっちょやったろか”」不足は、そのまま活動エネルギー不足に直結するということだ。

定年まで働いて退職したお父さんがそのまましょぼくれてしまったり、突然ボケが始まってしまったりするのは、この「ビタミン”いっちょやったろか”」の生成が終了したことによる影響が大きいと、僕はにらんでいる。
 
 
 
そういうことだから、僕は今日一日のつまらなさに危機感を抱いた。

何かを担っていなければ、責任を負っていなければ、頑張っていなければつまらないというのは、僕が何かを担えなくなったとき、責任を負えなくなったとき、頑張れなくなったときに、そこから死ぬまでつまらないということになる。

僕は30代に突入したばかりで、世間的にはここから20年ほど働き盛りと呼ばれる時間が続くわけだけれど、だからといって、「ビタミン”いっちょやったろか”」だけにわが活動のエネルギーを任せるのは、先述の理由により危険である。
 
 
 
そういう訳で、僕は今第二の栄養素である「ビタミン”これおもしろい”」を生成する方法を模索している。

手始めに、家をきれいに整理するとか、Amazonで見つけた便利そうな道具をDIYできないか試してみるとか、そういうところから徐々に始めてみている。

今のところ、家の整理がお金を使わず実利益も高く仕事への好影響もあるため、一歩リードといったところだ。

ただ、追い追いはそういった実利益的なものも手放していきたいと考えているので、まだまだ検討の余地はある。

もはや趣味だか仕事だか分からなくなってしまった音楽は、やっぱりどうにも仕事、という気持ちになってしまうのだけど、これによる「ビタミン”これおもしろい”」の生成への挑戦は、頑張るを手放すいい練習になるかもしれない。
 
 
 
「ビタミン”いっちょやったろか”」は、とても大切な栄養素だ。

だけど、それだけだと色気がない。

又市さんもおぎんさんも治平さんも、仕事だけが人生でないから、色気があって魅力的だったではないか。

百介くんがいつまでも野暮天なのは、知っている世界が狭いからだ。

てめぇをひとつの世界だけに閉じ込めちゃいけねぇよ。
 
 
  

 
実写とかアニメとか、色々やられてたんだね。

小池栄子さん!小池栄子さんじゃないか!もしかしておぎんさんですか!

部屋が凝った

どうしても集中力が切れてしまったので、気分を変えようと仕事部屋の模様替えをしたのが、昨日の夕方ごろだ。

以前の仕事部屋は6畳の洋室のうち2畳ほどのスペースを、ネットカフェよろしく「居心地の良い引きこもり空間」というコンセプトで切り取ったものだった。

とても気に入っていたのだけど、当初は心地よく感じていたクローズ感が最近になって息苦しくなってきていたものだから、閉じていた空間を解放し、生意気にもスペースを2畳半ほどに拡張したのだ。
 
 
 
僕は部屋の間取りや家具の配置にはとてもこだわる方で、最近は部屋の掃除が趣味ということも相まって、使いやすく管理しやすい自宅オフィスの構築に心血を注いでいる。

これまでもネットや書籍で様々な自宅オフィスの画像を漁り、あれやこれやと試してきた。

そんな中でひとつ、気付いたことがある。

それは「空間の凝り」である。
 
 
 
よく「思い出の品」というものがあるけれど、例えば昔こっぴどく振られた彼女がくれたマフラーとか、まあそういうものってのは、見る度に色々溢れてきて、元気じゃなくなる方向にグッとくるじゃないですか。

で、その「元気じゃなくなる方向にグッとくる」感じが、実はアイテム単品だけはなく、風景や立体的な空間、アイテム同士の組み合わせといったものにも染みついちゃうのだ。

そういう空間が「元気じゃなくなる方向にグッとくる」状態のことを、僕は「空間の凝り」と名付けた。なう。
 
 
 
