鉄の精神のささみカツ定食

僕は自制心にあふれた男だ。
自らの中から溢れてくる欲求を退け、全体を俯瞰した大きな視点で生きている。

先日も出先で入った定食屋で、痩せたいという欲求を退けてささみカツ定食を平らげた。
衣とソースと白米の織りなすハーモニーが実に心地よい。
カウンターの奥のおばちゃんも満足げである。
俯瞰した視点で生きるというのは、あらゆる物事を正しく導いてくれるのだ(腹が出てくるという事象を除く)。

やりたいことをする、というのは、勇気が要るものだ。
例えば僕たちのような歌うたいは、常に「誰かに笑われる」というリスクを背負っている。

打って出るというのはそういうことだ。
多くの人の前に打って出て何かをしようとすると、あるいは、多くの人の前に打って出なくても、「そうすることで人から笑われる/バカにされるのではないか」といった悪しき想像が、僕たちの心と体を締め上げるものだ。

ささみカツ定食を食べきると、腹が出る。
オフィスワーカーにとって定食屋のメニューは明らかに栄養過多だ。

しかし、食べたいから食べる。
「腹が出る」というリスクは「食べて幸せ」とセットであるから、受け入れる。

かっちょ悪いのは、「腹が出るから嫌だなぁ」と言いながらささみカツ定食を食べきることだ。
そんなことを言っていたら締められて揚げられたトリだって、素直に栄養になってやろうなどと思ってはくれまい。
どうせ食べるのなら、ドキドキしていてもいいから、「食べて幸せ」にもっとフォーカスすべきだ。

痩せたい欲求に打ち勝ち続けた結果、僕は鉄の意志を手に入れた。
よほどのことがない限り、もはや僕は痩せたい欲求に負けることはないだろう。
米のツヤ、カツの歯ごたえ、味噌汁の味わいに見事にフォーカスし、まさしく幸せを噛み締めて生きている。

ところが先日彼女様が僕の腹を見てこう言った。

「食べたい欲求に負けすぎとちゃうか。」

発送の転換とはまさにこのことだ。
目から鱗がボロボロと落ちていく。

そう言われてしまってはしかたあるまい。
今度から僕は食べたい欲求に打ち勝つ鉄の精神を持てば良い。

しかしなぜだろう、全く勝てる気がしないのは。

何する訳でもなき日の祝福。


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土日に少し時間ができたので、和歌山の実家に一泊帰省をしていた。
両親もじーちゃんも猫のカイちゃんも健在で、実に安心した。

僕の地元はメインストリートの十字路に信号もないようなど田舎だ。
地域住民はモラルとアイコンタクトで角を攻める。

我が家はそんなメインストリートから200メートルほど山の中に入っていったところにある。
窓を全開にして寝転がれば水と稲の間を泳いできた風がカエルの鳴き声や木々のさざめきを連れてやってきて、僕を優しく撫でてくれる。
ただそこに居るだけで心が静かになり、余計なものが落ちていく。

雨の合間に曇天を見上げていると、白くて大きな鳥が二羽、連れ添って飛んで行った。
隣りに居たじーちゃんが、

「あの鳥が本流の川からこっちゃの細い川に来るから、魚が随分減ったど」

と言う。
確かに、広い川よりずっと漁がしやすいだろうと返すと、

「うぇあからっちゃらあぁぁょお」

と返ってきた。
一か八かで大きく頷くと、じーちゃんも満足そうに頷いた。
今回は僕の勝ちだ。

街で生きていると、そこにはたくさんの雑音がある。
いやきっと、田舎に生きていても、その雑音は聞こえてくるのだろう。

僕らはどうしたって過敏だから、その雑音の中から悲しい音や辛い音を拾ってしまう。
ただ、極端な環境を往復していると、その雑音は実は外から聞こえてきているのではなく、自分の中で鳴っているものなのだと気付く。

当然、いかに田舎の環境が素晴らしくても、親父が酒を飲むと暴れるとか、母親がガミガミうるさいとか、そういうのでは今ひとつピンとこなかったかもしれない。
しかし幸いなことに、僕の両親やじーちゃんや猫のカイちゃんは僕のことを笑顔で歓迎してくれるのだ(一部、ペディグリーチャムを要する者がいる)。

