虐げられる喫煙者への今後の対応。


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カフェで知的な創造活動(今朝アップした2分ほどの短い動画の訂正作業だ。3箇所もある。)に勤しんでいると、少し離れたところにある喫煙エリアからサラリーマンらしき二人組の話し声が聞こえてきた。
彼らは極端な分煙を憂いており、喫煙者の人権復興を訴えていた。

僕は喫煙者ではないが、虐げられる者の気持ちは分かる。
過去様々な者たち(「彼女様」「優秀な後輩」「近所の犬」など)から虐げられて生きてきたからだ。

中でも最も記憶に残っているのは、高校時代、数学の成績が悪く、補修を受けさせられた時だった。
教師の教え方が未熟なために貴重な青春を消費させるなど、虐げられているにも程がある。
ため息を吐きながら教室に入ると、そこには虐げられて当然と思える面々が肩を並べてゲラゲラと笑い合っていた。

理不尽に打ち震えながら席につくと、実にのんびりとした口調で全く緊張感のない喋り方をすることで有名なO先生が入ってきた。

「さぁ〜、お前ら、あ〜〜〜〜なっ、さぁ、あのぉ〜〜〜・・・補修な、あのぉ〜〜〜ちゃっちゃとな、あのぉ〜〜〜やって、な、早よ終わらせよな」

O先生は早く終わらせる気などさらさら無いに違いない、間延びの極みとも思える壮大な挨拶をされた。
計算の早い者なら、数学の問題を2問は解けていただろう。
教室の中に計算の早い者が一人もいなくてよかった。

補修は実に間延びして進んだ。
僕の通っていた高校は授業1コマが90分というシステムであったのだが、体感としてはその3倍はあっただろう。
授業は遅々として進まず、周りの連中は寝るか、喋るか、ゲームをするといった様子である。
肝心の数学に関する理解は一切深まらず、かわりに顔のシワが深まった。

今後二度とこのような目に会うまいと気合を入れて挑んでいた僕も、気がつくと隣の壁にもたれ掛かってウトウトとしていた。
この時間は、一体何なのだ。
青春を切り取られ、愚か者の集う部屋に押し込められ、聞くものといえば地方のコミュニティラジオ番組よりも遥かにつまらない数学の授業である。
これを地獄と言わずして、何と言うのか。

現実に戻ってきた僕は苦しかった過去の思い出を胸に、今まさに喫煙エリアへと追いやられているサラリーマン達に憐憫の眼差しを向けた。
彼らは職場で追いやられ、自宅で追いやられ、そして今このカフェでも追いやられているのだ。
これを憐れまずして、何を憐めというのか。

「もうちょっと、堂々と吸いたいよなあ。」

「俺なんか、何にもしてないとずーーーっと換気扇の音が聞こえてる気がするもんね。」

涙が出てきそうだ。
仕事に励み、社会に貢献し、経済活動に人生を捧げる世の男がこの有様である。
彼らはもっと救われていいのではないか。
少なくとも、喫煙という自己のリスクを伴った行為くらい、もう少し多めにみてやってもいいのではないか。

そう思い溜息をつこうとした瞬間、喫煙ルームから漂ってきた微量の副流煙が僕の鼻腔に飛び込み、そのまま肺胞機関への侵入を試みた。
僕は大いに咽せ込み、その拍子に手に持っていたiPhoneを床に落とした。
それ以降、僕のiPhoneはおよそ1時間おきに電源が自動で落ちる謎の新機能に目覚めている。
喫煙者は、今後一切の副流煙が僕の元に届かない、洋上の密閉施設などでタバコを吸うべきだ。

使命に燃える男の末路。




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僕は使命に燃える男だ。
口の中が気持ち悪く感じれば歯を磨かなければならない使命に燃えるし、ダイエットをすると鉄の決意を固めていても腹が減ると何かを食べなければならない使命に燃える。

使命とは文字通り、「命の使い方」を指す。
本当かどうかは分からないが、人は生まれてくる時、神とこの人生で成し遂げるべきことを約束してくるのだという(おそらく僕は数々の痩せたい欲求に打ち勝ってくると約束してきたのだ)。
もしそれが本当なら、神との約束である。
反故にしては、何が起こるか分かったものではない(凶暴な彼女を当てがわれる可能性がある)。

今のは箇々別々の話であるが、どうやらそれ以外に、「男だから」「女だから」といった別カテゴリーの使命というのも、どうやらあるらしい。
つまり、「男」に生まれたからには、全うすべき使命があるというのだ。

まさか男に生まれただけで全うすべき使命を背負わされているとは思わなかった。
生まれた時には懸命に働いた金を税金として納めなければならないことを知らなかったから、似たようなものなのだろう。

では、男の使命とは何か。
僕は駅の蕎麦屋で麺を啜りながら数秒間熟慮し、ひとつの回答を得た。

『男の使命とは、女を許すことである。』

例えば僕が買ってきた野菜を痛ませ、そのことが彼女様にバレたとしよう。
そうするとほぼ確実に、「痛むのが野菜でなくてお前であったならよかったのに」という意味合いのことを、実に様々な角度から追求し、言及し、千々に千切れよと言わんばかりの勢いでもって責め立てられる。
野菜を痛ませるような生命体に存在価値はないと、鉄の教育活動が開始される。