「空間の凝り」は、そういったことに敏感な人はすぐに分かる。

なんだかイライラするとか、集中力が続かないとか、体調は悪くないのにいまひとつ調子がのらない、といった形で如実に表れるのだ。

そして、モノや汚れによる「モノの凝り」は掃除や整理でほぐせるのに対し、「空間の凝り」はどんなに面をきれいにしてもほぐせない。

だから、モノとモノとの位置関係を変えることを通してそもそもの空間を組み替えることで、つまり、模様替えをして、凝りそのものを分解してしまうのだ。
 
 
 
新しく構築されたわが仕事部屋は実に新鮮である。

同じだけの時間仕事をしていても、疲れ方や進み具合がまるで違う。

そんな現在の間取りも、ひと月ふた月と過ごすうちに、必ず何かが凝ってくる。

だから、「凝る前」に部屋の模様替えをする。

傍目には何をそんな落ち着きのない、と思われるかもしれないけれど、これは僕には必要な儀式なのだ。
 
 
 
そんなことを思いながら模様替えを終わらせ、角度を変えたデスクに向かうと、そこには新しい風景が広がっている。

何かを買うこともないし、余計なものは捨てるから減るし、いいことばかりではないか、うははと内心笑いながらキッチンに目線を向けると、妻が厳しい表情をして家計簿をつけていた。

そろそろ模様替えをした方がいいかもしれない。
 
 

大魔王とアメリカザリガニ

人にはルールが付いて回る。
ルールとはつまり、「許されないこと」だ。
もっと平たく言うと、「その人の前でこれをすると怒られること/悲しませること」である。
 
よく共通ルールの引き合いとして出されるのは、「浮気はしちゃダメ」や「不倫はしちゃダメ」(実は何が違うのかよく知らない)である。
わざわざ言葉にすると、「話しを聞かない」ことや「口汚くののしらない」「暴力を振るわない」ことも、ルールと呼べるだろう。
 
 
 
ルールには「共通ルール」と「独自ルール」がある。
「地域限定ルール」や「年代限定ルール」などもあるが、そういうややこしいものは今回は無視する。

重要なのは、「人間誰しも人にルールを強いているし、強いられている」ということ。
そして、「ルールの重要度は人によって異なる」ということだ。

だからルールの少ない人や、多くの共通のルールを持つ人、多少のルール違反をしても「いいよそれくらい」と許してくれるような人が、一緒に居て心地の良い人といえる。
逆に、ルールの多い人や、ルールがかみ合わない人、各ルールの重要度が高い人とは、付き合うのが難しいということになるだろう。
 
 
 
人と人の関係とは、ルールとルールの関係であるとも言い換えられる。
人の変化とはつまりルールの変化であって、個々別々にルールが変化していくから、結果として人同士の関係もどんどん変わっていくのだ。

本来はゆるやかな変化で進む人との関係であるが、それが一気に大きく変化するライフイベントがある。
そう、「結婚」だ。

僕自身も、結婚の前後で妻との関係が大きく変わった者の1人である。
結婚前までは「大名と平民」程度だった妻との関係は、結婚と同時に「大魔王とアメリカザリガニ」の関係に改変されたのだ。
強いられるルールは増え、こちらのルールは限りなく通らない。
せいぜい水草に映えている藻を静かに食むので精一杯である。

仮に僕がどこかの美少女と恋に落ちれば、妻は烈火の如く怒り狂い、暗雲を呼び大地を割って吹き上がる溶岩をバックに多額の慰謝料を請求するだろう。
だが逆に妻がどこかのイケメンと恋に落ちたなら、いかに僕が共同生活を営むに不適格な人材であるかを前世まで遡って調査、しかるべき機関に提示した後に「慰謝料を請求しないことが私の最後の愛である」と言い張るだろう(その前に僕の名義でローンを組み、マンション等を購入する可能性はある)。
 
 
 
だが、悲観してはいけない。
あくまでルールとは、主観でしかない。
ルールの変化には原則がある。
それは、

「ルールの変化とは、ルールが減ること」

というものだ。
よく「あいつも丸くなってさぁ」と表現される、アレである。
 
 
 
人は18才ごろまでに沢山のルールを作り上げる。
誰かに依存しなければ生きていけない間は、依存相手のルールを大きく強いられることになる。
そのことが、人のルール構成に大きな影響を与えるのだ。

