虎穴に入らずんば虎子を得ないけど虎はめっちゃ怖くて危ない。


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大阪の森ノ宮というところにキューズモールというショッピングモールが出来たと聞いた。
このショッピングモールの売りは何と言っても屋上に設置されたエアトラックという人口芝のランニングコースである。
全長300メートルのこのランニングコースは、ショッピングモールというビジネスモデルに新たな一石を投じる一つの流暢の表れであるとかないとか、なんかそんな話しなんである。

時代の流暢の某かはとりあえずおいておく。
ここのところすっかりと引きこもりだった僕は野外の空気を吸う理由が欲しくて、無謀にも彼女様に声を掛けてこの森ノ宮キューズモールへと繰り出した。

森ノ宮キューズモールは規模こそそれほど大きなものではなかったが、各所に前進的な試みが取られている。
ドッグランを併設し、愛犬と歩き回れる施設。
お客が持ち寄った本を読みながらコーヒーが飲めたり、備え付けのMacでブラウジングができるカフェ。
表情豊かな輸入食品のお店、などである。
犬好きカフェ好き輸入食品好きの彼女様はそれはもう凄まじい勢いで食いついてきて、いかに犬とカフェと輸入雑貨が素晴らしいかを聞いてもいないのに延々と語っていた(「どうしてお前は車を持っていないのか」「どうして今までそのような施設の存在を教えなかったのか」「どうしてお前は綾野剛ではないのか」といった意見を含む)。

モールに到着すると、すぐに室内ロッククライミングの施設が目に入った。
ナウでヤングな呼び方があったような気がするが、まあいいじゃないか。

岩っぽい質感の壁がどどーーーんと3フロアくらいぶち抜きでおっ立っていて、そこに色々な色の手がかりがある。
おそらくコースによって難易度があって、初心者は白色のコース、上級者は紫色のコースといった具合にわかれているのだろう。
よく見てみると、やはり壁が突き出しているような部分は、手がかりの色も偏っているように見えた。

「ちょっとやってみたい」

そういって大きな壁を見上げる小さな女は、「今日は無理やけどな」と肩の出た服をさすってそういった(肩で人を攻撃した時に服が破れないようにするためだろう)。
「あそこ難しそうやなあ」と目を細める彼女様のご尊顔は見つめる先の、挑戦者を重力の底に叩き落とすべく突き出した険しい壁肌によく似ていた。

適当なカフェで食事を済ませ、「うちの料理の方がおいしい」という彼女様の洗脳を受けてから、店を一通り巡ってブックカフェに入った。
壁じゅうが本棚になっていて、コーヒーを楽しみながら本が読めるというコンセプトのカフェだ。
店の名前は忘れたが、絵本からビジネス書までたくさんの本が集まっていて、活字とカフェインに目がない僕にとっては、んもう卒倒しちゃいそうなくらいうれしい場所である。

席を陣取ってからホットドッグとコーヒーを2杯頼んで席に戻ると彼女様が般若のような顔をして(いつもの顔だ)、自分のコーヒーはいらなかったのだと主張した。
僕が頼んだコーヒーを横から略奪して、経費を浮かせる作戦であったらしい。
確かにお店からは1人1品頼んでおくんなしよ、といった要望がある訳ではない。
なるほど、実に理にかなった作戦である。
唯一問題があるとすれば、それが注文を取りに行く実働隊たる僕に伝わっていなかったことだ。

「え、コーヒーいらんし。」

という彼女様の声が聞こえた時、既に僕が注文した2杯のコーヒーと1匹・・・じゃない、1本のホットドッグは、トレイの向こうでステンバイされていたんである。

そこからはまるで飢えたトラと一緒にいるような気持ちだった。
彼女様は怒りがある一定の水準に達すると黙り込むという性質を持っている。
そうなったら何をしても無駄である。

隣の席で騒がしく子供をあやすばあさんに怒り、それを止めない店員に怒り、恐怖に震えながらも自分の時間を楽しむ僕に対して怒っている。
その怒りをじゅくじゅくと溜め込み、鬱屈したエネルギーに変えているのだ。
ちょうど地球に飲み込まれる大陸プレートに引っ張られた活断層がエネルギーを溜めているのに似ている。
解き放たれるそのエネルギーは破滅的な勢いをもって未曾有の大災害をもたらす。
自然災害と違うのは、その破壊のエネルギーがたったひとりの紳士に向けられるという点である。