こんな幸せなことはない。

窓を全開にして、カーペットの上に枕だけだして、そこで昼寝をする。
生まれてこの方見上げつづけてきた天井がそこにあって、ぼんやり眺めてウトウトしているとため息が出るような至福が押し寄せてくる。
あまりに気持ちよくて、そのうちに自分と自分以外の境界線が曖昧になってくると、今度は感謝の気持ちが止めどなく湧いてくる。

そしてまた、この瞬間が永遠でないことも感じる。

既に僕は何人も家族を見送ってきた。
僕自身が子供から大人になるというプロセスも経てきた。

それは、僕たちの家族が生きていることの証である。
死の天使はいつでも、今この瞬間の幸福に感謝せよと、僕たちに語りかけてくれるのだ。

戻ってきた大阪は、雑然としていて狭苦しい。

だけど、僕は知っている。
この雑然とした狭苦しさは、僕の中にあるものだ。
本当なら今この瞬間に、家族や自然との繋がりを感じることだってできるのだ。

母が持たせてくれた弁当を食べていたら、ふとそんなことを思った。
出かけるまでまだ少し時間がある。
後で枕を持ってきて、事務所の床に寝転んでみよう。

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大根で釘を打つ人


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「ずっと大根で釘を打ち続けているのだけど、うまくいかない。
 なんとかしてもっと楽に上手くやりたいのだけど、大根以外の道具は使いたくない。」


こういう人が本当に、本当に山ほどいる。
僕は仲間の音楽活動のやり方にアドバイスをしたりすることがあるのだけど、その時にちょうどこのような話しになるのだ。

大根で釘は打てない。
カナヅチを使えばよろしい。

しかし、カナヅチを使うと指を叩いて怪我をするかもしれない。
あるいは、角度を間違えて釘が曲がるかもしれない。
っていうか、他の人はみんなカナヅチを使ってるんだから、自分は個性のために同じものは使いたくない。

という訳で、その人は変わらず、釘は打ち込めず、辺りは大根の欠片と汁にまみれる。

それは山本の教え方に問題があるのではないかという指摘の声が聞こえてきそうだ。
当然、問題はある。
しかしそもそも、大根を手放す気のない人には、知識以上の何かを注ぐことができないのだ。

変化する覚悟を持った人は、1の言葉を10にする。
変化を拒む人は、10の言葉を0にする。
大根を冷凍してみようとか、釘との間になにかを挟んでみようとか、そういう話しを求める。

しかし、答えは「カナヅチを使おう」なのだ。

人に、人を変える力は無い。
皆無である。
しかし、自分が認識する世界を変える力は無限に備わっている。

どうすれば大根を手放し、カナヅチを受け入れられるのか。
それは、1度カナヅチを使ってみることだ。

当然、上手くいかない。
大根とカナヅチでは、使用感も手触りもよっぽど異なる。
釘は曲がるだろうし、指を叩いて怪我をすることもある。

しかし、釘は進む。

少し練習して上手くなってくると、それが当たり前になる。
そうして初めて、「美しい釘の打ち方」という段階の話しができるのだ。

僕に人を変える力は無い。
音楽にも、人を変える力など無い。

君の中に君が変わる力があるのだ。
君の中に、音楽から力を生み出す心があるのだ。

日本の神道では、あらゆるものの中に神が宿ると言う。
「あらゆるもの」に神が宿るのだから、「君」にも神が宿っているということになる。

神社の本堂には殆どの場合鏡が置かれている。
賽銭を入れてガラガラとやって、手を合わせて感謝と願いを託して、目を開けるとそこには鏡に映った自分の姿がある。

「君」が「神」なのだ。
「神」なのだから、「何でも」できるのだ。
「何でも」できるのだから、「大根を手放してカナヅチを使う」ことだってできるのだ。

そのことに気付くだけなんである。
ボロボロの大根を何本も使って疲れ果てる必要はない。
大根のストックが無くなったからといって次の収穫の時期まで待つ必要もない。
打てど進まぬ釘を見て「自分には才能がない」などと愉快なことを言う必要もない。