ところが立場が逆であったなら、僕は野菜を痛ませ落ちこむ彼女様を励まし、優しい言葉を掛けねばならない。
そうしなければ、「かわいい彼女が落ち込んでいるのに優しい声くらいかけたらどうだ」といった意味合いのことを、実に様々な角度から指摘し、叱責し、塵芥よりも細くなれと言わんばかりの勢いでもって責め立てられるのだ。

結局のところ僕が救われるには、

①野菜を痛ませたのが彼女様である

②彼女様の失態を全力でフォローする

③僕が綾野剛である

という3つの条件をクリアするしかない。
どうしても③の条件がクリアできず、かつて無事にこの厄災を乗り切った経験はないのだが、しかしだからといって①と②をクリアする努力を怠っては、命に関わる。

その時、僕は以前僕を執拗に攻撃した彼女様を許している。

「お前は以前僕をしこたまに罵倒したけれど、それがどうだ、この有様は。バイオハザードじゃないか。アンブレラ社の陰謀じゃないか。」

などとせせら笑いたい気持ちをグッと堪え、

「大丈夫だよ。これれくらい、みんなやってるさ。ほら、この惨劇を忘れないように、野菜たちに祈りを捧げようじゃないか。僕も付き合うよ。」

くらいの、聖人君子も裸足で逃げ出すような立派なことを言ってのけるのである。
ほぼ確実に「綾野剛でもないクセにウザいことを言うな」と言って腐った人参などが飛んでくるが、包丁が飛んでくるよりも遥かにマシである。

このようにして、僕は自分が背負った覚えのない使命を背負い、日夜戦っているのである。
僕自身の使命がどういったものなのかはまだ全く分かってはいないが、女の横暴を許すのが男の使命であることはハッキリと分かる。
許す以外の選択肢がないのだから、当然である。

ところが先日、大変なことが起こった。
買い物の帰りに彼女様が、「男だろう。か弱い彼女の持ってる荷物くらい、持ったらどうや。」などと言い出したのだ。
まさか、自分より屈強な人間に掛かる負荷を肩代わりすることも男の使命であるとは思わなかった。

僕はギターしか抱えたことのない細腕でキャベツや大根の入ったビニール袋を抱えた。
「信用できへんから卵は預かるわ。」といって彼女様が僕から生卵のパックを奪い取る。
事務所に着くと、彼女様のバッグの中でパックの中の卵が2個ほど割れていた。

うなだれる彼女様に男の使命を果たそうと近付くと、「お前がちゃんと持って行くって言ってくれたらよかったのに!」といって責められた。
あまりの横暴さにいよいよ腹の虫が収まらなくなった僕は両の目をカッと見開き、鬼の形相(平常運転である)で怒り狂う彼女様に対してこう言い放った。

「おっしゃる通りでございます。」

「使命」とは、「命の使われ方」とも読み取れる。
深い学びに頬を打たれた僕は自身に課せられた教育が一切の妥協なく終了していくとを痛感しつつ、床に滴った卵の黄身を拭き取るためにキッチンペーパーを取ろうとした。

「勿体ないからティッシュにして。」

「はい」

真の使命に目覚めると、男は、つらい。

良い音楽を奏でるためには、コンビニでレジを打てば良い。


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やることが山ほどあって、やりたいことも山ほどあって、だけどそれを実行する力が無い時というのが、人には必ずある。
一番分かりやすいのは、『お金が無い』状態だ。

僕を筆頭に、多くの人はお金持ちではない。
結婚をすると財布を妻に握られ男は小遣いで細々と生きることになるというが、僕などはまだ結婚もしていないのに、自動販売機でコーラを買うだけで彼女様から汚物を見るような目を向けられる。
これが平常運転なのだから、人の環境への順応力というのは実に驚異的である。

お金が無い状態を解決する方法は、ひとつしかない。
お金を稼ぐことである。
それしかない。
実にシンプルだ。

お金というのは仕事をすれば手に入る。
仕事とは、『仕える事』だ。
人様のお役に立つことである。
それも、明らかに圧倒的に役に立つことだ。

音楽などもそうなのだが、まず、全ては素人から始まる。
多少慣れてくると、まあ、聴いていて苦ではないレベルになる。
多くの場合、ここで明暗が分かれる。
選択肢は4つだ。

①自分が演奏したくて、人が聴きたいものを目指す
②自分は演奏したくないが、人が聴きたいものを目指す
③自分は演奏したいが、人は聴きたくないものを目指す
④自分が演奏したくなく、人が聴きたくないものを目指す


これが音活寺子屋のブログなら、

~~~~~

まあこうやって見たら分かると思うんだけど、お金になるのは①と②だけでしょ。
で、実は③の人が一番少ないのね。
みんな、人が聴きたいものを目指すんだけど、人間理解を深めようとしないから人が求めてる軸にはまれない。
だけど自分がやってることは求めれらないって思っちゃってるから、自分の軸からも外れてくる。
一番悲しい④のパターンに、本当に大勢の人が陥ってるのよ。
もしかしたら、君もね。


~~~~~

などと言うところだが、今回はもっと明確な答えがある。
つまり、仕事などというものは、実は空気のように当たり前に情熱的にそこかしこに転がっていて、それを選り好みして選んでいないということなんである。

コンビニのレジ打ちアルバイトでもいいのだ。
それを、徹底的に極める。
そうすると、上司や他の店のスタッフの目にとまる。
そこまでやってようやく、給料アップや昇級、あるいは別業界への引き抜きなど、次の人生のステップが待っている。