特にこれといった打開策が見いだせないまま2時間ほどが経った。
うるさかったばあさんが店を出て、彼女様も少し落ち着いたようであった。
遠くの方で今度はじいさんが2人で何やら話しているが、男2人の騒がしさなど、ばあさんのやかましさに比べるとハトが鳴いているようなものだ。

多少落ち着いてきた彼女様ともう1周スーパーを回って、その日の夕食の食材を買って帰ることにした。
輸入雑貨の店で見立てた商品を、この日5%オフのセールをしていたスーパーで買う。
これを嬉々として行う彼女様の背中に、世の女性方のリアルを垣間見た気がした。

その日は事務所に帰ってから、やたらと美味いソーセージを2人で貪るように食べた。
モモンガのきゃす子さんにはブルーベリーが振舞われた(彼女様は僕以外の生き物には優しい)。
そのような穏やかな時間が、唐突に破られた。

「お前は人が怒っててもよく楽しそうに本が読めるな」

現場は緊張に包まれた。
主語がないが、返答を誤ると命に関わる。
「怒って」「楽しそう」「本」というキーワードから、今日のブックカフェでの出来事に関する話であると推測された。
僕は天に祈るような気持ちでこう答えた。

「へ・・・平気じゃないけどね、2人で不機嫌になったって、きっと楽しくないじゃん・・・ないじゃないですか。」

一般的な答えだ。
つまらないが、無難であり、ベストである。
敵の出方を慎重に伺う。

「まぁそうなんやけどな。実際ああなったら何されても噛みつくし。」

よかった。
引き出された答えは決して喜ばしいものではないが、とにかくこの場はうまく切り抜けられそうだ。

「でもやっぱりムカつく。」

そうだろう。
そこは読めていた。
ここで僕に必要なのは、歩み寄りの姿勢だ。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
懐に入れば、トラの爪も届くまい。

「じゃあ、ああいう時ってどうしてほしいの?」

チェックメイトだ。
後は彼女様の要望を聞き入れて、次回からの施作として展開するだけである。
勝利を確信した僕は、祝いのビールを片手に返答を待った。

「噛み付かれてでもいいから優しくするべきや」

爪を避けて懐に飛び込んだら牙があった。
優しい明日がほしい、それだけなのに、僕の視界にはいつだって鋭いものが写り込んでいて、この喉笛を狙っているのだ。

苦いビールを噛み締めていると、ブルーベリーを食べ終わったきゃす子さんが「もっと美味いものをよこせ」と暴れ始めた。
「きゃぁ〜す子ぉ〜」と猫なで声で人参を差し出した彼女様が、指を噛まれて「このやろう!」と怒り始めた。
割といい歳になる女とモモンガの喧嘩を見ながら僕は、平和とは犠牲の上に咲く花なんであると悟った。
この土壌には、まだまだ土が必要らしい。

知的労働者の憂鬱


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かねてより中々信じてもらえていないのだが、僕はミュージシャンである。
さらにさらに信じてもらえていないが、僕は知的労働者でもある。

知的労働の何たるかを理解できる者は少ない。
僕自身もよく分かっていないくらいだ。

しかし少なくとも自分自身の経験から、知的労働が肉体的労働に比べて精神的負荷の大きいものであることは分かっている。
工事現場で室内清掃の仕事をしていた時は適当にサボっていれば同じ仕事をしている仲間が進めてくれていたのだが、最近では自分が仕事を進めなければ仕事が進まないという危機的状況が常であるからだ。
具体的には、自分が曲を書かなければ曲が増えず、自分が練習をしなければ腕が上がらず、自分が記事を書かなければブログが更新されない。
自分の置かれた厳しい状況に目眩がする。

知的労働者は孤独である。
孤独故に抱える苦悩を理解してもらえることが無い。
先日も彼女様に「ブログを書かないでいたらページが更新されなくなった」と愚痴をこぼしたら、何も言わずに横っ面をはたかれたところだ。

もはや僕の苦悩を癒やしてくれる存在はモモンガのきゃす子さんだけである。
増築工事を経て広くなったゲージの中でモリモリとブルーベリーを食らうきゃす子さんに相対し、胸の内を明かした。
きゃす子さんは暫く黙って聞いていてくれたが、そのうちブルーベリーを食べ終わるとゲージの中をバンバンと飛び回り、「もっとブルーベリーをよこせ」と目で訴えた後つい最近新設したばかりの止まり木の上で放尿してココナッツハウスの中に帰っていった。