もちろん、「大根で釘を打つ」ことも、「何でも」の中に含まれる。
しかし、それで上手くいかないから、今しんどいのだ。
「何でも」できるのに「やり方を変えたくない」というのだから、それはその人の考え方の問題なんである。

君の鏡に映るのは、いつだって君自身だろう。
君以外の人には、君を変えることはできないのだ。

僕はいつでも、「カナヅチを持とう」という歌を歌っている。
何か相談されると、やはり「カナヅチを持とう」というアドバイスをする。

飛び散った汁が目に入って、随分と痛そうじゃないか。
1度カナヅチを使ってみたら、どうだろうか。

無意識のポケットにポテトチップスみかん味。


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先日彼女様がコイケヤのポテトチップスみかん味なるものを買ってきた。
「優作にも食べさせてあげたいと思って」などと言いつつ、既に封の空いた袋を差し出してくる。
死ぬほど不味いか、毒が盛られているか、二つに一つだ。

恐る恐る手を伸ばしてひとつ口に含めてみると、塩気とイモの微かな香りの手前で微妙な柑橘の香りが待ち構えていて、それが咀嚼を終えて飲み込んでもしばらくの間舌の付け根でランバダを踊り続ける。
顔をしかめて嗚咽を漏らしていると、彼女様は実に満足げに微笑んでこう言った。

「胸焼けがするであろう」

負けると分かっていても戦わねばならない時がある。
いかな危機的状況においても冷静さを失わず、泥水を飲む覚悟を決めておくのが、紳士の嗜みである。
泥水を飲まなければ、泥団子を食べさせられるのだ。

今年に入ってから新しいことを大量に始める機会に恵まれている。
仕事もプライベートも、去年の年末とは随分と変わってきたものだ。

変化するのだから、当然そこには戸惑いや不安が付きまとう。
我が家にモモンガがやってくることになった時などは逡巡する間も与えられなかったのだが、普通は多少迷う程度の時間はあるものだ。

そこで迷わず変化を受け入れることが真髄であると知った。
新しい仕事、新しい試み、新しい生活・・・これらは実に激しく僕たちの不安を煽ってくる。
しかし、あらゆる物事というのは何らかの理由で起こるものだ。
仮に目の前の出来事が全て自分の人生のために起こっているのだとしたら、それがどれほど困難でもポケットに入れて歩いていくのだ。

その時、今までポケットに入れていた宝物をひとつ、捨てなければならない。
それがどうにも、辛いんである。

それでも、辛くても、捨てる。
拾って捨ててを繰り返す。
僕たちのポケットには、「ひとつのもの」しか入らない。

使わなくなったものは捨てる。
要らなくなったものは捨てる。
古くなったものは捨てる。
常に「ひとつのもの」が最新であるように努める。

とは言っても、そもそも人は一度見聞きしたもの、魂に刻んだ物事というのは、決して失わない。
仕事でも、覚え始めの頃は色々なことを意識しながらでなければこなせないが、そのうち何も考えなくてもある程度の作業ができるようになる。
僕たちのポケットの奥には無意識のポケットがもうひとつあって、そこまで入っていった物事というのは、絶対に失くすことがないんである。

胸焼けにうなされていると、彼女様が「他にも桃味とか売ってたよ」と言う。
僕は丁重にお断りして、冷蔵庫の中のコーラゼロをぐぐーっと飲み込んだ。

無意識のポケットにまたひとつ、余計なものが落ちてくる音が聞こえた。

マリオとモモンガとイケメンの苦難の道。


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同じパターンを繰り返すのは実に心地よい。
子供の頃スーパーマリオの得意なステージを延々とプレイし続けたことがあるのだけど、一つの流れの中で同じ作業をベストなタイミングで繰り返すというのは、他では味わえない絶妙な快感を連れている。
そういった繰り返しが高じて僕らは技術を磨いたり、得意なものを身に付けたりしてゆくものだ。

ところが、同じパターンだけを繰り返し続けていると、いずれ限界がくる。
マリオの目的はピーチ姫を救い出すことであって、フリーランのエキスパートになることではない。
キノコ城のガバガバなセキュリティ環境や危機管理体制についても検討の余地があるのだから、配管工の仕事をしている場合でもない。
ひとつのステージをクリアしたら、次のステージをクリアしないと、ヒゲのオヤジやヒゲのジジイとなり、桃の姫もいずれババアになってしまう。
亀だけが、万年生きて元気だ。