人生を一生懸命生きていると、必ず次のステップがやってくるのだ。
神は手掛かりを一手ずつしか与えない。
その手掛かりは、常に自分がいっぱいに手を伸ばさなければ届かない位置に現れる。

ところが、そうやって一生懸命やることを無駄だと思う者がいる。
かつての僕がそうだ。

音楽をするために上京したのだから、アルバイトなどしている場合ではない。
しかし現実問題としてアルバイトをしなければ生きていけない。
音楽をお金に換える方法を、事務所に所属して売り出してもらうこと以外に知らない。
しかし、どうにもやる気がでなくてオーディションもまともに受けていない。
そうやってどんどん自分の弱い部分、闇の感情にフォーカスを合わせていったことによって、世界は闇に飲まれ、僕は心を痛めた。

今だからこそ思うが、一生懸命アルバイトをすればよかったのだ。
一生懸命にコンビニのレジを打ち、一生懸命に新築マンションの床を磨き、一所懸命に誘導棒を持ってトラックの後ろで「オーラーイッ」と叫べばよかったのだ。

どうしてそうしなかったのか。
劇的で外的な突然の進化を、頑張らないまま享受したいと思っていたのだ。
つまり、甘っちょろいことを思っていたんである。
自分よりも年下の才能がどんどん開花してゆく中で、僕は自分の腕と心と魂を磨くこともせず、ただ周りの人がチャンスとお金と輝かしい未来を持ってきてくれることを、文句を垂れながら待っていたのだ。

今なら断言できる。
凡人が良い音楽を奏でるためには、一生懸命にレジを打てばよい。
ピカピカになるまで床を磨き、事故が起こらないように赤い棒を振り回せばよいのだ。

人は、ひとつの人生を生きている。
音楽は偉大だ。
芸術は偉大だ。
僕の仕事がら、教育も偉大であると断言する。

しかし、音楽も芸術も教育も、人間という生き物の一部である。
人として生まれて人として感じる感覚の一部である。
レジ打ちもクリーニングも警備誘導も、音楽を奏でることと何ら変わり無い。

冒頭の話しに戻る。
貧乏な人は、お金を稼ぐことに一生懸命になればいい。
仕事がないのなら、仕事を見つけることが仕事だ。
仕事を見つけたら、早くその仕事を覚えることが仕事だ。
仕事を覚えたら、その仕事で世間に給料以上の価値を返すのが仕事である。

お金がないのは、仕事をしていないからだ。
そして今やりたいことを仕事にできていない人は、他の場所に何か学ぶべきことがあるのだ。

僕は5月からミュージシャン業務を再開するが、それは昨年の活動休止以前に無かったものを学んだからだ。
人は、目の前のことを一生懸命にこなしていれば、必ず向上する。
そういう風にできている。

今僕はとある知り合いのマーケティング業務の資料作りを仕事として請けているが、パワーポイントをグリグリと弄りながら、この道のプロである社長の気遣いや仕事の流れを学び、ひとつの大きなテーマに向かってどのようなデータが何を意味するのかを学んでいる。
その結果歌詞のまとめ方や、自分の商売を押し出していくためのプロセスに新しい情報が流れ込み、脳の中でスパークする。

ギターなど置いて、働けばいい。
金を稼げば、良い音楽が鳴るようになる。
音楽は本来、イメージの世界で鳴り響いているものなのだ。
イメージすることを止めなければ、音楽は絶対に劣化しない。
劣化するのはいつでも、自分が手を抜こうとする自分自身なのだ。

働くことで停滞するものなど、何もない。
10年掛かるのなら、10年掛ければよい。
そのことに今気付けば、10年後にはなんとかなるのだ。
1年引き伸ばせば、11年掛かることになる。

この劇的な気付きを得た僕は得意満面、彼女様に働くことの尊さを説くことにした。
毎朝仕事に行くのが面倒だとブーブー垂れているあの女にも、その仕事がいかに自分自身を輝かせることに繋がるか、気付かせてやる必要がある。
しいては、仕事を通して人に優しくすることを学び、僕に対する罵詈雑言および本ブログには記載しきれない暴力の数々が、少しでも和らげばよい。

一通りの話しが終わると、彼女様は珍しくキラキラした目でこちらを見た。
初めて外国人と話した時に付け焼き刃の英語が通じた時のような感動を覚えた僕は、ようやく言葉が届いた感動に打ち震え、神に感謝した。


彼女様「今稼いでんの?そしたらほら、欲しいコートがあんねんけど!可愛い彼女が!コートを欲してるんですけど!」

一点訂正する。
一生懸命にやっても、変わらないものもある。

双竜の掌を持つ女と、うずくまるイケメンの苦労と努力。


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僕はバランスを追い求める男だ。
左の頬を殴られたら右の頬を差し出せとイエス・キリストも言っているが、まさにそのような精神性を持った男である。
そして僕の彼女様は、目にも留まらぬスピードで左右の頬を同時に攻撃する技術を持った女である。

僕は講師業をしている関係もあって、よく人が何かに取り組む場面に立ち合う。
それはギターであったり音楽活動であったりするのだが、ほぼその全てに共通しているのは、上手くいっていない人、上手くいかない人というのは、バランスが悪いということだ。

