マリオとモモンガとイケメンの苦難の道。


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同じパターンを繰り返すのは実に心地よい。
子供の頃スーパーマリオの得意なステージを延々とプレイし続けたことがあるのだけど、一つの流れの中で同じ作業をベストなタイミングで繰り返すというのは、他では味わえない絶妙な快感を連れている。
そういった繰り返しが高じて僕らは技術を磨いたり、得意なものを身に付けたりしてゆくものだ。

ところが、同じパターンだけを繰り返し続けていると、いずれ限界がくる。
マリオの目的はピーチ姫を救い出すことであって、フリーランのエキスパートになることではない。
キノコ城のガバガバなセキュリティ環境や危機管理体制についても検討の余地があるのだから、配管工の仕事をしている場合でもない。
ひとつのステージをクリアしたら、次のステージをクリアしないと、ヒゲのオヤジやヒゲのジジイとなり、桃の姫もいずれババアになってしまう。
亀だけが、万年生きて元気だ。

姫を助けるためには、水中ステージが苦手でも、水中ステージを超えていかなければならない。
勝手に画面がスクロールしていくステージが嫌いでも、超えていかなければならない。
「姫を助けない」という選択をすることもできるが、その後に残るのは「スーパーマリオがクリアできなかった」という事実のみだ。

自分がやりたいと感じたことに向かう道中で出会う苦労や苦難は、やりたくないことに耐える苦労や我慢とは、全く異質なものだ。
挑んでいる間は辛いかもしれないが、その次には必ず達成感や進行の喜びがある。

コーラは、あのとんでもない量の砂糖が入っているから甘くておいしいのだ。
美味しさは欲しいけど砂糖は要らないというと、とんでもない量の人工甘味料が入ったコーラ・ゼロがやってくる。

都合の良いことと悪いことというのは、常にセットでやってくるのだ。
新しく彼女ができたら、その彼女の過去や家族がセットでついてくるようなものだ。
ケータイを買ったら、月々の支払いが付いてくるのと同じことだ。

願いがあって、期待があって、それを叶えたい。
だけど、苦労も苦難もごめんこうむる。

そういったことを言っていると、人工甘味料たっぷりのアヤシイコーラが出てくるんである。
それを飲んで、「美味しくない」などと文句を言ってみたり、「結局人工甘味料ってヤバいんだよね」なんて言っているのが、僕たちだ。
もう何がしたいのかサッパリ分からない。

大量の砂糖を引き受けてみることだ。
飲んで、太ってしまえばいい。
そうすれば少なくとも、甘くておいしいコーラが飲みたいという願いは叶う。

コーラが良いという意味ではない。
コーラ・ゼロが悪いという意味でもない。

コーラが飲みたいのなら、飲めばいい。
大量の砂糖を引き受ければ良いのだ。

同じパターンを繰り返すことは心地よい。
しかし、コーラ・ゼロを選び文句を言い続けることが「いつもと同じパターン」になっているのなら、苦手で嫌いな水中ステージのように、不安で不快なものを引き受けなければならない。
少なくとも、コーラ・ゼロを飲みながら文句を言い続ける未来より、コーラを「美味しい」と言いながら飲み続ける未来の方が、よほど健全で健康的である。

先日僕の事務所で飼っているモモンガのきゃしーに食事制限が言い渡された。
食事の量は1日25グラム。
種のような種子系は1粒までなのだそうだ。

これまで日がな食べ続けていたきゃしーにとっては、苦難の日々である。
自分がゲージの中で飼われるモモンガでなくて良かったと胸をなで下ろしていると、ある日彼女様が僕のおやつにと持ってきた松の実の袋に、このようなメモが書かれていた。

・ゆうさく→1日10個
・きゃしー→1日1個


遥か遠い苦難の道に、地雷地帯とか有刺鉄線とか猛獣地帯とか、そういうものがゴロゴロ転がって見えた。

人生に要らないものがあるとしたら、そりゃ「夢と目標」ですよ。


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夢や目標がなけれなならないと思っている人が非常に多い。
ところが、夢や目標は、無い方がいい。
下手な夢や目標を抱いてしまうと、生き方が偏ってしまうからだ。

僕の高校時代の友人で「不労所得を得て死ぬまで美女のおっぱいの間で酸欠を起こし続ける」という夢を抱いていた友人は、卒業と同時に音信不通になっている。
彼の夢が叶ったかどうかは分からないが、少なくとも酸欠は起こしている可能性が高い。

ところで、夢や目標というのは実は「便利な道具」でしかない。
心震え、魂が燃え上がり、腹の底から気力を生み出してくれる実に「便利な道具」である。
つまり、心震え、魂が燃え上がり、腹の底から気力を生み出してくれる他のものがあれば、夢や目標なんてものはひとつも要らないんである。