ルールが多いと人は「尖る」。
死ぬほど付き合いづらくなるのだけど、「尖ってる人同士」は似たようなルールで尖ってるのだから、割と一緒に居られる。
それがある程度の年齢を過ぎると、「もういいじゃん」ということで、徐々にルールの弱体化や撤廃が始まるのだ。
 
 
 
だから僕は信じている。
いつか妻との関係が、「大魔王と村人」ほどのレベルに改善することを。

だがその前に、大切なことがある。
妻が料理を作って遊びに行った時には、「妻が作ってくれた料理を食べなければならない」というルールが発生するのだが、そのことに気付くよりも先に、妻というルールブックの不在に自由を感じて浮かれた僕は、棚の上に隠されていたチキンラーメンをつい食べてしまったのだ。

もちろん妻の料理も頂くが、それよりも手料理があるにも関わらずチキンラーメンを食べた罪で、僕はきっと処されるだろう。

世のお母様方、奥さま方には、どうか知ってほしい。
手料理がおいしくないのではない。
かけてくださったお手間を踏みにじらんとする悪意など、あるわけがない。

あなたが自由だと、僕らも自由になる、それだけなのだ。

だから、あなたの統治する世界の片隅にある小さな村の水田の用水路で藻を食んでいるアメリカザリガニは、だからあなたに反旗を翻そうだなんて大それたことは考えていないから、だから、ゆるしてくださいお願いします。


ブラジャーとウンティーヌ

沈黙は金なりと言うが、
誰かの言葉によって僕は今日を生きているのだから、
やはり沈黙するだけではいけないのではないか。

そんなことを思い、仕事もそこそこに筆を取った。

ブログの更新が滞っているというか、
もはやそもそも更新しなくてもいいとさえ思っているというか、
だけど毎月いくらかのお金を払って維持しているサーバーだから、
少しはね、という俗感にも駆られてというか、

少なくともそれほど健全ではない理由でもって、
僕は改めてブログを書こうと思うのだ。



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就寝前に布団の中でAmazonの商品ページをフラフラとさまよっていたら、
「仕事のできる男のデスクは美しい。」
という感じのタイトルの本が出てきた。

TOYOTAの動作経済という考え方があるが、

(物を取る動作を、いかに短縮化てきるか、的なアレ。
 ペンは利き腕の側に、電話は左手側に、みたいな
 アレだったと思う。だぶん。)

あらゆる物事に理由を見いだし、
それらを納得して使用するというのは、
洗練されたアーバン的ムード漂う美しさにつながる。

僕くらいの洗練されたアーバン的ムード漂う大人ともなると、
デスクのひとつやふたつ、
それはもう摩天楼のように美しく輝いていてもおかしくない。

普段あまりに自然に使っているものだから自覚していなかったが、
あまりに自然に使えてしまっているあたり、
んもうアーバン的なムードでいっぱいではないか。

それについても自覚はなかったが、
おそらく僕のデスクは近付けばアーバンなジャズが流れてくるような、
トランペットの先っぽが上向きに曲がってるくらいがカッチョイイ的な、
そんなデスクであるのだ。

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ふふんと得意になって翌日、
僕はコーヒーを入れてデスクに向かった。
妻のブラジャーが置かれていた。

おそらく、夕べ洗濯物を取り込む時、
何かの拍子に落ちたのだろう。
ジャズではなく、ドリフの大爆笑のテーマソングが
流れてきている気がする。
ズンチャカスチャッチャラー。