例えば、「何でも先生の言うことを聞きます!」という生徒が居たとする(実際そんな夢のような生徒はいない)。
そんな一件素晴らしく見える生徒も、バランスが悪い。
何が悪いかというと、講師を疑う視点というものを持っていないのだ。

講師と生徒というのは、いわゆる仕事を請ける側と発注する側である。
本来であれば、生徒が「この講師の言うことは信用ならない」「もっと良い講師がいるかもしれない」「最近なんだか顔が気に食わない」などという理由を見出せば、この受注関係は無に帰すものである。
元来そこには、「ちょっとでも役に立たないこと教えてみろいつでも辞めてやんだかんな」という緊張感があって然るべきである。

ところが、時折講師の言うことを鵜呑みにし、その緊張感を一切醸し出さない人がいる。
これが、実は危険なんである。
その緊張感があるからこそ、講師は全力で教えるし、場合によっては全力で調べる。
当然、今までの知識やノウハウも一切出し惜しみをしない。

「先生の言うことは何でもかんでも一切合切信じます!」というのは、そういった意味で実にバランスが悪いんである。

先日とある後輩がギターのアレンジを教わりたいと言ってきたので、カリスマ講師として指導に当たっていたところ、途中からなぜか心の話しになってきた。
僕はギターをそっちのけで、若きミュージシャンに熱弁を振るった。
これ以上ギターで教えられることがなかったから、必死だった。

そのうち、後輩が目に涙を浮かべはじめた。
「どうしてこんな話しを聞かされなければならないのか」という不条理に対する涙かと思ったら、僕の話しに感銘を受けたのだという。
不条理に涙を呑む機会が多い僕にとって、新鮮な回答だった。
しばらくの間は彼の涙が信じられなかったくらいだ。

彼は、優しい男であったのだ。
それ故に、「戦う」という意思を持っていなかった。
だから、そこでバランスが崩れていたのだ。

これは本心でもありテクニックでもあるのだけど、人に1つ何かを気付かせてあげるためには、その他の苦労や努力を全て理解して心から労わなければならない。
彼は今まで人に黙っていたことを全て僕に見透かされたといって、大変驚いていた。
ようやく僕のことを理解してくれる人が現れたのかと、僕自身も別件の涙が溢れるかと思った。

「だから僕は、彼を激励して、感動の渦の中で、僕らは別れたんだよ。」

そう言うと彼女さまはただでさえ鋭い眼光をさらに険しく尖らせて、僕の心臓を握りつぶすかのような声でこう言った。

「で、その子は生徒になったんやろな。」

その質問に対し軽薄にもお金が欲しくて彼に心を説いたのではないと主張したところ、それを言い切る前に左右の頬に衝撃が走り、目の前に火花が散った。
顔を覆ってうずくまる僕の苦労と努力を理解して労ってくれる人は、まだ現れない。
世界は実にアンバランスだ。

世界を叩くハンマー。


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老朽化した金網を建て直すためには、基礎から壊して作り直さなければならない。
大きな公園の中央に設けられたグラウンドはおよそ二ヶ月間の間黄色いバリケードに囲われていて、その中からはキャタピラやショベルが軋み唸る音が、ずっとずっと聞こえていた。

ある日、そのグラウンドに沿った歩道を歩いていると、ちょうど金網を支える鉄柱の基礎を作っているところだった。
大きく掘り返された地面の底には木の枠で型が作られていて、その中にドロドロとコンクリートが流し込まれていた。

その、まさしくコンクリートが流し込まれているシューターの先端で、疲れ切ってくすんだ顔のおじさんが一人、作業着を汚しながら黙々と作業をしていた。
コンクリートは、ただ流し込むだけでは中に空気が入ってしまって、固まった時の強度が下がる。
その空気を抜くために、おじさんはせっせと木の枠をハンマーで叩いていたのだ。

穴の上から見下ろしている現場監督があれやこれやと指示をする。
実に淡々と、見ていてこちらが申し訳なくなるくらい、明らかに自分よりも年長者のおじさんを顎で使っている。
そもそも現場監督と作業員とはそういう関係であるのだが、僕が現場で働いていた終盤に出会ったM本監督は、実に作業員の立場に立ったものの考え方をしてくれる人だったから、はやりそこには大いなる違和感があって、しかしその違和感も、今この場で声高らかにその場のおじさん達にぶつけるというのは、明らかに余計なお世話であった。

作業員のおじさんは黙々と木の枠を叩く。
コンクリートが飛び散り、おじさんの頬をさらに汚す。
穴の上から監督が何かを言う度、おじさんは自分のペースを乱されて、手元が慌てる。
それを見た監督がまた語気を荒げて何かを言う。

僕はいたたまれなくなって、そそくさとその場を立ち去った。

昨日、出先から帰ってきた時のことだ。
件の公園の通りを自転車で颯爽と駆け抜けていると、あのグラウンドは新たな金網でもって見事に生まれ変わり、サッカーに野球にと勤しむ子供たちを包み込んでいた。

大きな穴があったところは見事に埋められていて、そこからは立派な鉄柱がそびえ立っている。
ジグザグに並べられたカラーコーンの向こうで、何人かの少年が帽子を脱いで大人の話しに耳を傾けている。
よくテレビなどでこういう光景を写して、