ところが、「夢や目標がない」ということで、僕たちはすっかり捻くれてしまう。
テレビや漫画では夢や目標を持った成功者や主人公が、実に壮大でドラマティックな人生を歩んでいるからだ。
まるで夢や目標があることが、人生を素晴らしく生きるための唯一の手段であるかのように語られている。

しかし実際のところ、大人になっても夢や目標が無い人が大多数だ。
おかしいではないか。
夢や目標を持つことが人としての至上であるのなら、どうして眠くなったら眠るように、腹が減ったら食事をするように、生きて行く過程で夢や目標を抱かないのだろうか。

夢や目標は、決して人に必要なものではないのだ。

目の前に置かれているテレビゲームが、心震わせ、魂が燃え上がらし、腹の底から気力を生み出してくれるのなら、すればいい。
カロリーとコレステロールの塊のような食べ物が心震わせ、魂が燃え上がらし、腹の底から気力を生み出してくれるのなら、食べればいい。

大切なことは、唯一忘れてはならないのは、君の心が震え、魂が燃え上がり、腹の底から気力が生み出されることだ。
手段や方法は、何でもいい。
人に迷惑を掛けたってかまわない。

夢や目標を美化し過ぎた商業に振り回されないでいたい。
夢も目標も要らない。
今日、今この瞬間に、自分が楽しくなることや気力が湧いてくることに、時間とお金を割くべきだ。

仕事が終わってモモンガと戯れる彼女様に聞いてみた。

僕「彼女様の将来の夢って何ですか」

彼女様「かわいい小型犬とかわいい中型犬とかわいい大型犬とかわいい綾野剛に囲まれて死ぬことです」

僕「頑張ってください」

下手な夢や目標は、どうだろう、まあ、何でもええわ。

音楽家は神の五線譜に触れて消える。


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スポーツなどで集中力が最大に高まった瞬間に世界が静寂に包まれて自分の周りや自分自身が完全にコントロールできるようになることを「ゾーンに入る」と言う。
信頼できるソース(黒子のバスケ)からの情報であるから、おそらくそういうものは確実にあるのだろう。
実際僕自身も空手やテニスといったスポーツの中で、そういった感覚を掴んだことが何度かある。

ところが、圧倒的にこの感覚を掴み取れるものが他にある。
音楽である。

慣れ親しんだ曲を息をするように、その時その場の感情はムードを一切拒まずに演奏し始めると、それはまさに中空に浮かぶ譜面を我が身に降ろしているような感覚になる瞬間があるんである。
「この歌詞はこうだから、こう歌わなければならない」だとか、「このブレイクはこうだから、こうキメないとつまんない」とか、そいういう「思考」を一切置き去りにした場所で、実に静かで力強い音楽が鳴り響いている。

周りの人にどう聴こえているのかは分からないが、そうしている時がミュージシャンとして至高の瞬間である。

僕は、もう知ってもらえていると思うのだけど、言葉を扱うのが好きである。
それは文章であれ話し言葉であれ、同じことだ。
人は言葉によって形作られ、言葉によって生きている。
言葉こそ、人の人たる所以であるとさえ思う。

しかし、神の五線譜に触れた瞬間に、人の人たる重要性というのは、実にあっけなく忘れさられる。
歌っているのだから、そこには言葉がある。
しかし、(あくまで僕個人の感覚だけど)本当に音楽に没頭できた瞬間に、口から出て行く言葉はその意味を失う。
それは実に空っぽな、中立的な、明も暗もなく、ただ重心にそっと乗せられて倒れない石のアーチのように、ただただ美しくバランスをとり続けるだけである。

そして、その意味を失った言葉にこそ、意味がある。
それは僕の意思や思考を乗せている時よりも遥かに柔軟に人の胸に滑り込み、新しい形に生まれ変わる。

意味がないからこそ
中立であるからこそ
「愛している」という言葉そのものには意味が無いのと同じように
「愛している」と言う人の中にこそ意味が存在するように

それは僕の僕たる重要性を失うことで、誰かの誰かたる重要性に成りえる・・・とまあ教養のあるようなことを言ってみたが、つまり簡単に言うと、フラットだからいかようにも取れるニュアンスの歌になるのだよワトソン君、ということね。
プレーンなお好み焼きを出しているようなもんである。
ソースやマヨネーズは、自分でお好みの味にしてね、ということだ。

どうしてもソースやマヨネーズに拘りたくなるのだけど、実はみんな好みの調味料を既にもう持っている。
僕は僕自身から「意味」や「思考」と取り除くことで、その人が一番自分好みの味に仕上げられるプレーンなお好み焼きを提供することが、どうやら正解ではないかと睨んでいる。