モモンガにさえ見放された僕はすっかり意気消沈して、ひとつの重大なる決意をした。

「ブログを書こう」

そもそも、これが出来れば問題は起こらないのだ。
現代インターネット史に残る大ヒット記事を書けば、それで事は全て丸く収まるんである。

僕はMacBookの電源を立ち上げ、ブラウザを開いた。
そしてYouTubeを開き、仮面ライダードライブの動画を見てから水曜どうでしょうの動画をチェックした。

気が付くともう寝なければならない時間だった。
ここのところ朝起きられない日々が続いているので、夜更かしをする訳にはいかない。
大泉氏のボヤキに後ろ髪を引かれながらブラウザを閉じて布団に潜り込むと、今日のブログが更新されていないことが気付かれた。
知的労働者の苦悩は、実に根深い。

鉄の精神のささみカツ定食

僕は自制心にあふれた男だ。
自らの中から溢れてくる欲求を退け、全体を俯瞰した大きな視点で生きている。

先日も出先で入った定食屋で、痩せたいという欲求を退けてささみカツ定食を平らげた。
衣とソースと白米の織りなすハーモニーが実に心地よい。
カウンターの奥のおばちゃんも満足げである。
俯瞰した視点で生きるというのは、あらゆる物事を正しく導いてくれるのだ(腹が出てくるという事象を除く)。

やりたいことをする、というのは、勇気が要るものだ。
例えば僕たちのような歌うたいは、常に「誰かに笑われる」というリスクを背負っている。

打って出るというのはそういうことだ。
多くの人の前に打って出て何かをしようとすると、あるいは、多くの人の前に打って出なくても、「そうすることで人から笑われる/バカにされるのではないか」といった悪しき想像が、僕たちの心と体を締め上げるものだ。

ささみカツ定食を食べきると、腹が出る。
オフィスワーカーにとって定食屋のメニューは明らかに栄養過多だ。

しかし、食べたいから食べる。
「腹が出る」というリスクは「食べて幸せ」とセットであるから、受け入れる。

かっちょ悪いのは、「腹が出るから嫌だなぁ」と言いながらささみカツ定食を食べきることだ。
そんなことを言っていたら締められて揚げられたトリだって、素直に栄養になってやろうなどと思ってはくれまい。
どうせ食べるのなら、ドキドキしていてもいいから、「食べて幸せ」にもっとフォーカスすべきだ。

痩せたい欲求に打ち勝ち続けた結果、僕は鉄の意志を手に入れた。
よほどのことがない限り、もはや僕は痩せたい欲求に負けることはないだろう。
米のツヤ、カツの歯ごたえ、味噌汁の味わいに見事にフォーカスし、まさしく幸せを噛み締めて生きている。

ところが先日彼女様が僕の腹を見てこう言った。

「食べたい欲求に負けすぎとちゃうか。」

発送の転換とはまさにこのことだ。
目から鱗がボロボロと落ちていく。

そう言われてしまってはしかたあるまい。
今度から僕は食べたい欲求に打ち勝つ鉄の精神を持てば良い。

しかしなぜだろう、全く勝てる気がしないのは。

何する訳でもなき日の祝福。


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土日に少し時間ができたので、和歌山の実家に一泊帰省をしていた。
両親もじーちゃんも猫のカイちゃんも健在で、実に安心した。

僕の地元はメインストリートの十字路に信号もないようなど田舎だ。
地域住民はモラルとアイコンタクトで角を攻める。

我が家はそんなメインストリートから200メートルほど山の中に入っていったところにある。
窓を全開にして寝転がれば水と稲の間を泳いできた風がカエルの鳴き声や木々のさざめきを連れてやってきて、僕を優しく撫でてくれる。
ただそこに居るだけで心が静かになり、余計なものが落ちていく。

雨の合間に曇天を見上げていると、白くて大きな鳥が二羽、連れ添って飛んで行った。
隣りに居たじーちゃんが、

「あの鳥が本流の川からこっちゃの細い川に来るから、魚が随分減ったど」

と言う。
確かに、広い川よりずっと漁がしやすいだろうと返すと、

「うぇあからっちゃらあぁぁょお」

と返ってきた。
一か八かで大きく頷くと、じーちゃんも満足そうに頷いた。
今回は僕の勝ちだ。

街で生きていると、そこにはたくさんの雑音がある。
いやきっと、田舎に生きていても、その雑音は聞こえてくるのだろう。

僕らはどうしたって過敏だから、その雑音の中から悲しい音や辛い音を拾ってしまう。
ただ、極端な環境を往復していると、その雑音は実は外から聞こえてきているのではなく、自分の中で鳴っているものなのだと気付く。