「ここから未来のスラッガーが」

などというナレーションを入れることがある。
テレビとして、夢を抱かせるのは大切なことだ。

しかし、それはやはり野暮なのではないかとも思う。
今ここで走り回り、自分たちを応援してくれる大人の情熱に触れている子供たちを見ていると、そんな立派なものにならなくても、今この瞬間に十分な価値があるのではないかと思うのだ。

そしてふと、僕は思い出したのだった。
あの木枠をせっせとハンマーで叩いていたおじさんが、この鉄柱の根元にいたことを。

おじさんはとても孤独に見えたが、おじさんの仕事はこうして今に繋がっている。
おじさんは実感していないかもしれないが、おじさんは確かに世界と繋がっている。

もしかしたら、作業員はあのおじさんでなくてもよかったのかもしれない。
だけど結論として、あのおじさんが叩いたコンクリートが、今大勢の人を包み支えている。

毎日は酷く平凡で退屈で、それでいて困難なものかもしれない。
だけれど、それでも僕たちは、こうやって自分の目には触れないところで、誰かと、世界と繋がっている。
それを教えてくれる人は少ないけれど、少なくともそれが「仕事」であれば、誰かがその仕事で得をしているから、その「仕事」が成り立っているのだ。

パンの中に毒を入れなくても、威嚇して相手を打ち負かさなくても、自分のアイデアが退けられたとしても、僕らは必ず世界と繋がっていて、何らかの影響を与えている。
そのことをぜひ、覚えておきたいと思った。

生まれ変わったら何になりたい?


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人は時折、「生まれ変わったら何になりたい」という話しをする。
男性諸氏はこの時「美女の自宅の便座」と答えるだろうが、美女の自宅には高い確率で美男子が現れる。
軽薄な判断は来世にも悪影響を及ぼすことになるから注意が必要だ。

このように、人は物事の本質を見誤ると取り返しのつかない失敗を犯す。
「生まれ変わったら何になりたい」という質問が、一体何を意図して投げかけられているのか、どのような状況で投げかけられているのか、誰から投げかけられているのかで、答えはまるで違ってくるのだ。

仮に職場の休憩室などで男性の同僚に「生まれ変わったら何になりたい」と聞かれたとしよう。
この場合、その同僚は高い確率で疲れている。
そんな時は多少真面目な顔をして、

「また、お前の同僚になりたいよ。」

くらいのことを言うべきなのだ。
美女宅の便座になりたいなどと言った次の日に彼がビルから飛び降りたのでは、あまりにも切なすぎる。

それでは、女性の後輩から「先輩は生まれ変わったら何になりたいですか」と聞かれたとしよう。
軽薄なる男性諸氏は若干のトキメキを感じるかもしれないが、勘違も甚だしい。

このケースでは、後輩女子はほぼ100%の確率で実に単純に興味本位に何の裏表もなく額面通りの情報を求めているのだ。
何か立派なことを言っても大した「ふ〜んそうですか」とつまらなそうにされるのがオチだし、調子にのって「君の家の便座になりたい」などと言ってしまったら、最悪の場合社会から追い出されてしまう。

妙な下心など持たず、素直に感じた通りを語れば良い。
思いつかない場合は、「不倫ドラマに出れるような艶っぽい俳優になりたいなあ。」などと言っておけば、とりあえずあと1ヶ月くらいは受けるのではないだろうか。

最も注意すべきなのは、自分の恋人や妻から「生まれ変わったら何になりたい」と聞かれた時だ。
恋人の場合はまだしも、戸籍上夫婦となった女からそういうことを聞かれたら、預かり知らぬところで生命保険への加入手続きが終了していると見て間違いない。

まず敵の手に刃物が握られていないかどうかを確認し、何もなければ徒手空拳に備えて受け身の態勢を取る。
包丁の一本でも握られていたなら、一刻も早く頭を下げ、片っ端から怒られる心当たりの案件を陳謝する他ない。

ここで、「何ビクビクしてんのよ」などと言ってにこやかにされても、油断してはならない。
毎日の食事に何を盛られているか分かったものではないからだ。

生命保険への加入直後の事故では、あまりに不自然である。
1年から2年をかけ、ある程度良好な夫婦関係を装ってから犯行に及ぶ可能性もゼロではないのだ。
かといって、出された料理を食べないというのは、これもまた別件の恐れにより実行不可である。
結婚というのは、男の展望と退路の両方を同時に断つ、実に悪魔的な儀式であると言えよう。

以上のように、「生まれ変わったら何になりたい」という質問ひとつとってみても、常にその質問の真意や本質を見抜こうとする眼力の有無で、男の将来は大きく左右される。
男は自分が軽率だと分かっているのだから、軽率なら軽率なりに、頭を使う必要がある。

ところで、先日彼女様に「生まれ変わったら何になりたい」と聞かれてまだ答えられていないのだけど、未だに何と答えるのがベストなのか、分からずにいる。
何と答えれば、少しでも穏やかに長生きができるだろうか。

愛に生きる男の苦悩とベランダのガラモン。


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僕は愛に生きる男だ。
愛に生きるとは、許して生きるということである。
許さなければ、戦ったところで勝ち目のない人生を生きているのだ。

許すべき案件は多岐に渡る。
彼女様の暴力に始まり、僕が乗り込む直前に電車のドアを閉めたJR東西線の車掌や、気分よく歩いている時に足の小指をぶつけた事務所のホワイトボードの角など、数え上げると枚挙に暇がない。
そしてそのどれもが、訴訟を起こしても敗色濃厚である。
ホワイトボードに至っては、法的に訴訟を起こす機会すら与えられない始末だ。