姫を助けるためには、水中ステージが苦手でも、水中ステージを超えていかなければならない。
勝手に画面がスクロールしていくステージが嫌いでも、超えていかなければならない。
「姫を助けない」という選択をすることもできるが、その後に残るのは「スーパーマリオがクリアできなかった」という事実のみだ。

自分がやりたいと感じたことに向かう道中で出会う苦労や苦難は、やりたくないことに耐える苦労や我慢とは、全く異質なものだ。
挑んでいる間は辛いかもしれないが、その次には必ず達成感や進行の喜びがある。

コーラは、あのとんでもない量の砂糖が入っているから甘くておいしいのだ。
美味しさは欲しいけど砂糖は要らないというと、とんでもない量の人工甘味料が入ったコーラ・ゼロがやってくる。

都合の良いことと悪いことというのは、常にセットでやってくるのだ。
新しく彼女ができたら、その彼女の過去や家族がセットでついてくるようなものだ。
ケータイを買ったら、月々の支払いが付いてくるのと同じことだ。

願いがあって、期待があって、それを叶えたい。
だけど、苦労も苦難もごめんこうむる。

そういったことを言っていると、人工甘味料たっぷりのアヤシイコーラが出てくるんである。
それを飲んで、「美味しくない」などと文句を言ってみたり、「結局人工甘味料ってヤバいんだよね」なんて言っているのが、僕たちだ。
もう何がしたいのかサッパリ分からない。

大量の砂糖を引き受けてみることだ。
飲んで、太ってしまえばいい。
そうすれば少なくとも、甘くておいしいコーラが飲みたいという願いは叶う。

コーラが良いという意味ではない。
コーラ・ゼロが悪いという意味でもない。

コーラが飲みたいのなら、飲めばいい。
大量の砂糖を引き受ければ良いのだ。

同じパターンを繰り返すことは心地よい。
しかし、コーラ・ゼロを選び文句を言い続けることが「いつもと同じパターン」になっているのなら、苦手で嫌いな水中ステージのように、不安で不快なものを引き受けなければならない。
少なくとも、コーラ・ゼロを飲みながら文句を言い続ける未来より、コーラを「美味しい」と言いながら飲み続ける未来の方が、よほど健全で健康的である。

先日僕の事務所で飼っているモモンガのきゃしーに食事制限が言い渡された。
食事の量は1日25グラム。
種のような種子系は1粒までなのだそうだ。

これまで日がな食べ続けていたきゃしーにとっては、苦難の日々である。
自分がゲージの中で飼われるモモンガでなくて良かったと胸をなで下ろしていると、ある日彼女様が僕のおやつにと持ってきた松の実の袋に、このようなメモが書かれていた。

・ゆうさく→1日10個
・きゃしー→1日1個


遥か遠い苦難の道に、地雷地帯とか有刺鉄線とか猛獣地帯とか、そういうものがゴロゴロ転がって見えた。

人生に要らないものがあるとしたら、そりゃ「夢と目標」ですよ。


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夢や目標がなけれなならないと思っている人が非常に多い。
ところが、夢や目標は、無い方がいい。
下手な夢や目標を抱いてしまうと、生き方が偏ってしまうからだ。

僕の高校時代の友人で「不労所得を得て死ぬまで美女のおっぱいの間で酸欠を起こし続ける」という夢を抱いていた友人は、卒業と同時に音信不通になっている。
彼の夢が叶ったかどうかは分からないが、少なくとも酸欠は起こしている可能性が高い。

ところで、夢や目標というのは実は「便利な道具」でしかない。
心震え、魂が燃え上がり、腹の底から気力を生み出してくれる実に「便利な道具」である。
つまり、心震え、魂が燃え上がり、腹の底から気力を生み出してくれる他のものがあれば、夢や目標なんてものはひとつも要らないんである。