修練とは、得るための行為ではない。
捨てるための行為だ。

自分が自分だと思っているモノを全て捨てたその先に、本当の自分が居るのだろう。
会いに行かなくちゃあ。

モモンガと事務所で蚊帳の外。


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〜前回までのあらすじ。
毎日を一生懸命生きていたらモモンガを飼うことになったのだった。〜

彼女様「うわ見てキャシーかわいい。あ、ほら、めっちゃかわいい!うわぁ・・・これ可愛いなぁ・・・」

論理的思考力の一切を失ったその女は、締め切りに追われ頭を掻き毟りつつ慣れない仕事をこなすイケメンがまるでこの世界のどこにも居ないような振る舞いでもって、事務所の隅にやってきた同居人をうっとりと眺め、あるいはぎゃあぎゃあと喜んでいた。

前回の記事の後、僕は本当に彼女様に連れ出され、慣れない土地の知らないドックカフェに行き、カモモンガを一匹引き取ることになった。
シンプルな部屋でスマートに無駄なく上質エレガントに働き、未来の音楽業界の当たり前をつるく場所。
そんな理想を思い描いて借りた事務所の一角から、動物園のような香りがする。

僕「展開が早すぎて付いていけません」

彼女様「義務教育は終わってるからな。後は実力勝負や」

僕「小学校でも中学校でも突然モモンガがやってきた時の対処の仕方は教えてくれなかったよ」

彼女様「田舎やからな、お前の地元。ポケモンとか1週間遅れで放送されてたやろ」

僕「何にしてももう手遅れなんだけどね」

彼女様「ああきゃしーかわいいよきゃしー」

こうして僕とモモンガと時々彼女様の不可解な同居生活が始まった。
キャシーは女の子だ。種類はアメリカモモンガというらしい。
日本でモモンガと言えばフクロモモンガという有袋類を指すらしいが、アメリカモモンガはげっ歯類。
つまり、リスやネズミの仲間である。

飼い方も随分違うようで、頭の中がモモンガ一色になった彼女様がとんでもない勢いで調べたものの、フクロモモンガよりも圧倒的に情報が少なく、日本ではマイナーな生き物らしい。

彼女様「全然情報ないねん」

僕「また随分なもの引き受けたよね」

彼女様「お前そんなんゆーて飼い主としての自覚はあんのか」

僕「自覚を持つ暇とかなかったのよ」

彼女様「まーでも、ペットショップのお兄さんに聞いたら、今の1日中ヒマワリの種を食べてる状況は、ガリガリガリクソンが1日中ポテチ食ってるようなもんだって言ってたから、それはやめよう」

僕「随分なこと言うなお兄さん。分かりやすいけど」

彼女様「あと、運動させます」

僕「散歩とか行くの?」

彼女様「そんなことしたらどこに滑空していくか分からん」

僕「部屋の中?やめてよ、モモンガってトイレ覚えないんでしょ」

彼女様「そんな時のためにこんなものを用意しました」

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僕「気絶するかと思いました」

彼女様「素晴らしいアイデアやろ」

僕「失ったものが多すぎるけどね。写真の奥の扉とか、どうやって開けたらいいんですか」

彼女様「キャシーの幸せのためでしょうが!」

僕「僕の幸せが踏みにじられています」

自分が家賃を払っている部屋なのに蚊帳の外に追いやられた僕は窓際で、それでも容赦なく迫り来る仕事の締め切りに向かって、11インチのMacBookの画面に映し出される極小のエクセルに立ち向かっていた。

彼女様はひとしきりキャシーと遊ぶとゲージの汚物を掃除し、翌朝ブロッコリーとリンゴをカットして与えるよう僕に指示を出して帰っていった。
取り残された僕は蚊帳を片付けてゲージを階段の下に収め、鼻をヒクヒクとさせながらヒマワリの種を探し続けるモモンガを見つめた。

僕「騒がしいけど、大事にしてくれる人でよかったじゃないか」

そんなことを言いつつも合縁奇縁を思う間も無く、僕はノートパソコンの前に座り込むと、冷めたコーヒーを啜りながら目を細めた。

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翌朝のキャシー。あれ?めちゃめちゃ可愛いぞ

批判しない男と滑空生物に魅せられた凶暴な女。


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とある識者の言うところによると、警察署で死刑を受けた受刑者は執行の瞬間に自分の行いを鑑みて反省しているかというと、そうではないという。
むしろ自分の身を守るために行動を起こした結果がこのザマだ、といった風に、自らの行動は正当であると主張する方が多いのだそうだ。