先日コンビニで昼食の麻婆豆腐丼を買った際に、レジの店員が箸を付けてくれていなかった。
僕がそのことに気付いたのは、レンジでグツグツに温めた麻婆豆腐丼を公園で開けた、その時であった。

人は、そこにあって当たり前と信じていたものが無いとなると、実に大きな衝撃を受けるものだ。
落とし穴にハマる人は皆、自分が落ちていくことではなく、床がなかったことに驚くのである。
ボコボコと沸騰する麻婆豆腐丼を膝の上に乗せ、アチチなどと言いながら僕は、それはそれは筆舌に尽くしがたい虚無感を味わっていた。

この時点で、僕には選択肢が2つあった。
①さっき麻婆豆腐丼を買ったコンビニまで戻り、箸をもらう。
②事務所まで戻り、自分の箸を使う、である。

①は早々に却下した。
コンビニの店員が僕を見て、「こいつは素手で麻婆豆腐丼を食べそうだ」と判断した可能性があるからだ。
今からさっきの店に戻って箸の不在を言及した時に、「箸使うんですか!」などという顔をされた挙句中途半端に冷めた麻婆豆腐丼を食べるのは、いくらなんでも心に染み過ぎる。
場合によっては、「僕はあなたが箸を使わない人だと信じていたのに!」と一方的に理解し難い主張を投げつけられる可能性もゼロではない。
そんな新人類と出会う元気は、丼の蓋を開けてから箸の不在を知った僕には、残されていない。

となると、僕の選択肢は自ずと②の一択となる。
せっかくグツグツに温まっている麻婆豆腐丼がまさしく口惜しいが、事務所にも電子レンジがあるから、温め直しは可能である。
僕は腹の中に渦巻くコンビニ店員への怒りを感じつつ、麻婆豆腐丼をビニール袋に戻して歩き出した。

少し歩いたところで、突然物陰から自転車にまたがったおばちゃんが現れた。
ポケモンで戦闘が始まる時は、きっとこんな感じなのだろうなと思わせてくれる程度には、あまりにも突然の出来事であった。

信じられないかもしれないが、大阪のおばちゃんは、自分の自転車の前には絶対に誰も現れないと信じている節がある。
僕の彼女様も自転車に乗ると人格が豹変するから(悪鬼から羅刹になるのだ)、これは土着的な宗教に近いのかもしれない。

とにかく、そんなおばちゃんが飛び出してきたものだから、僕としてはたまったものではない。
おばちゃんの自転車はけたたましいブレーキ音を立てて止まり(手元がカバーで隠れていたから、実際にブレーキを握っていたかどうかは定かではない。もしかしたら、おばちゃんの叫び声だったかもしれない。)、僕を数十センチ吹っ飛ばした。
当然、一蓮托生の関係であったビニール袋も、数十センチ吹っ飛んだ。

「あーびっくりした」

おばちゃんの感想が素直すぎてびっくりした。
自転車に乗っていた自分が歩行者の脇腹に突撃したのだから、普通は謝るのが先ではないか。
僕は体を起こし、毅然とした態度でこう言った。

「すいませんでした。」

愛深く陳謝の姿勢を見せる僕に、おばちゃんはようやく「大丈夫か」と気遣いの言葉をかけた。
僕の体は大丈夫だ。
しかし麻婆豆腐丼が入ったビニール袋は少し離れたところに転がっていて、うっすらと見えるビニールの中の器は、先ほどまで僕の膝の上に居た彼とは明らかに違う角度で、大阪の大地にその身を預けていた。

「大丈夫です」

それ以外にどう答えろというのか。
これからこのおばちゃんが僕の事務所に来て麻婆豆腐丼を作ってくれるとでもいうのか。
そんなものばかり食べてちゃダメと、キンピラごぼうを大量に作ってストックされるのが落ちである。

走り去るおばちゃんのたくましい背中を視界の隅に捉えつつビニール袋を持ち上げる。
紅い。
明らかにビニール袋の内側が紅い。
なにやら豆板醤的に紅い。
きっと表面のラー油が少し溢れただけさと指で触れてみると、そこには明らかに半固体的な質量が感じて取れたのだった。

春の日は柔らかいが、街吹く風にはまだ冬の名残がしがみついている。
それは僕の手元の不本意の塊からも刻一刻と温もりを奪い、どこか遠い空の向こうに連れ去ってしまっていた。
僕の麻婆豆腐丼(元)の抱いていた熱量が、どこかの美女が干している下着の間を通り抜けることを心から祈っていると、近所の家のベランダに、ガラモンのようなおばちゃんが現れて布団をバンバンと叩き始めた。

愛の男はきっとその時、泣いていたのだと思う。

美しく楽しい日本語表現の仕組みとリスク。


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以前あるイベントで知り合った女性の方が僕のことをFacebookに書いてくださった時に、

「噺家さんみたいな話し方で緊張した(笑)」

というコメントを残していた。
僕自身は噺家という人の話し方を聞いたことがないのでよく分からないのだが、その噺家という職業には、さぞクールなイケメンの方が多いのだろう。
だからこそ、彼女も僕との対話で緊張を強いられたに違いない。
申し訳ないことをしたものだ。