ところが、「夢や目標がない」ということで、僕たちはすっかり捻くれてしまう。
テレビや漫画では夢や目標を持った成功者や主人公が、実に壮大でドラマティックな人生を歩んでいるからだ。
まるで夢や目標があることが、人生を素晴らしく生きるための唯一の手段であるかのように語られている。

しかし実際のところ、大人になっても夢や目標が無い人が大多数だ。
おかしいではないか。
夢や目標を持つことが人としての至上であるのなら、どうして眠くなったら眠るように、腹が減ったら食事をするように、生きて行く過程で夢や目標を抱かないのだろうか。

夢や目標は、決して人に必要なものではないのだ。

目の前に置かれているテレビゲームが、心震わせ、魂が燃え上がらし、腹の底から気力を生み出してくれるのなら、すればいい。
カロリーとコレステロールの塊のような食べ物が心震わせ、魂が燃え上がらし、腹の底から気力を生み出してくれるのなら、食べればいい。

大切なことは、唯一忘れてはならないのは、君の心が震え、魂が燃え上がり、腹の底から気力が生み出されることだ。
手段や方法は、何でもいい。
人に迷惑を掛けたってかまわない。

夢や目標を美化し過ぎた商業に振り回されないでいたい。
夢も目標も要らない。
今日、今この瞬間に、自分が楽しくなることや気力が湧いてくることに、時間とお金を割くべきだ。

仕事が終わってモモンガと戯れる彼女様に聞いてみた。

僕「彼女様の将来の夢って何ですか」

彼女様「かわいい小型犬とかわいい中型犬とかわいい大型犬とかわいい綾野剛に囲まれて死ぬことです」

僕「頑張ってください」

下手な夢や目標は、どうだろう、まあ、何でもええわ。

音楽家は神の五線譜に触れて消える。


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スポーツなどで集中力が最大に高まった瞬間に世界が静寂に包まれて自分の周りや自分自身が完全にコントロールできるようになることを「ゾーンに入る」と言う。
信頼できるソース(黒子のバスケ)からの情報であるから、おそらくそういうものは確実にあるのだろう。
実際僕自身も空手やテニスといったスポーツの中で、そういった感覚を掴んだことが何度かある。

ところが、圧倒的にこの感覚を掴み取れるものが他にある。
音楽である。

慣れ親しんだ曲を息をするように、その時その場の感情はムードを一切拒まずに演奏し始めると、それはまさに中空に浮かぶ譜面を我が身に降ろしているような感覚になる瞬間があるんである。
「この歌詞はこうだから、こう歌わなければならない」だとか、「このブレイクはこうだから、こうキメないとつまんない」とか、そいういう「思考」を一切置き去りにした場所で、実に静かで力強い音楽が鳴り響いている。

周りの人にどう聴こえているのかは分からないが、そうしている時がミュージシャンとして至高の瞬間である。

僕は、もう知ってもらえていると思うのだけど、言葉を扱うのが好きである。
それは文章であれ話し言葉であれ、同じことだ。
人は言葉によって形作られ、言葉によって生きている。
言葉こそ、人の人たる所以であるとさえ思う。

しかし、神の五線譜に触れた瞬間に、人の人たる重要性というのは、実にあっけなく忘れさられる。
歌っているのだから、そこには言葉がある。
しかし、(あくまで僕個人の感覚だけど)本当に音楽に没頭できた瞬間に、口から出て行く言葉はその意味を失う。
それは実に空っぽな、中立的な、明も暗もなく、ただ重心にそっと乗せられて倒れない石のアーチのように、ただただ美しくバランスをとり続けるだけである。

そして、その意味を失った言葉にこそ、意味がある。
それは僕の意思や思考を乗せている時よりも遥かに柔軟に人の胸に滑り込み、新しい形に生まれ変わる。

意味がないからこそ
中立であるからこそ
「愛している」という言葉そのものには意味が無いのと同じように
「愛している」と言う人の中にこそ意味が存在するように

それは僕の僕たる重要性を失うことで、誰かの誰かたる重要性に成りえる・・・とまあ教養のあるようなことを言ってみたが、つまり簡単に言うと、フラットだからいかようにも取れるニュアンスの歌になるのだよワトソン君、ということね。
プレーンなお好み焼きを出しているようなもんである。
ソースやマヨネーズは、自分でお好みの味にしてね、ということだ。