当然、いかに田舎の環境が素晴らしくても、親父が酒を飲むと暴れるとか、母親がガミガミうるさいとか、そういうのでは今ひとつピンとこなかったかもしれない。
しかし幸いなことに、僕の両親やじーちゃんや猫のカイちゃんは僕のことを笑顔で歓迎してくれるのだ(一部、ペディグリーチャムを要する者がいる)。

こんな幸せなことはない。

窓を全開にして、カーペットの上に枕だけだして、そこで昼寝をする。
生まれてこの方見上げつづけてきた天井がそこにあって、ぼんやり眺めてウトウトしているとため息が出るような至福が押し寄せてくる。
あまりに気持ちよくて、そのうちに自分と自分以外の境界線が曖昧になってくると、今度は感謝の気持ちが止めどなく湧いてくる。

そしてまた、この瞬間が永遠でないことも感じる。

既に僕は何人も家族を見送ってきた。
僕自身が子供から大人になるというプロセスも経てきた。

それは、僕たちの家族が生きていることの証である。
死の天使はいつでも、今この瞬間の幸福に感謝せよと、僕たちに語りかけてくれるのだ。

戻ってきた大阪は、雑然としていて狭苦しい。

だけど、僕は知っている。
この雑然とした狭苦しさは、僕の中にあるものだ。
本当なら今この瞬間に、家族や自然との繋がりを感じることだってできるのだ。

母が持たせてくれた弁当を食べていたら、ふとそんなことを思った。
出かけるまでまだ少し時間がある。
後で枕を持ってきて、事務所の床に寝転んでみよう。

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大根で釘を打つ人


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「ずっと大根で釘を打ち続けているのだけど、うまくいかない。
 なんとかしてもっと楽に上手くやりたいのだけど、大根以外の道具は使いたくない。」


こういう人が本当に、本当に山ほどいる。
僕は仲間の音楽活動のやり方にアドバイスをしたりすることがあるのだけど、その時にちょうどこのような話しになるのだ。

大根で釘は打てない。
カナヅチを使えばよろしい。

しかし、カナヅチを使うと指を叩いて怪我をするかもしれない。
あるいは、角度を間違えて釘が曲がるかもしれない。
っていうか、他の人はみんなカナヅチを使ってるんだから、自分は個性のために同じものは使いたくない。

という訳で、その人は変わらず、釘は打ち込めず、辺りは大根の欠片と汁にまみれる。

それは山本の教え方に問題があるのではないかという指摘の声が聞こえてきそうだ。
当然、問題はある。
しかしそもそも、大根を手放す気のない人には、知識以上の何かを注ぐことができないのだ。

変化する覚悟を持った人は、1の言葉を10にする。
変化を拒む人は、10の言葉を0にする。
大根を冷凍してみようとか、釘との間になにかを挟んでみようとか、そういう話しを求める。

しかし、答えは「カナヅチを使おう」なのだ。

人に、人を変える力は無い。
皆無である。
しかし、自分が認識する世界を変える力は無限に備わっている。

どうすれば大根を手放し、カナヅチを受け入れられるのか。
それは、1度カナヅチを使ってみることだ。

当然、上手くいかない。
大根とカナヅチでは、使用感も手触りもよっぽど異なる。
釘は曲がるだろうし、指を叩いて怪我をすることもある。

しかし、釘は進む。

少し練習して上手くなってくると、それが当たり前になる。
そうして初めて、「美しい釘の打ち方」という段階の話しができるのだ。

僕に人を変える力は無い。
音楽にも、人を変える力など無い。

君の中に君が変わる力があるのだ。
君の中に、音楽から力を生み出す心があるのだ。

日本の神道では、あらゆるものの中に神が宿ると言う。
「あらゆるもの」に神が宿るのだから、「君」にも神が宿っているということになる。

神社の本堂には殆どの場合鏡が置かれている。
賽銭を入れてガラガラとやって、手を合わせて感謝と願いを託して、目を開けるとそこには鏡に映った自分の姿がある。

「君」が「神」なのだ。
「神」なのだから、「何でも」できるのだ。
「何でも」できるのだから、「大根を手放してカナヅチを使う」ことだってできるのだ。

そのことに気付くだけなんである。
ボロボロの大根を何本も使って疲れ果てる必要はない。
大根のストックが無くなったからといって次の収穫の時期まで待つ必要もない。
打てど進まぬ釘を見て「自分には才能がない」などと愉快なことを言う必要もない。