眉間にシワを寄せて椅子を引くと、立派な二つ折りのウンティーヌが、
それはもうてらてらとして、それでいて無遠慮に鎮座していた。

ふと隣りを見ると、
少し離れたところで半蔵(チワワ/オス/最近死ぬほど毛が抜ける)が、
少し離れているのに音が聞こえるくらいの勢いで震えている。

彼なりに何か、言いたいことがあったのだろう。
残念ながらそれを察してやることは僕にはできないが、
ウンティーヌを配置する以外に、何か方法はなかったのだろうか。

僕はウンティーヌを回収してトイレに流し、
震える半蔵を妻のブラジャーで優しく包むと、
ようやくPCに向かって腰を下ろした。

少し冷めてしまったコーヒーを手に取る。
重ねていた書類と、その上に置いていた筆記用具が、
ばさばさと埃を立てて滑り落ちていった。

リラックスを求めて豆の香りを吸い上げると、
先ほどまで直下で圧倒的な存在を放っていた
半蔵のウンチョスの残り香が、僕の胸をいっぱいに満たした。

人生に優秀でない時間を

赤ん坊の泣き声が頭の上から降ってくる。
似たような高さの木々間をぬって、何かを訴えている。
誰に、というよりは、この世界全てに、要求を突きつけているようだ。

大阪で自分の家が持てるまでここで頑張ろうと心に誓ったマンションを突然の転職で引き払って二度目の関東生活を始めてから、もう3ヶ月が経った。
当初自宅がなく、カプセルホテルを転々としていたことを最近のように思い出すし、2つ前にやっていたプロジェクトに頭を抱えていたことはつい昨日のことのように感じるが、全て3ヶ月前の出来事だ。
時間が圧縮しているというのは、こういうことを言うのだろう。

そんなこれまでの人生の中で最も濃密な時間の中で、はたと、本当にはたと気付いたことがある。
街には、行かなくってもいいんだ、ということだ。



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今の仕事では、クライアントとの打ち合わせ以外は基本的にパソコンの前に座っている。
出社しようが自宅にいようが、とにかくとにかくキーボードを叩いている。

そういう毎日を送っていると、無性に何か別の刺激が欲しくなってしまうことがある。
何か違うことをしたい。
何でもいいから今やっていること以外のことをしたい。
新鮮な刺激でもって我が身と心を別の次元に洗い流してしまいたい。

そんな衝動にかられて、町田や新宿に出張る。
駅まで歩いて電車に乗って、改札を抜けて街に出る。

するとどうだ、改札を抜けたその瞬間から、いえ、正直に申しますと電車に乗り込んだあたりから、なんだかそれはちょっと違うんではないかという気持ちがこう、吹きこぼれる直前の鍋のように、ズルズルと茶色く粘っこい感情が垂れてくるのだ。

そんな茶色いものを垂らした状態で出張ると、目に映るもの全て自分の気持ちにそぐわない。
衝動的に高額なデジタル機器を買いたくなったり、お姉ちゃんのいる店に入ってみたくなったりもするのだけど、そうすることで爽やかな気持ちになれるはずがないことは、一目せずとも瞭然である。

それでも僕を満たしてくれる何かがあるのではないかという淡い期待を持って街を歩くと、驚くほど身体も気持ちも疲れてしまう。
気が付くと出かける前よりも疲弊した僕が、このパソコンの前で「仕事してる方がマシだ」というような顔をして、またキーボードを叩いているのだ。

仕事には何の文句もない。
仕事に向かう、自分に文句がある。

そんな毎日であった。



ある時ふと、楽だった。
部屋を掃除して、妻と話しをして、チワワーズと散歩をした日だった。
それまでの感覚では「何かをした」とはとても言えないような、薄味の日常である。

その薄味の日常に、スイッチをオフにするボタンを見つけた気がした。

僕は「オン」と「オフ」のある人間だ。
「オン」でいるためには、「オン」でい続けるための努力がいる。
「オン」のボタンを押し続けなければならない。
それはとても、エネルギーのいることなのだ。

「オン」のボタンを手放すと、すぐに大切なことがこぼれる。
ミスもするし、忘れ物もするし、場の空気にそぐわないことを言う。
そういう人、あなたの周りにも(もしかしたらあなた自身かもしれない)、いるでしょう。
だから仕事人である以上、「オン」のボタンから手を離すことは、言わば御法度であったのでした。