どうしてもソースやマヨネーズに拘りたくなるのだけど、実はみんな好みの調味料を既にもう持っている。
僕は僕自身から「意味」や「思考」と取り除くことで、その人が一番自分好みの味に仕上げられるプレーンなお好み焼きを提供することが、どうやら正解ではないかと睨んでいる。

修練とは、得るための行為ではない。
捨てるための行為だ。

自分が自分だと思っているモノを全て捨てたその先に、本当の自分が居るのだろう。
会いに行かなくちゃあ。

モモンガと事務所で蚊帳の外。


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〜前回までのあらすじ。
毎日を一生懸命生きていたらモモンガを飼うことになったのだった。〜

彼女様「うわ見てキャシーかわいい。あ、ほら、めっちゃかわいい!うわぁ・・・これ可愛いなぁ・・・」

論理的思考力の一切を失ったその女は、締め切りに追われ頭を掻き毟りつつ慣れない仕事をこなすイケメンがまるでこの世界のどこにも居ないような振る舞いでもって、事務所の隅にやってきた同居人をうっとりと眺め、あるいはぎゃあぎゃあと喜んでいた。

前回の記事の後、僕は本当に彼女様に連れ出され、慣れない土地の知らないドックカフェに行き、カモモンガを一匹引き取ることになった。
シンプルな部屋でスマートに無駄なく上質エレガントに働き、未来の音楽業界の当たり前をつるく場所。
そんな理想を思い描いて借りた事務所の一角から、動物園のような香りがする。

僕「展開が早すぎて付いていけません」

彼女様「義務教育は終わってるからな。後は実力勝負や」

僕「小学校でも中学校でも突然モモンガがやってきた時の対処の仕方は教えてくれなかったよ」

彼女様「田舎やからな、お前の地元。ポケモンとか1週間遅れで放送されてたやろ」

僕「何にしてももう手遅れなんだけどね」

彼女様「ああきゃしーかわいいよきゃしー」

こうして僕とモモンガと時々彼女様の不可解な同居生活が始まった。
キャシーは女の子だ。種類はアメリカモモンガというらしい。
日本でモモンガと言えばフクロモモンガという有袋類を指すらしいが、アメリカモモンガはげっ歯類。
つまり、リスやネズミの仲間である。

飼い方も随分違うようで、頭の中がモモンガ一色になった彼女様がとんでもない勢いで調べたものの、フクロモモンガよりも圧倒的に情報が少なく、日本ではマイナーな生き物らしい。

彼女様「全然情報ないねん」

僕「また随分なもの引き受けたよね」

彼女様「お前そんなんゆーて飼い主としての自覚はあんのか」

僕「自覚を持つ暇とかなかったのよ」

彼女様「まーでも、ペットショップのお兄さんに聞いたら、今の1日中ヒマワリの種を食べてる状況は、ガリガリガリクソンが1日中ポテチ食ってるようなもんだって言ってたから、それはやめよう」

僕「随分なこと言うなお兄さん。分かりやすいけど」

彼女様「あと、運動させます」

僕「散歩とか行くの?」

彼女様「そんなことしたらどこに滑空していくか分からん」

僕「部屋の中?やめてよ、モモンガってトイレ覚えないんでしょ」

彼女様「そんな時のためにこんなものを用意しました」

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僕「気絶するかと思いました」

彼女様「素晴らしいアイデアやろ」

僕「失ったものが多すぎるけどね。写真の奥の扉とか、どうやって開けたらいいんですか」

彼女様「キャシーの幸せのためでしょうが!」

僕「僕の幸せが踏みにじられています」

自分が家賃を払っている部屋なのに蚊帳の外に追いやられた僕は窓際で、それでも容赦なく迫り来る仕事の締め切りに向かって、11インチのMacBookの画面に映し出される極小のエクセルに立ち向かっていた。

彼女様はひとしきりキャシーと遊ぶとゲージの汚物を掃除し、翌朝ブロッコリーとリンゴをカットして与えるよう僕に指示を出して帰っていった。
取り残された僕は蚊帳を片付けてゲージを階段の下に収め、鼻をヒクヒクとさせながらヒマワリの種を探し続けるモモンガを見つめた。