もちろん、「大根で釘を打つ」ことも、「何でも」の中に含まれる。
しかし、それで上手くいかないから、今しんどいのだ。
「何でも」できるのに「やり方を変えたくない」というのだから、それはその人の考え方の問題なんである。

君の鏡に映るのは、いつだって君自身だろう。
君以外の人には、君を変えることはできないのだ。

僕はいつでも、「カナヅチを持とう」という歌を歌っている。
何か相談されると、やはり「カナヅチを持とう」というアドバイスをする。

飛び散った汁が目に入って、随分と痛そうじゃないか。
1度カナヅチを使ってみたら、どうだろうか。

無意識のポケットにポテトチップスみかん味。


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先日彼女様がコイケヤのポテトチップスみかん味なるものを買ってきた。
「優作にも食べさせてあげたいと思って」などと言いつつ、既に封の空いた袋を差し出してくる。
死ぬほど不味いか、毒が盛られているか、二つに一つだ。

恐る恐る手を伸ばしてひとつ口に含めてみると、塩気とイモの微かな香りの手前で微妙な柑橘の香りが待ち構えていて、それが咀嚼を終えて飲み込んでもしばらくの間舌の付け根でランバダを踊り続ける。
顔をしかめて嗚咽を漏らしていると、彼女様は実に満足げに微笑んでこう言った。

「胸焼けがするであろう」

負けると分かっていても戦わねばならない時がある。
いかな危機的状況においても冷静さを失わず、泥水を飲む覚悟を決めておくのが、紳士の嗜みである。
泥水を飲まなければ、泥団子を食べさせられるのだ。

今年に入ってから新しいことを大量に始める機会に恵まれている。
仕事もプライベートも、去年の年末とは随分と変わってきたものだ。

変化するのだから、当然そこには戸惑いや不安が付きまとう。
我が家にモモンガがやってくることになった時などは逡巡する間も与えられなかったのだが、普通は多少迷う程度の時間はあるものだ。

そこで迷わず変化を受け入れることが真髄であると知った。
新しい仕事、新しい試み、新しい生活・・・これらは実に激しく僕たちの不安を煽ってくる。
しかし、あらゆる物事というのは何らかの理由で起こるものだ。
仮に目の前の出来事が全て自分の人生のために起こっているのだとしたら、それがどれほど困難でもポケットに入れて歩いていくのだ。

その時、今までポケットに入れていた宝物をひとつ、捨てなければならない。
それがどうにも、辛いんである。

それでも、辛くても、捨てる。
拾って捨ててを繰り返す。
僕たちのポケットには、「ひとつのもの」しか入らない。

使わなくなったものは捨てる。
要らなくなったものは捨てる。
古くなったものは捨てる。
常に「ひとつのもの」が最新であるように努める。

とは言っても、そもそも人は一度見聞きしたもの、魂に刻んだ物事というのは、決して失わない。
仕事でも、覚え始めの頃は色々なことを意識しながらでなければこなせないが、そのうち何も考えなくてもある程度の作業ができるようになる。
僕たちのポケットの奥には無意識のポケットがもうひとつあって、そこまで入っていった物事というのは、絶対に失くすことがないんである。

胸焼けにうなされていると、彼女様が「他にも桃味とか売ってたよ」と言う。
僕は丁重にお断りして、冷蔵庫の中のコーラゼロをぐぐーっと飲み込んだ。

無意識のポケットにまたひとつ、余計なものが落ちてくる音が聞こえた。

マリオとモモンガとイケメンの苦難の道。


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同じパターンを繰り返すのは実に心地よい。
子供の頃スーパーマリオの得意なステージを延々とプレイし続けたことがあるのだけど、一つの流れの中で同じ作業をベストなタイミングで繰り返すというのは、他では味わえない絶妙な快感を連れている。
そういった繰り返しが高じて僕らは技術を磨いたり、得意なものを身に付けたりしてゆくものだ。