今回の件だけではない。
僕は度々、話し方が独特であると言われる。
確かにお喋りは好きだが、そう言われるようになるまで、あまり自分がどう喋っているのかということを意識したことがなかったんである。

無意識で話していても注目を集めてしまうというのは、やはりそういう星の元に生まれたのだと思う他あるまい。
僕に注目をした者は軒並み僕に危害を加えてきているが(攻撃的な彼女様、変態の友人、爪の鋭い近所の野良猫など)、おそらく水面下には大量の隠れヤマモトファンが蠢いているのだろう。
美女、あるいは美少女のファンにもみくちゃにされる日がいつ来るのか、楽しみでならない。

自分がどのように話しをしているのかを冷静に考えてみると、僕は何かを話す前に、頭の中に文章を一度書き出しているということに気付いた。
高校生の頃からユーモアエッセイを愛読してきたからか、僕にとって日本語表現の美しさ、楽しさというのは話し言葉ではなく、書き言葉なんである。

一度頭の中で文章を起し、推敲し、それを滑舌よく感覚的に抑揚を付けて話している。
それが、僕にとっての、美しく楽しい日本語表現なんである。

美しく楽しい日本語表現には、いくつか条件がある。
まずひとつ目は、『人と違う視点を持っていること』だ。

これは深く考えると難しいように感じるが、何のことはない。
例えば、いつもダイエットに失敗している人ならば、

「痩せたいという欲求にその都度打ち勝っている鋼の精神の持ち主」

と表現するだけだ。
普通に考えれば非難の対象になりそうなことを非難していては、これ普通である。
普通は非難されることを絶賛するように表現するからこそ、そこに『人と違う視点』というものが生まれる。

ただし、ここで「ダイエットに失敗するなんて意思薄弱なダメなヤツだ!」という価値観を持っていると、美しく楽しい日本語表現は、実に容易く遠のいてしまう。
例えば、僕が夜中にチョコレートを食べながら

「今回もダイエットをしたい欲求に打ち勝つことができた・・・」

と胸を撫で下ろしていると、敵は必ず「私は一切の肯定を持たない」といった表情を維持しつつ、

「今包丁渡すから、それで10キロくらい痩せられるから。」

などとスプラッターなことを言う。
脂肪は無くなるかもしれないが、死亡して亡くなる。
落としたいのは命ではなく、腹の肉である。
キッチンから刃物を持って現れる彼女様は、実に堅牢な価値観でもって、美しく楽しい日本語表現を切り裂くのだ。

美しく楽しい日本語表現を嗜むためには、自分の価値観を可能な限りフラットに保つ必要がある。
「これはダメだ」という否定の感情が芽生えると、それは日本語表現どころの騒ぎではない。
いかに自分の意見の方が優れているかということに固執してしまっては、そもそも自分自身が純粋な言葉遊びを楽しむことができないではないか。

それ故に、仮に目の前の女が嬉々として自分の恋人(男性)あるいは亭主の悪口を語ったとしても、それに対して反論の意見などを持ってはいけない。
目の前に牛肉が出たからといって、今日もどこかで牛が屠殺されていると涙を流さないのと同じである。
我々はただ手を合わせて、犠牲となった命に祈りを捧げるだけだ。

軽薄にも反論などしようものなら、自分の亭主や恋人がいかに無能で低俗で軽薄なのかを延々と語られることになる。
打ちのめされた後に「どうして別れないのか」と聞くと、「あんたの彼女にも聞いてみたい」と言われる可能性がある。
そうすると精神的な再起動は困難を極めるから、やはり価値観は可能な限りフラットに保った方がいい。

そういう訳なので、僕はいつでもあなた(美女・美少女に限る)からのファン宣言をお待ちしている。
場合によっては密会なども検討するので(写真添付連絡の手続きが必要)、ぜひお気軽にお声掛け頂きたい。

なお、この募集は永年的に継続する予定であるが、特定の人物の目に留まった段階で告知なく終了する可能性があるので、予めご了承頂きたい。
場合によっては、僕の人生が終了する可能性もゼロではないのだ。

相当の覚悟を、ご理解頂きたい。

ファッションに疎いイケメンの衣装選び奮闘記。

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今年の5月から、僕自身の音楽活動を再開することにした。
具体的にライブの本数が増えてくるのは6月ごろになろうと思われるが、昨年末の活動休止宣言から半年間で得た数々の気付きや悟りを持ち寄り、板の上に帰ってくる所存である。

「あれ、お前、ライブしてなかった?」

と言われるかもしれない。
確かに、出演のお誘いをいただいた企画や、以前から続けさせて頂いていたマンスリーライブなどに関しては、継続して演奏させていただいていた。
しかし、自分で段取りを組み、準備を整え、挑んでかかる企画や戦略というのは、ただの一度も組んではいなかったんである。
そういう訳で5月6月からの音楽生活に向け、早くも準備をし始めた僕が最初に手を出したのが、僕自身を美しく装飾することであった。

もはや口にするのも馬鹿馬鹿しいほどの常識であるが、僕は実にクールなイケメンである。
そこに居るだけで世界が明るく照らされると評判のこの僕が、さらに自分自身を輝かせるために努力を重ねるというのだ。
白鳥のバタ足的努力とでも申しましょうか、それは実に健気なサービス精神に基づいた、美的感覚の表れなんである。