僕「騒がしいけど、大事にしてくれる人でよかったじゃないか」

そんなことを言いつつも合縁奇縁を思う間も無く、僕はノートパソコンの前に座り込むと、冷めたコーヒーを啜りながら目を細めた。

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翌朝のキャシー。あれ?めちゃめちゃ可愛いぞ

批判しない男と滑空生物に魅せられた凶暴な女。


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とある識者の言うところによると、警察署で死刑を受けた受刑者は執行の瞬間に自分の行いを鑑みて反省しているかというと、そうではないという。
むしろ自分の身を守るために行動を起こした結果がこのザマだ、といった風に、自らの行動は正当であると主張する方が多いのだそうだ。

とある識者というのは、ドール・カーネギー。
ご存知の方も多いだろうが、世界的に有名な『人を動かす』という書籍の冒頭は、このような話題で幕を開ける。

僕たちには自分の行いを正しいと信じようとする性質がある。

ゴルファーのタイガー・ウッズが不倫騒動を巻き起こした時、騒動の後で彼は「今までこんなに頑張ってきたんだから、許されると思っていた」というコメントを残している。
実際にゴルフを頑張ってきたことと不倫をしてもいいかどうかということは全く無関係だ。
しかし彼の中では不倫を楽しむための理由として、ゴルフを頑張ってきたことが選出され、「こんなに頑張ってきたのだから」と自分を納得させていた。

あるいは音楽仲間の間では、音楽では食っていけないことを正当化するために「世間の連中は聴く耳がない」「日本の芸能文化はレベルが低い」といった理由を持ち出す者が多い。
しかし、「音楽を楽しむこと」と「音楽で食っていく」ことはまったく別のことだ。
売れない自分を正しいと思うために世間が間違っていると信じようとするというのは、他の業界でも失敗する者に多く見られる傾向である。

『人を動かす』の中ではこの人の性質を知って、相手のことを批判・非難しないと第一項を締めくくる。

死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえおればよろしい。
その批評が当たっていればいるほど、効果はてきめんだ。

という一節が、実に印象的である。
この一節を読んでから、僕は自分の身の回りの人物、特に彼女様を否定するようなことは一切言うまいと心に誓ったのだ(これ以上恨みを買ったら命に関わる)。

その彼女様から昨日突然、こんなことを言い渡された。

彼女様「明日からお前の事務所でモモンガ飼うから。」

僕「何言ってるの?」

彼女様「お前の事務所でモモンガ飼うから。」

僕「何?え?え?」

彼女様「モモンガ」

僕「どうして?多角的におかしくない?なんで突然モモンガ飼うの?うちで?」

彼女様「昨日行ったカフェでモモンガ里親募集しててん。」

僕「君の実家の君の部屋で飼えばいいじゃないか。もうチワワも2匹いるし、変わらないじゃないか」

彼女様「家族から猛反対を受けました」

僕「僕の猛反対は猛反対と認定されないんですか」

彼女様「だってモモンガかわいいやんか」

僕「僕まだ見てないもの。モモンガの形状とかディティールとか、全然頭にないもの。」

彼女様「ロフトに上がる階段の下のスペースとか、モモンガのための空間にしか見えんかってん。」

僕「もしかして僕が姿見の鏡置いて朝のオシャレするために使ってる空間のことですかそれ」

彼女様「演奏の動画撮ってる時にモモンガが画面を滑空して横切ったりしたらほら、斬新」

僕「新し過ぎてもうそれ音楽じゃなくなるから」

彼女様「夕方に迎えにいくから、時間作っとけよ」

僕「えっ」

彼女様「さっき正式にカフェに連絡いれました」

僕「えっ」

彼女様「名前はキャシー」

僕「えっ」

彼女様「モモンガ可愛いからしゃーないな」

僕「」

人を批判することは簡単だ。
だが批判された者がどのような感情を抱くかということを、僕たちは忘れてしまう。
人を批判しないというだけで、僕たちは良い感情に囲まれて生きていける。

しかし人を批判しないでいすぎると、ある日突然モモンガを飼うことになるから油断ならない。
読者の皆様も、十分に気を付けていただきたい。

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こちらが電話の後で送られてきたキャシーの写真。
あれ・・・可愛いぞ・・・