ところが、同じパターンだけを繰り返し続けていると、いずれ限界がくる。
マリオの目的はピーチ姫を救い出すことであって、フリーランのエキスパートになることではない。
キノコ城のガバガバなセキュリティ環境や危機管理体制についても検討の余地があるのだから、配管工の仕事をしている場合でもない。
ひとつのステージをクリアしたら、次のステージをクリアしないと、ヒゲのオヤジやヒゲのジジイとなり、桃の姫もいずれババアになってしまう。
亀だけが、万年生きて元気だ。

姫を助けるためには、水中ステージが苦手でも、水中ステージを超えていかなければならない。
勝手に画面がスクロールしていくステージが嫌いでも、超えていかなければならない。
「姫を助けない」という選択をすることもできるが、その後に残るのは「スーパーマリオがクリアできなかった」という事実のみだ。

自分がやりたいと感じたことに向かう道中で出会う苦労や苦難は、やりたくないことに耐える苦労や我慢とは、全く異質なものだ。
挑んでいる間は辛いかもしれないが、その次には必ず達成感や進行の喜びがある。

コーラは、あのとんでもない量の砂糖が入っているから甘くておいしいのだ。
美味しさは欲しいけど砂糖は要らないというと、とんでもない量の人工甘味料が入ったコーラ・ゼロがやってくる。

都合の良いことと悪いことというのは、常にセットでやってくるのだ。
新しく彼女ができたら、その彼女の過去や家族がセットでついてくるようなものだ。
ケータイを買ったら、月々の支払いが付いてくるのと同じことだ。

願いがあって、期待があって、それを叶えたい。
だけど、苦労も苦難もごめんこうむる。

そういったことを言っていると、人工甘味料たっぷりのアヤシイコーラが出てくるんである。
それを飲んで、「美味しくない」などと文句を言ってみたり、「結局人工甘味料ってヤバいんだよね」なんて言っているのが、僕たちだ。
もう何がしたいのかサッパリ分からない。

大量の砂糖を引き受けてみることだ。
飲んで、太ってしまえばいい。
そうすれば少なくとも、甘くておいしいコーラが飲みたいという願いは叶う。

コーラが良いという意味ではない。
コーラ・ゼロが悪いという意味でもない。

コーラが飲みたいのなら、飲めばいい。
大量の砂糖を引き受ければ良いのだ。

同じパターンを繰り返すことは心地よい。
しかし、コーラ・ゼロを選び文句を言い続けることが「いつもと同じパターン」になっているのなら、苦手で嫌いな水中ステージのように、不安で不快なものを引き受けなければならない。
少なくとも、コーラ・ゼロを飲みながら文句を言い続ける未来より、コーラを「美味しい」と言いながら飲み続ける未来の方が、よほど健全で健康的である。

先日僕の事務所で飼っているモモンガのきゃしーに食事制限が言い渡された。
食事の量は1日25グラム。
種のような種子系は1粒までなのだそうだ。

これまで日がな食べ続けていたきゃしーにとっては、苦難の日々である。
自分がゲージの中で飼われるモモンガでなくて良かったと胸をなで下ろしていると、ある日彼女様が僕のおやつにと持ってきた松の実の袋に、このようなメモが書かれていた。

・ゆうさく→1日10個
・きゃしー→1日1個


遥か遠い苦難の道に、地雷地帯とか有刺鉄線とか猛獣地帯とか、そういうものがゴロゴロ転がって見えた。

人生に要らないものがあるとしたら、そりゃ「夢と目標」ですよ。


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夢や目標がなけれなならないと思っている人が非常に多い。
ところが、夢や目標は、無い方がいい。
下手な夢や目標を抱いてしまうと、生き方が偏ってしまうからだ。

僕の高校時代の友人で「不労所得を得て死ぬまで美女のおっぱいの間で酸欠を起こし続ける」という夢を抱いていた友人は、卒業と同時に音信不通になっている。
彼の夢が叶ったかどうかは分からないが、少なくとも酸欠は起こしている可能性が高い。

ところで、夢や目標というのは実は「便利な道具」でしかない。
心震え、魂が燃え上がり、腹の底から気力を生み出してくれる実に「便利な道具」である。
つまり、心震え、魂が燃え上がり、腹の底から気力を生み出してくれる他のものがあれば、夢や目標なんてものはひとつも要らないんである。