とある識者というのは、ドール・カーネギー。
ご存知の方も多いだろうが、世界的に有名な『人を動かす』という書籍の冒頭は、このような話題で幕を開ける。

僕たちには自分の行いを正しいと信じようとする性質がある。

ゴルファーのタイガー・ウッズが不倫騒動を巻き起こした時、騒動の後で彼は「今までこんなに頑張ってきたんだから、許されると思っていた」というコメントを残している。
実際にゴルフを頑張ってきたことと不倫をしてもいいかどうかということは全く無関係だ。
しかし彼の中では不倫を楽しむための理由として、ゴルフを頑張ってきたことが選出され、「こんなに頑張ってきたのだから」と自分を納得させていた。

あるいは音楽仲間の間では、音楽では食っていけないことを正当化するために「世間の連中は聴く耳がない」「日本の芸能文化はレベルが低い」といった理由を持ち出す者が多い。
しかし、「音楽を楽しむこと」と「音楽で食っていく」ことはまったく別のことだ。
売れない自分を正しいと思うために世間が間違っていると信じようとするというのは、他の業界でも失敗する者に多く見られる傾向である。

『人を動かす』の中ではこの人の性質を知って、相手のことを批判・非難しないと第一項を締めくくる。

死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえおればよろしい。
その批評が当たっていればいるほど、効果はてきめんだ。

という一節が、実に印象的である。
この一節を読んでから、僕は自分の身の回りの人物、特に彼女様を否定するようなことは一切言うまいと心に誓ったのだ(これ以上恨みを買ったら命に関わる)。

その彼女様から昨日突然、こんなことを言い渡された。

彼女様「明日からお前の事務所でモモンガ飼うから。」

僕「何言ってるの?」

彼女様「お前の事務所でモモンガ飼うから。」

僕「何?え?え?」

彼女様「モモンガ」

僕「どうして?多角的におかしくない?なんで突然モモンガ飼うの?うちで?」

彼女様「昨日行ったカフェでモモンガ里親募集しててん。」

僕「君の実家の君の部屋で飼えばいいじゃないか。もうチワワも2匹いるし、変わらないじゃないか」

彼女様「家族から猛反対を受けました」

僕「僕の猛反対は猛反対と認定されないんですか」

彼女様「だってモモンガかわいいやんか」

僕「僕まだ見てないもの。モモンガの形状とかディティールとか、全然頭にないもの。」

彼女様「ロフトに上がる階段の下のスペースとか、モモンガのための空間にしか見えんかってん。」

僕「もしかして僕が姿見の鏡置いて朝のオシャレするために使ってる空間のことですかそれ」

彼女様「演奏の動画撮ってる時にモモンガが画面を滑空して横切ったりしたらほら、斬新」

僕「新し過ぎてもうそれ音楽じゃなくなるから」

彼女様「夕方に迎えにいくから、時間作っとけよ」

僕「えっ」

彼女様「さっき正式にカフェに連絡いれました」

僕「えっ」

彼女様「名前はキャシー」

僕「えっ」

彼女様「モモンガ可愛いからしゃーないな」

僕「」

人を批判することは簡単だ。
だが批判された者がどのような感情を抱くかということを、僕たちは忘れてしまう。
人を批判しないというだけで、僕たちは良い感情に囲まれて生きていける。

しかし人を批判しないでいすぎると、ある日突然モモンガを飼うことになるから油断ならない。
読者の皆様も、十分に気を付けていただきたい。

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こちらが電話の後で送られてきたキャシーの写真。
あれ・・・可愛いぞ・・・

幸せのゴボウ。


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音楽を聴くときは、耳に意識を集中してはいけない。
リラックスして、心をフラットなところに置いて、そこで自分の中に注がれる音をただ静かに観察する。
すると、雑念まみれで聴いていた時とは比べものにならない量のサウンドや言葉がするするっと奥まで入ってくるものだ。

この「心をフラットなところに置く」というのは、あらゆる場面で重要なテクニックだ。
よく「視野が狭い」と言われる人たちは、往々にしてこれが出来ていない。
物事に何らかの意味付けをしながら受け取るクセがついているのだ。

例えば僕の場合だと、どんな音楽を聴いていても自分よりも劣っている部分を必死で探していた時期があった。
自信の無さを、他人との比較で埋めようとしていたんである。
必死で自分よりも劣っている部分を見つけて安心しようとしていたんである。

しかし、それをしようとすればするほど自分よりも優秀な部分が耳について、大変に苦しい思いをする。
それを無視して「あいつは○○が××だからダメだよ」などと言っていていも、それはそれは息苦しい。
終いには、自分の作品を作っていても他の人よりも劣っている部分が見えてきて、何も作れない、楽器を触るのも辛い、という状態になる。
自分から地獄の釜に飛び込んでいるのに、そのことに気付いていない。

よく言われる話しだけども、他人と何かを比較している内は、僕たちは幸せにはなれない。
生まれながらに勘が鋭く「才能がある」と言われる人は実在するが、そういう人と出会った時は、神の采配で素晴らしいサンプルが目の前に現れたのだと思えばいい。
眩しい光に目を閉じず、一体何がどう輝いているのか、自分が輝くためにはどういった部分が参考になるのか、じっくりと見つめるとよい。