そうして「オン」のボタンを押し続ける僕はどんどん疲れていって、機嫌が悪くなって街に出て行く。
だけど、本当にやらないといけなかったのは、ボタンから指を離すことだった。
「オフ」の状態を作ることだった。
御法度に触れることだったのでした。



もうひとつ白状しますと、まだ上手に「オフ」になれないことも多いのです。
何かをしようとするとそれは「オン」になるということなのだ。
「オフ」になることは、「オン」でいなければならないと信じてきた人にとって、とても難しいことなのです。
ちょっと時間ができたからといって「オフ」のまま皿洗いなんかしようもんなら、妻からありったけの罵詈雑言が飛んでくる。
「オン」のボタンは、本当にそこかしこにあるのです。

「オフ」になるには言葉の通り、何もしないことが必要だったのでした。
それが、部屋の掃除をして、妻と話しをして、チワワーズの散歩をすることだったのでした。
街に出て行く必要は、ぜーんぜんないのでした。



そういう訳で、僕は今自分のスイッチを切る練習をしている。

優秀じゃあない、
気遣いができない、
空気が読めない、

そういう「オフ」な僕でいる時間を増やすことで、結果として「オン」の時間の質も上がるのです。



・・・ということは、実感しないと分からないよな、本当。


MacBookAirが外部ディスプレイを認識しなくなった問題を解決した方法〜あの日あの時この場所で君が映らなくなってから〜

ご無沙汰している。
この3月から東京の会社に就職して、それまでずっと独学でやっていたマーケティングの仕事を本格的にやり始めた僕である。
めまぐるしい日々の中で常に自分の容量を超え続ける仕事に悪戦苦闘し(主に負け戦である)、気が付けば夏も近付く6月末。
体重が増加したことと歌が死ぬほど下手になった以外は元気です。



写真 2016-06-24 11 47 18



久しぶりの記事がこんな内容でどうかと思うのだが、以前から使っているMacBookAirが外部ディスプレイを認識しなくなった症状を苦労して解決したので、防備録というか、同じことで苦しんでいる毒リンゴ患者の皆様を救うべく、こうして記事にしたためる次第だ。
参考資料である。


まずは結論から

ライブラリ/Preferences/ByHost/com.apple.windowserver.●●●.plist

を削除して再起動


【初心者用翻訳】
①Finderを起動し、画面上部のメニューにある「移動」を選択
②縦長の「移動メニュー」が開いた状態で、キーボードの「optionキー」を押すと「ライブラリ」が出てくるので、マウスでクリック
③開いたところに出てくるファイル名「preferencec」をクリック
④「preferencec」の中の「ByHost」をクリック
⑤「ByHost」の中に「com.apple.windowserver.●●●.plist」があるので、それをゴミ箱にポイ
⑥MacBookを再起動



以上である。

●●●の部分は数字や英語が入っている。
複数ある場合もあるらしいが、とにかく全てゴミ箱に放り込む。
そして再起動。

再起動後の画面が自動で外部ディスプレイに出力された時の爽快感といったらない。
あまりの喜びに声を上げたら、布団で寝ていた妻からMacBookにサブミッションを仕掛けるぞという旨の恫喝を受けたほどだ。
もう13時なんですけど。



何度も言うが、あくまで僕のトラブル状況が解決した方法がこれである、というだけだ。
この方法で解決できない人もいるだろうから、その時は頑張って別の情報を探してほしい。
応援している。

では、以下はより詳細な状況だ。
「こんだけじゃわっかんねぇよ!」とか「どうせ暇だし」という人は、目を通してほしい。


あの日あの時この場所で君が映らなくなってから



さっそくなのだけど、僕のMacBookAirで起こっていた症状は以下の通り。

■使用状況

→MacBookAirのThunderboltポートからDellのディスプレイに映像を出力
→MacBookAirは閉じて、クラムシェルモードで使用

クラムシェルモードとは、MacBookに外部ディスプレイとキーボード、マウスを接続し画面を閉じることによって、、まるでデスクトップPCのようにMacBookを使用する必殺モードだ。
画面の増設や複製でないところがポイントである。
外部ディスプレイの大きな画面で作業ができる他、Macを使いこなしているという高揚感および優越感が得られる。
また「クラムシェルモード」という名前が非常にかっこいいので、セッティングの際「チェーーーーーーーーーンジッ!クラムシェルモォォオォッォォォッォオオオオオオッド!!!!!!」などと脳内で叫ぶことにより、その後のモチベーションコントロールまで可能という実にハイテクなサムシングなのである。