幸せのゴボウ。


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音楽を聴くときは、耳に意識を集中してはいけない。
リラックスして、心をフラットなところに置いて、そこで自分の中に注がれる音をただ静かに観察する。
すると、雑念まみれで聴いていた時とは比べものにならない量のサウンドや言葉がするするっと奥まで入ってくるものだ。

この「心をフラットなところに置く」というのは、あらゆる場面で重要なテクニックだ。
よく「視野が狭い」と言われる人たちは、往々にしてこれが出来ていない。
物事に何らかの意味付けをしながら受け取るクセがついているのだ。

例えば僕の場合だと、どんな音楽を聴いていても自分よりも劣っている部分を必死で探していた時期があった。
自信の無さを、他人との比較で埋めようとしていたんである。
必死で自分よりも劣っている部分を見つけて安心しようとしていたんである。

しかし、それをしようとすればするほど自分よりも優秀な部分が耳について、大変に苦しい思いをする。
それを無視して「あいつは○○が××だからダメだよ」などと言っていていも、それはそれは息苦しい。
終いには、自分の作品を作っていても他の人よりも劣っている部分が見えてきて、何も作れない、楽器を触るのも辛い、という状態になる。
自分から地獄の釜に飛び込んでいるのに、そのことに気付いていない。

よく言われる話しだけども、他人と何かを比較している内は、僕たちは幸せにはなれない。
生まれながらに勘が鋭く「才能がある」と言われる人は実在するが、そういう人と出会った時は、神の采配で素晴らしいサンプルが目の前に現れたのだと思えばいい。
眩しい光に目を閉じず、一体何がどう輝いているのか、自分が輝くためにはどういった部分が参考になるのか、じっくりと見つめるとよい。

人との比較クセを辞めるために、ひとつ、どうしても覚えておきたいことがある。
それは、

自分の人生で起こることは、全て自分の人生を素晴らしくするべくして起こっている

ということだ。
ハッキリ言って、実際そうなのかは分からない。
しかし、目の前の出来事が絶望の種だと信じることも、希望の種だと信じることも、方向が違うだけでやっていることは同じである。
幸も不幸も思い込みなのだから、幸せな思い込みをして、ハッピーに生きればいい。
わざわざ自分が苦しい生き方を選ぶというのは、いわゆるひとつのアレだ。変態。

「才能ある人との出会いも、愛の無い人の攻撃も、辛い経験も嬉しい経験も、今この瞬間に起こっている出来事全てが自分の人生をもっと良くするために起こっている」ということにする。

最初は言葉だけでもいい。
何年も掛けてせっせと育んできた不幸思考は、1日は2日では抜けない。
まあ、1週間くらいあれば抜けてくるんだけど。

ともかくとりあえずそういうことにして、じっと考えるんである。
その場では辛くても良い。
後から一手間掛ける。

例えば僕は、たまに嫌なヤツに出会うと、自分の周りの人がいかに良い人ばかりなのかということを噛み締めて喜んだりするんである。
そして、そのことに気付かせてくれたのはその嫌なヤツであったと気付くと、やはりこの世は僕のために回っているのだと、ただただ確信を深めるのだ。

この一手間を惜しんで、人は不幸になる。
落ち目の自分という幻想に取り付かれ、自尊心を守るために人との比較に走る。
渦巻く劣等感をひた隠すために過激な攻撃をしたり、自分を傷付けたりする。

この一手間を惜しんではいかんのだ。
根本的に、人はネガティヴなんである。

「今この瞬間に起こっている出来事全てが自分の人生をもっと良くするために起こっている」

というのは、何度も言うが、そういうことにするという意思が必要なんである。
ゴボウも梅もレモンも、そのままではとても食べられなくても、何かしら一手間掛けると美味しくる。

家の庭にゴボウが生えているのなら、いかにそれを美味しく食べるかを考える。
隣の家の庭にトマトが生っていると言って文句を言っていても、ゴボウは美味しくならない。
美味しいゴボウ料理が作れるようになったら、隣のトマトと交換してもらえたりもするのだ。

手を抜かない。
これ、大事。