人との比較クセを辞めるために、ひとつ、どうしても覚えておきたいことがある。
それは、

自分の人生で起こることは、全て自分の人生を素晴らしくするべくして起こっている

ということだ。
ハッキリ言って、実際そうなのかは分からない。
しかし、目の前の出来事が絶望の種だと信じることも、希望の種だと信じることも、方向が違うだけでやっていることは同じである。
幸も不幸も思い込みなのだから、幸せな思い込みをして、ハッピーに生きればいい。
わざわざ自分が苦しい生き方を選ぶというのは、いわゆるひとつのアレだ。変態。

「才能ある人との出会いも、愛の無い人の攻撃も、辛い経験も嬉しい経験も、今この瞬間に起こっている出来事全てが自分の人生をもっと良くするために起こっている」ということにする。

最初は言葉だけでもいい。
何年も掛けてせっせと育んできた不幸思考は、1日は2日では抜けない。
まあ、1週間くらいあれば抜けてくるんだけど。

ともかくとりあえずそういうことにして、じっと考えるんである。
その場では辛くても良い。
後から一手間掛ける。

例えば僕は、たまに嫌なヤツに出会うと、自分の周りの人がいかに良い人ばかりなのかということを噛み締めて喜んだりするんである。
そして、そのことに気付かせてくれたのはその嫌なヤツであったと気付くと、やはりこの世は僕のために回っているのだと、ただただ確信を深めるのだ。

この一手間を惜しんで、人は不幸になる。
落ち目の自分という幻想に取り付かれ、自尊心を守るために人との比較に走る。
渦巻く劣等感をひた隠すために過激な攻撃をしたり、自分を傷付けたりする。

この一手間を惜しんではいかんのだ。
根本的に、人はネガティヴなんである。

「今この瞬間に起こっている出来事全てが自分の人生をもっと良くするために起こっている」

というのは、何度も言うが、そういうことにするという意思が必要なんである。
ゴボウも梅もレモンも、そのままではとても食べられなくても、何かしら一手間掛けると美味しくる。

家の庭にゴボウが生えているのなら、いかにそれを美味しく食べるかを考える。
隣の家の庭にトマトが生っていると言って文句を言っていても、ゴボウは美味しくならない。
美味しいゴボウ料理が作れるようになったら、隣のトマトと交換してもらえたりもするのだ。

手を抜かない。
これ、大事。

語尾の曖昧と立場の違い


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僕は本を読むのが大好きだ。
やらなければならないことが大量にあるために本の虫になろう、ということは難しいのだけど、時間さえあれば一日中でも本を構えて暮らしていたい。

読むものも、最近はビジネス書が多いのだけれど、長編小説からライトノベル、エッセイや古典や自己啓発関係など、様々だ。
そういう風に読書を楽しんでいると、ある日ふと気付くことがある。
どうにも、嫌いな作家というが、やはり僕にもいるらしいということだ。

僕が嫌いな作家第1位は、ダントツで脳科学者の茂木健一郎氏である。
予め言っておくと、僕はテレビなどに出演している茂木氏のことは決して嫌いではない。
ところが本になって読み進めてみると、これが実にイライラとするんである。

どうしてだろう?と思いじっと見つめていると、氏の本は「〜と思う」や「〜ではないだろうか」といった、曖昧な語尾を多用していることに気づかれた。
まるで普段の僕のようだ。
これだ!と膝を打った僕は、そこに自信の嗜好のベクトルを見出した。

主義や主張は、間違っていてもいい。
テキストに起こされて、あまつさえ本などという説得力の高い媒体にされる文章なのだから、断定して欲しいんである。

語尾がぼやけると、主張がぼやける。
結論の輪郭が曖昧になれば、ここで立場の違う人からの反論を受けづらくなるかもしれない。
しかし、僕にとって読書というのは、本の表面上の情報だけではなく著者の人となりや人生観や価値観を想像しながら楽しむものであるから、あるいは、自分にとって必要な情報のみを拾い上げる作業であるから、曖昧な語尾で輪郭を崩されると、これが実に受け取りづらいんである。

・・・例えば今回の僕の主張も、

「語尾を曖昧にすると、受け取る人にとって、なんだかハッキリしないものになってしまうかもしれません」

などと言っていては、実に説得力のない情けない文章になってしまう。

だから、僕個人としては断定的な文章を愛するし、自分でもそのような文章を心がけている。
批判が怖くないのかと言われることもあるが、そもそもテキストというのは万能ではない。

そのことも分からず、著者と自分の立場の違いも理解せず、日々のフラストレーションを発散する機会として振るわれる批判など、相手にするだけ時間の無駄である。
このロクでもない批判を恐れて、一体どれだけの人が本来の実力を発揮せずに死んでいくか分からない。