■発生状況

→仕事机を整理した後に外部出力をしようとしたら、突然ディスプレイに画面が出なくなった
→コードの接続の問題かと思い、Thunderbolt端子付近になるべく負担の掛からない角度で接続しなおし
→しばらくは使えていたものの、1週間程度でまた外部ディスプレイを認識しなくなる



■講じた対策

※主にググって調査。PS管理の基礎知識など皆無である。

→OS再起動
:効果なし

→ターミナルにコマンド入力
:記事の内容も分からんしそもそもターミナルが何なのかも分からん

→ディスプレイとMacBookを電源抜いて一晩放置
:翌朝復旧して「お前寝不足だったんか、すまなんだ」と陳謝するも、さらにその翌日にはまた症状再発。足下にいた半蔵(チワワ/オス/洗濯物にオシッコをひっかける)を抱きかかえ、雨の川崎に飛び出す程度に錯乱

→上述の方法でファイルを削除
:問題解決。手作りの段ボールハウスの中にいた半蔵(チワワ/オス/ご近所の奥さんにもオシッコをひっかける)を妻が寝ている布団の中に放り込むほどに狂喜



以上である。

この記事で一人でも多くのリンゴ中毒者が救われることを祈っている。

どうしてこれで症状が直るのかって?
知るかそんなもん磯辺揚げでも食ってろ。

僕の心のやらかい場所の膿詰まり手動式水洗トイレ

流行りの心理学をカジってみたら、「人は子供のうちに必ず親に対して劣等感を抱くようにできている」なんていう、ちょっと無視できない衝撃的な情報と出会った。

わが身を振り返ってみれば、優作少年10歳前後、自分のお小遣いで友達からメダルを買った時に、母は「それはお母ちゃんとお父ちゃんの汗なんや」と、手元のプラレールを投げつけながらまさにはち切れんばかりに怒ったものだった。

しかし、どうしてそれが貴重なプラレールのレーンを投擲破損させなければならないほどの事態なのか。
僕が友人に払った100円は、母が僕の小遣いとして渡したものではなかったのか。
それは即ち、僕の手元にありながらも、少なくとも母はその100円玉を我が子の所有物と考えてはいなかったということではないか。
僕が友人から受け取ったメダルに100円の価値があると信じた、ということを信じられないのなら、どうして母は僕にお金なんて難産の権化を渡したのか。

もはや大人になった今、その矛盾は明確である。
しかし当時の僕、一人の日本人としての経済的自立ができない優作少年10歳は、ただただお金を手に入れるのは、母が涙を流すほどに辛く苦しいことなのだということであり、おいそれと他人に渡してはならんものなのだという「母の価値観」を、嗚咽を漏らしながらも飲み込むしかなかったのであった。
そうしなければ、僕は母に突き放されてしまう。
それだけは、絶対に嫌だったのだ。



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まだ見ぬ我が子が同じことをした時、僕は何を思い何を言うか。
脊髄のヒダ裏に潜伏する恐ろしい命題に対する回答は見逃していただきたい。
ただそのような経験を重ねるうち、どうしても精神の成長に肉体の成長が追いつかぬヒトという生き物は、もどかしさの渦中に最も近くにいる人間、つまり親(特に母親)の価値観に染まらねば生きていけない(生かしてもらえない)現実に直面するのだという。

そこで親子の間にどのようなコミュニケーションがあったのか、親の未熟の程度によって、言葉によって、態度や表情によって、子供の劣等感の度合いや傷の付きどころが変わってくる。
そしてその劣等感や傷、総称するなれば「心の穴」が、まさしくその人物をその人物たらしめる大きな要因となって先の人生を大きく左右する。