ところが、「夢や目標がない」ということで、僕たちはすっかり捻くれてしまう。
テレビや漫画では夢や目標を持った成功者や主人公が、実に壮大でドラマティックな人生を歩んでいるからだ。
まるで夢や目標があることが、人生を素晴らしく生きるための唯一の手段であるかのように語られている。

しかし実際のところ、大人になっても夢や目標が無い人が大多数だ。
おかしいではないか。
夢や目標を持つことが人としての至上であるのなら、どうして眠くなったら眠るように、腹が減ったら食事をするように、生きて行く過程で夢や目標を抱かないのだろうか。

夢や目標は、決して人に必要なものではないのだ。

目の前に置かれているテレビゲームが、心震わせ、魂が燃え上がらし、腹の底から気力を生み出してくれるのなら、すればいい。
カロリーとコレステロールの塊のような食べ物が心震わせ、魂が燃え上がらし、腹の底から気力を生み出してくれるのなら、食べればいい。

大切なことは、唯一忘れてはならないのは、君の心が震え、魂が燃え上がり、腹の底から気力が生み出されることだ。
手段や方法は、何でもいい。
人に迷惑を掛けたってかまわない。

夢や目標を美化し過ぎた商業に振り回されないでいたい。
夢も目標も要らない。
今日、今この瞬間に、自分が楽しくなることや気力が湧いてくることに、時間とお金を割くべきだ。

仕事が終わってモモンガと戯れる彼女様に聞いてみた。

僕「彼女様の将来の夢って何ですか」

彼女様「かわいい小型犬とかわいい中型犬とかわいい大型犬とかわいい綾野剛に囲まれて死ぬことです」

僕「頑張ってください」

下手な夢や目標は、どうだろう、まあ、何でもええわ。

音楽家は神の五線譜に触れて消える。


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スポーツなどで集中力が最大に高まった瞬間に世界が静寂に包まれて自分の周りや自分自身が完全にコントロールできるようになることを「ゾーンに入る」と言う。
信頼できるソース(黒子のバスケ)からの情報であるから、おそらくそういうものは確実にあるのだろう。
実際僕自身も空手やテニスといったスポーツの中で、そういった感覚を掴んだことが何度かある。

ところが、圧倒的にこの感覚を掴み取れるものが他にある。
音楽である。

慣れ親しんだ曲を息をするように、その時その場の感情はムードを一切拒まずに演奏し始めると、それはまさに中空に浮かぶ譜面を我が身に降ろしているような感覚になる瞬間があるんである。
「この歌詞はこうだから、こう歌わなければならない」だとか、「このブレイクはこうだから、こうキメないとつまんない」とか、そいういう「思考」を一切置き去りにした場所で、実に静かで力強い音楽が鳴り響いている。

周りの人にどう聴こえているのかは分からないが、そうしている時がミュージシャンとして至高の瞬間である。

僕は、もう知ってもらえていると思うのだけど、言葉を扱うのが好きである。
それは文章であれ話し言葉であれ、同じことだ。
人は言葉によって形作られ、言葉によって生きている。
言葉こそ、人の人たる所以であるとさえ思う。

しかし、神の五線譜に触れた瞬間に、人の人たる重要性というのは、実にあっけなく忘れさられる。
歌っているのだから、そこには言葉がある。
しかし、(あくまで僕個人の感覚だけど)本当に音楽に没頭できた瞬間に、口から出て行く言葉はその意味を失う。
それは実に空っぽな、中立的な、明も暗もなく、ただ重心にそっと乗せられて倒れない石のアーチのように、ただただ美しくバランスをとり続けるだけである。

そして、その意味を失った言葉にこそ、意味がある。
それは僕の意思や思考を乗せている時よりも遥かに柔軟に人の胸に滑り込み、新しい形に生まれ変わる。

意味がないからこそ
中立であるからこそ
「愛している」という言葉そのものには意味が無いのと同じように
「愛している」と言う人の中にこそ意味が存在するように

それは僕の僕たる重要性を失うことで、誰かの誰かたる重要性に成りえる・・・とまあ教養のあるようなことを言ってみたが、つまり簡単に言うと、フラットだからいかようにも取れるニュアンスの歌になるのだよワトソン君、ということね。
プレーンなお好み焼きを出しているようなもんである。
ソースやマヨネーズは、自分でお好みの味にしてね、ということだ。