何かを主張して批判されるのは怖いかもしれない。
しかし、主張をしないでおいたところで、その批判人が自分を養ってくれる訳でも、応援してくれる訳でもない。
彼らは批判の対象を躍起になって探しているだけなのだ。

という訳で僕の主張は以上なのだけど、それもまあ茂木氏のあの文体が好きな人がいるということも十分に理解している。
でなければ、大勢の人が関わる本という媒体(出版の敷居は低くなっているという噂だけど)で発売されるようなことはないだろう。
もちろん、茂木氏の知名度とか、そういうのはあるだろうけれど。

もしかしたら、僕もこの記事で何らかの反論を受けるかもしれない。
しかし、それはもしかしたら僕とあなたの立場の違いや、あなた自身の中に日頃の鬱憤的何某が溜まっているだけかもしれない。
それは本来、別の場所で決着を付けておいた方がいいことだと思う。
だから最後くらいは茂木氏に習い、曖昧な語尾で主張の輪郭をぼかして逃げ出そうと思うのだけど、これで本当に批判を回避できるかどうか分からないかもしれない。

努力が報われないのは正しい生き方をしてるから。


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終始怒鳴り続けていたその男は、全力を上げて自分に都合の良い世界を求めていた。
似たような話しを繰り返すな、そんな話しはどうでもいい、馬鹿にしてるのか。
男の周りの人は皆辟易として、もう疲れた顔もせずに、ただ粛々と嵐が通り過ぎるのを待っているように見えた。

「引き寄せの法則」というものを聞いたことがあるだろうか。
ナポレオン・ヒル的に言うと「思考は具現化する」という法則である。
よくスピリチュアルな表現で語られることが多いので嫌う人が多いのだけど、僕は希望を持って信じている。

怒り、怒鳴り、騒ぎ散らしていたあの男は、一体何を引き寄せていたのか。
それは、「劣等感を刺激する出来事」である。

自信が無い時、人は大きな声を出し、言葉数が増える。
それは目の前の出来事や人物と相対する勇気がなく、大騒ぎをすることでその不安や自信の無さを誤魔化そうとするからだ。

ただそんなことをされても、それが仕事であったなら、伝えなければならないことは伝えなければならないから、周りの人間はウンザリした顔で言葉を投げる。
そうすると劣等感レーダーが異常に過敏な者は、「ウンザリした顔」だけは敏感に感じ取って、さらに騒ぐ。

劣等感を誤魔化すための騒ぎが、より自分の劣等感を刺激するような出来事を生み出す。
それを感じ取ってさらに大騒ぎをすると、本当に大切なことを聞き逃し、さらにさらに劣等感に響くような出来事に繋がっていく。
こうやって、人の話しが聞けず、中身の無い主張しかできず、人に構ってもらえない、寂しい人生が出来上がる。

実は、僕はこの件で大変なダメージを受けた。
周りの人は上手く流せていたのに、僕だけが実に大きく心をかき乱されたのだ。

それまで仕事で関わる全ての人に「愛してるよ!」という掛け声を心の中で叫んでいた僕は、愛だの何だの言っていても、愛を与えるに値しない者もいるのだと、そう言って拗ねたくなった。

生きていると、こういったことが度々起こる。
僕はこれを「神様の試験」だと思っている。

「お前は、愛で生きるのね。あ、結構本気なのね。それじゃあ、こういう人もいるんだけど、どうする?」

こんな塩梅で、ポンと試験が降りてくる。
突然に、唐突にやってくる。

人によっては、これを見て「俺は努力しても報われねえんだよ」と言って腐ってしまう。
実際僕も腐っていたことがある。

そして、腐ると、遅かれ早かれ「やり直し」を食らう。
それは「退職」だったり、「病気」だったり、「何かの破綻」だったり、まあ色々な形で、

「ん〜、やっぱりもうちょっとここやり直そうか」

という感じで、やってくる。

だから何かが起こったら、この問題は、試験なのだと思う。
自分が新しいステージに行くための、乗り越えるべき課題なのだと考える。

試験だから、そこには必ず「問い」がある。
試験をクリアする第1ステップは、その「問い」が何であるかを見抜くことだ。

僕は、胃袋を締め上げる感情を上手く処理できないまま、暫く悶々として歩き回っていた。
そのうちに一人ではどうにもできないことを悟り、恐る恐る彼女様に話しを聞いてもらった(このツケがどれほど高くつくかを想像すると胃が痛くなる)。

するとどうだ。
まるで風穴でも空いたように毒気はするすると解れていって、終いには随分と有難い気付きに辿り着いていた。

実は僕は数日前、あるインタビュー動画の編集中に、「僕どうしてこんなに無駄なこと沢山喋ってるんだろう」という疑問にぶつかっていた。
そう、先ほどの「劣等感」の話しが、自分の中に繋がったんである。