これがミーハー的にかじった「嫌われる勇気」というアドラー心理学の本で出会った言葉であった。
そしてまさしく本日、麻生区の区役所で転入届を提出すべく待機している最中に読破した「すべてはモテるためである」というAVビデオの監督が描いた本には、さらに恐ろしいことが書かれていた。



「セックスとは、お互いの心の穴の触り合いである」



この言葉には、いっそゾッとするものがある。
この前提に従えば、「物足りない」というのはつまり、「あなたとのセックスでは私の心の穴は埋まっていない」ということになってしまうではないか。
それはまさに、わが「心の穴」の一番奥のやらかい場所(”穴”の奥に場所なんてものがあるのなら)を、ぐしゃりと握りつぶされるに等しい事実だ。

満たされてくれなければ、満足してくれなければ、お眼鏡に叶わなければ、嫌われてしまう。
嫌われたら、突き放されてしまう。
突き放されては、生きていけない。
優作少年10歳は、母から突き放されては生きていけない。
わが精神構造はまるで近代高層マンションのお手洗いのように、用を足した子供が立ち上がると同時に廃棄物を水圧処理するように、誰かから嫌われる、あるいは、嫌わられたという実感を持つことを、極端に恐れるのだ。



そんなだから、「実は水洗トイレの構造はだね・・・」なんて根っこの話しを持ってこられたのだから、当方目からウロコボロボロ現象でしばらく前が見えなくなってしまった。
そんで、気付いてしまった。

わがトイレを見よ。
非近代高層マンションであるわがトイレは、レバーを引かなければ水が流れない。
そこにはんもう見るのもウンザリするような様々な色々が、あらゆる不快の形状をなしてどどーんと鎮座しておられる。
目下の目標は、一刻も早くそれらの詰まり物に星に還って頂き、肥料的なものになって七色の草花を芽吹かせることだ。

誰かのトイレの流し方を考えている場合ではない。
「心の穴」は、穴ではない。
「傷が集まって穴になる」と尊敬すべきAV監督は仰っていたが、その文学的表現はとても美しく魅力的なのだが、彼の言わんとするそれはきっと皮膚の欠落たる「傷」ではなく、出し損ねた「膿」だと思うのだ。

膿が集まるのだから、やらかくなる。
膿が集まったところは触ると痛いから、人目に触れないように服や鎧で隠そうとする。
そうやって自分でも忘れちゃうくらい一生懸命に隠して、じゅくじゅくに膿んじゃった場所を、「心の奥の一番やらかい場所」と呼ぶ、というのは、どうですかねスガさん。



トイレの話しをしたり膿だと言ってみたり、久しぶりの記事が随分ときちゃない感じになってしまったが、これもまた僕にとっての水洗作業であるので、どうかご容赦願いたい。
あと、まるで母が諸悪の根源であるような書きっぷりに見えるかもしれないが、そのいわゆる「母の呪い」を「解く」ことがわが使命でもあるので、断じて母は悪くない。
逆説的だが、「解く」ためには「呪い」が要るのだ。
「呪いが解けた状態」ではなく、「呪いを解くこと」が、やるべきこと、経験すべきことなのだ。

というか、そういうことをしちゃうような「呪い」を、母も持っているのだ。
先祖代々引き継いだ、大切な「呪い」である。
わが血縁に引き継がれし鎖をこの手で断ち切れるのだから、なんかこう、勇者めいててちょっとええ気持ちではないか。ふはは。

ということで、僕は自分が価値がある、楽しいと感じたことに、お金を使ってよろしい。
また、苦でなく楽でお金を生み出してもよろしい。
ただしこの場合の「苦」は「苦痛」ではなく「苦労」であり、「楽」は「楽チン」ではなく「楽しい」であることが前提である。

ドヤ顔で偉そうなことを言っているけれど、まだまだ汚物は山の如し。
めくるめく便器との邂逅は、まだ遠い。
初めて見えちゃった時、感激のあまりキスしちゃったら、どうしよう。
ううむ、お下品でした。