どうしてもソースやマヨネーズに拘りたくなるのだけど、実はみんな好みの調味料を既にもう持っている。
僕は僕自身から「意味」や「思考」と取り除くことで、その人が一番自分好みの味に仕上げられるプレーンなお好み焼きを提供することが、どうやら正解ではないかと睨んでいる。

修練とは、得るための行為ではない。
捨てるための行為だ。

自分が自分だと思っているモノを全て捨てたその先に、本当の自分が居るのだろう。
会いに行かなくちゃあ。

モモンガと事務所で蚊帳の外。


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〜前回までのあらすじ。
毎日を一生懸命生きていたらモモンガを飼うことになったのだった。〜

彼女様「うわ見てキャシーかわいい。あ、ほら、めっちゃかわいい!うわぁ・・・これ可愛いなぁ・・・」

論理的思考力の一切を失ったその女は、締め切りに追われ頭を掻き毟りつつ慣れない仕事をこなすイケメンがまるでこの世界のどこにも居ないような振る舞いでもって、事務所の隅にやってきた同居人をうっとりと眺め、あるいはぎゃあぎゃあと喜んでいた。

前回の記事の後、僕は本当に彼女様に連れ出され、慣れない土地の知らないドックカフェに行き、カモモンガを一匹引き取ることになった。
シンプルな部屋でスマートに無駄なく上質エレガントに働き、未来の音楽業界の当たり前をつるく場所。
そんな理想を思い描いて借りた事務所の一角から、動物園のような香りがする。

僕「展開が早すぎて付いていけません」

彼女様「義務教育は終わってるからな。後は実力勝負や」

僕「小学校でも中学校でも突然モモンガがやってきた時の対処の仕方は教えてくれなかったよ」

彼女様「田舎やからな、お前の地元。ポケモンとか1週間遅れで放送されてたやろ」

僕「何にしてももう手遅れなんだけどね」

彼女様「ああきゃしーかわいいよきゃしー」

こうして僕とモモンガと時々彼女様の不可解な同居生活が始まった。
キャシーは女の子だ。種類はアメリカモモンガというらしい。
日本でモモンガと言えばフクロモモンガという有袋類を指すらしいが、アメリカモモンガはげっ歯類。
つまり、リスやネズミの仲間である。

飼い方も随分違うようで、頭の中がモモンガ一色になった彼女様がとんでもない勢いで調べたものの、フクロモモンガよりも圧倒的に情報が少なく、日本ではマイナーな生き物らしい。

彼女様「全然情報ないねん」

僕「また随分なもの引き受けたよね」

彼女様「お前そんなんゆーて飼い主としての自覚はあんのか」

僕「自覚を持つ暇とかなかったのよ」

彼女様「まーでも、ペットショップのお兄さんに聞いたら、今の1日中ヒマワリの種を食べてる状況は、ガリガリガリクソンが1日中ポテチ食ってるようなもんだって言ってたから、それはやめよう」

僕「随分なこと言うなお兄さん。分かりやすいけど」

彼女様「あと、運動させます」

僕「散歩とか行くの?」

彼女様「そんなことしたらどこに滑空していくか分からん」

僕「部屋の中?やめてよ、モモンガってトイレ覚えないんでしょ」

彼女様「そんな時のためにこんなものを用意しました」

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僕「気絶するかと思いました」

彼女様「素晴らしいアイデアやろ」

僕「失ったものが多すぎるけどね。写真の奥の扉とか、どうやって開けたらいいんですか」

彼女様「キャシーの幸せのためでしょうが!」

僕「僕の幸せが踏みにじられています」

自分が家賃を払っている部屋なのに蚊帳の外に追いやられた僕は窓際で、それでも容赦なく迫り来る仕事の締め切りに向かって、11インチのMacBookの画面に映し出される極小のエクセルに立ち向かっていた。

彼女様はひとしきりキャシーと遊ぶとゲージの汚物を掃除し、翌朝ブロッコリーとリンゴをカットして与えるよう僕に指示を出して帰っていった。
取り残された僕は蚊帳を片付けてゲージを階段の下に収め、鼻をヒクヒクとさせながらヒマワリの種を探し続けるモモンガを見つめた。

僕「騒がしいけど、大事にしてくれる人でよかったじゃないか」

そんなことを言いつつも合縁奇縁を思う間も無く、僕はノートパソコンの前に座り込むと、冷めたコーヒーを啜りながら目を細めた。

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翌朝のキャシー。あれ?めちゃめちゃ可愛いぞ