あの不憫な男は、僕の写し鏡であったのだ。
その場に居合わせた多くの人のうち僕一人が大きく心を乱されていたのは、その男が僕のために登場した、「試験」そのものだったからである。

それまでぼんやりとしていた「問題」の輪郭が、とても鮮明になってきた。
同時に、そんな僕にライトを当てようとしてくれていた仲間達への感謝が、後から後から湧いて止まらなくなった。

具体的に何ができるのかは、まだ分からない。
ただ僕の劣等感の原因が何であれ、次に自分が言葉で壁を作ろうとした時に、「いいんだよ」と自分に言ってやれる、それだけで大きな成長である。

努力は報われる。
ただし、「報われているのだ」という確信を持つ必要がある。
「報われている理由」は、自分で勝手に決めてしまえばいい。

努力は報われない。
ただし、「報われないのだ」という確信を持つ必要がある。
「報われない理由」は、やはり自分が勝手に決めているものだ。

神様の試験は、今日も誰かの身に降りてきている。
もしかしたら、君の身に降りてきているかもしれない。

大変だと思う。
それまでの自分を否定されるような気持ちになるかもしれない。
もう何もかも嫌になって、投げ出したくなるかもしれない。

だけど、負けない。
「まいった」をしない。


人の力も借りて、自分の心と向き合って、まずは解くべき「問題」を見定める。
見つけたら一点集中して、その「問題」と向き合う。

今回の件で、僕は「愛の人」になる決意と確信をさらに深めた。
試験に合格した後には、驚くほど清々しい朝がやってくる。

あの男のことは、ひっくり返ったって好きにはなれない。
もう二度と会いたくもない。
しかし、あの男が居なければ、僕は今日の決意と確信を抱くには到底至らなかったに違いない。

人生とは、僕たちが思っている以上に、バラ色なんである。
不安になる必要はひとつも無い。
不安があるとすれば、今回彼女様に話しを聞いてもらったツケが、今後どれほどに利息を重ねて膨れ上がるのかということぐらいだ。
ある日僕が突然痩せ衰え朝も夜もなく働き始めたら、取り立てが始まったのだと思ってもらって間違いない。

脳と世界のただならぬ関係〜美女よ来れ〜


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ドラマーとヴォーカリストでは、同じ曲を聴いていても全く違う聴き方をしている。
ドラマーはドラムをよく聴いているだろうし、ドラムに絡む要素をよく聴いている。
ヴォーカリストは歌と、それに絡む要素をよく聴いている。

何に興味があるのか。
何に楽しみや気持ち良さを感じるのか。
何を見つけようとしているのかで、音楽ひとつの聴き方も異なってくる。

人は常々常在的に自分が望むものに無意識にフォーカスを合わせて生きている。
分かりやすいのは仕事関係のもので、例えば僕はケータイ屋をやっていた時は、街を歩けば販売店や展示の仕方、接客やカタログの情報など、色々なものが気になって、目に入ってきていた。
それはつまり、「僕はケータイ屋だから」という自覚の上で、自分にとって「当たり前」の情報を選び取っていたということだ。

「幸せ」と「不幸せ」にも同じことが言える。

自分が「幸せ」だという自覚の上で生きている人は、自分にとって「当たり前」の情報、つまり、「自分が幸せな理由」をこの世界から切り取る。
自分が「不幸せ」だと自覚している人は、その逆をしているということだ。

カウンセリング業界や自己啓発の業界では「今この瞬間にあなたは幸せ」というフレーズを連呼するのだが、それはつまり、「自覚の矯正」、あるいは「ポジティブな自己洗脳」をしているということである。
脳科学者の茂木健一氏は、これを「脳を騙す」と言った。
メンタリストのDaigo氏が「認知的不協和」という言葉を流行らせたことがあったが、まあどれも同じことだ。

何度も繰り返し「自分は幸せだ」と口に出したり紙に書き出したりしていると、我々の脳は「幸せの理由」を探さざるをえなくなる。
脳は、そういう風にできている。
そういう役割を持った内臓なんである。

脳というのは僕たちが思っている以上にシンプルなのだ。
一流のスポーツ選手は試合前に自分が勝利するイメージトレーニングをやりまくる。
ボクシングの選手に大口を叩く人が多いのも、同じ理由からだ。

言葉を繰り返すことによって脳に「自覚」を植え込む。
どのような「自覚」を持っているかで、僕たちの世界は喜劇にもなるし、悲劇にもなるんである。

僕は楽しくハッピーに生きていたい。
ということは、「楽しくてハッピー」という「自覚」を持つにはどうすればいいのか、考えてやればいい。

やることは簡単だ。
ことあるごとに「楽しくてハッピー」と言えばいい。
「楽しくてハッピー」のハードルを、極限まで下げればいい。
そして、出来る限り「楽しくてハッピー」のハードルが低い人たちと一緒に居ればいい。
そうすることで、「そうか、これも楽しくてハッピーなのか」という発見があるからだ。

これさえ出来れば、僕たちはハッピーの達人になれる。
望むものが手に入るというのは、こういうメカニズムなんである。

ただ、なぜだろう。
これほど求め望んでいるにも関わらず、僕を養ってくれる優しくて働き者の絶世の美女は、未だに現れない。

「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」という質問に答えていない全ての人に。


steve-jobs


いかにして楽をしようか。
いかにして手を抜こうか。
いかにして少ない負担と労力と責任で給料を貰おうか。

これが、サラリーマン時代の僕が常々考えていたことだった。
実際は、ここまで明確に言葉に出来ていた訳ではない。
手を抜きたがる自分が嫌いだったから、目に見えない事実を受け入れたくなかったということもあって、これらの考えは深度15センチほどのまさに表面化を、僕のボートの舵を狂わせながら、じっとりと漏れ出した石油のように漂っていた。

「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」

という風な、いわゆる「究極の質問」というものがある。
多くの人が聞いたことがあるだろう。
そしてそのうちの80〜90%ほどの人が、「知ってるけど、そんなことを考えてもねえ」と思っているだろう。

隠さなくてもいい。
僕もそうだったのだ。
スティーブ・ジョブズが毎朝鏡に向かって「今日が人生最後の日だったら、今日のスケジュールをこなすだろうか」という質問をしていた、という話しを聞いても、「そういうことをやってるんだ〜」程度のことで、実際に自分でやってみることはなかった。

いや、本当はやってみなかった訳じゃあない。
ただ、普段から自分のことを見ないように、考えないようにする癖が付いていたから、ちょっと考えようとしても、面倒臭くてやめてしまったのだ。
そしてそんな自分も許せなかったから、「知ってるけど、そんなことを考えてもねえ」という言葉を使って、他のロクでもない思考と同じように、押入れの中に放り込んで隠していた。

人というのは、そもそも大変な怠け者である。
「半年後に死ぬとしたら、今日何をする」と考えることは、実際に全神経を集中させることができれば、15分から20分もあれば十分に出来てしまう。
カウンセリングを受ける訳ではないから、お金も掛からないし手間も掛からない。

では、なぜたったそれだけのことをしないのか。
答えは、「面倒臭いから」だ。

信じられないとか、効果の保証ができないとか、そういうことは全て後から付いてくる言い訳に過ぎない。
戦争を吹っかけるような国は、平和的外交よりも武力行使の方が楽だからそうしているのだ。
言葉を尽くし礼を尽くすより、横っ面を叩き伏せた方が、頭使わないでいいから楽なんである。

社会でも、知的労働者と肉体労働者では、賃金に格差がある。
頭を使うことは、体を使うことよりも不可が大きいのだ。
肉体労働者がいけない訳ではない。
ただ、頭を使おうという人がどれほど希少なのかということが、こういうところからも見て取れるということだ。

それと同じように、「半年後に死ぬとしたら、今日何をする」ということを考えるよりも、「こんな自分嫌だなあ」とか、「俺のことを受け入れてくれない社会だよ」と不貞腐れて拗ねている方が、楽なんである。

こういうことを言うと、「やっぱり俺はダメなヤツなんだな」と、懲りずに不貞腐れを上塗りする者がいる。
それがもう、いいようにされているんである。
誰にって、そりゃあんた、「脳」に決まってるでしょう。

手を抜きたがったり、楽をしたがったりするのは、人の脳に備わったデフォルトの機能のようなものだ。
孫正義の脳にも鬱で死にそうな顔してる人の脳にも、同じ機能が搭載されている。
では何が違うのかというと、脳に支配されているか、脳を支配しているか、というところが違う。

鬱になって潰れる人は、「面倒臭いこと」「痛み」自分に「不都合」のある全てのことを避けようとするから、八方塞がりの路地に迷い込んでうずくまるしかなくなる。
成功への道を駆け上がる人は、「面倒臭いこと」「痛み」「不都合」こそが、自分の進むべき方向を照らす導であることを知っているから、それらをどんどんと引き受ける。

感じる不安や、ザワザワとした感覚は、同じだ。
不安を拒むことで自分の身を守っているような感覚にもなるが、結局のところ、不安を受け入れた方が、身も心もしっかり守れるんである。

面倒臭いことをしてみる。
痛みを引き受けてみる。
不都合を許してみる。

一言で言うと、「やりたくないことをやってみる。」。
手始めに、「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」という質問に、全力で答えてみたらどうだろう。