僕はまずヘアサロンに行き、伸びに伸びた髪をバッサリとカットしてもらった。
ハサミを握ってくれたサロンのオーナーに「どないしましょ」と聞かれたので、

「満員電車に乗っていてね、次の駅でドアが開いたと。で、これから人が入ってくるんだけど、あ、コイツだったらまあギュウギュウに押し込んできても、いいかな、と思わせてあげられるような髪型にしてください。」

と答えた。
自分自身の好みよりも、周辺の人がどのような気持ちになるのかを考えた、実に深い愛に基づくオーダーである。
オーナーに理解してもらうために約10分ほどの説明時間を要したが、これで清潔感のあるイケメンになれるのだから、安いものだ。

清潔感を手に入れた僕が次に向かったのは、洋服店であった。

実は僕は元々ファッションに疎い。
そういうのが好きな友人は何人も居たが、誰に「どんなのを着たらいいと思う?」と聞いても、「自分が着たいものを着ればいいよ」という答えが返ってくるだけであったのだ。
僕はその返答に、実に憤慨していた。

どうしてファッションが得意な彼らは、それを着ているだけで美女あるいは美少女が集まり、くんずほぐれつ酒池肉林の破廉恥畑が出来上がるような奇跡の着こなしを教えてくれないのか。
彼ら自身がそのような状況になっているところを見たことがないから、即効果が出るかどうかという点に関しては、まあある程度妥協しよう。
しかし、彼らの理論と、このクールなイケメンの実力を持ってすれば、渋谷のセンター街がパニックに陥る程度のムーヴメントは起こせるのではないか。
そういった可能性を考慮せず、言葉を尽くさぬ友人たちに、僕は実に絶望したものだった。

教わることができないのなら、自分で学ぶしかない。
クールなイケメンは努力を惜しまないのだ。

僕はまず、ファッションそのものよりも、人に注目をすることにした。
問題は誰に注目をするのか、という点であったが、それに関しては僕自身の直感を信じることにした。

僕が憧れた男といえば、サザンオールスターズの桑田佳祐氏である。
ライブなどではTシャツに短パンというスタイルの氏ではあるが、ソロ活動などの際にはシャツやジャケットをビシッと着こなし、実にダンディで清潔感にあふれた様相を呈している。
特に僕が素敵と感じたのは、以下のフッションである。

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そう、爽やか系シャツマンである。
個人的にはこのような

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ダーティでダンディな雰囲気が好きなのだが、そこは僕自身の楽曲の雰囲気などとのバランスを考えた結果である。
ミュージシャンがダーティでダンディな服を着るためには、ダーティでダンディな曲とメッセージが必要だ。
残念ながら清らかな心と美しい声をを持つ僕からは、ダーティでダンディな曲やメッセージは、今の所出てこないんである。

そういう訳で、大阪のグランフロントを歩き回り、地元のイオンの専門店街を歩き回り、買ってきたのがこのようなシャツだ。

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言い訳させてほしい。
先ほど記載した桑田さんのブルーのシャツは、実にシルキーで美しく輝いていることが分かるだろう。
似たようなシャツを見つけたのだが、それは平気で1万円を越える価格帯であったのだ。

それ以下の価格帯のシャツは、まるで輝いていない。
宝石やラメなどもそうなのだが、「輝き」というのは、実は想像以上に大切なことなのだ。
今までもこの「輝き」を見落としていたがために、一体何枚のシャツを買い捨ててきただろうか。

それならば、「シャツ」+「タイ」+「ベスト」というスタイルを学び、手の出せる価格帯の中で、「輝き」をまとったアイテムを選べば良いのではないか。
そう判断して購入したのが、写真左手のデザインシャツとタイであった。

逆境の中にあって活路を見出したこの判断は、クールなイケメンという触れ込みに対する期待を軽快に飛び越えてゆく、実に実践的で活動的なものであったと自負している。
一点、僕が負けたといえるのは、ベストが一着も見つからなかったということであった。

いや、実際は、見つかったんである。
しかし、どいつもこいつも1万6千円とか3万円とか、その布面積に対して一切の納得の余地のない価格帯であったのだ。

「何お前その布の量でお前ホンマお前」

イケメンも思わず愚痴をこぼしてしまう。
まあ実際は洋服の価格などは青天井であるから、この程度の価格でブーブー言うのは筋違いなんである。
そんなことはハナから分かっている。

問題は、今の予算との兼ね合いなんである。
当方としても、札束を用意できている訳ではない。
限られた予算の中で最上のものを用意しなければならないのだ。
僕は泣く泣くベストを諦め、今後の出会いに期待する決断を下した。

そういう訳で、これからも少しずつ衣装を揃えてゆくようにする。
高価なものではなく、「輝き」の有無を基準とする。
そして、色々と揺れ動いてきたが、やはり僕はシャツ・ジャケットスタイルが好きだから、その辺りを少しずつ探求していけたら、と思う。

激突!ジャミラとイギリス紳士。雨の中の攻防。


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先日出先に傘を持って行くのを忘れて、雨に降られるということがあった。
それ自体はどうということはない。
問題は、その出先で彼女様と合流する予定であったということだ。

僕は雨に濡れることが苦ではない。
おそらく前世がイギリス紳士だったのであろう。
PCなどを持っていると多少困るが、基本的にはずぶ濡れになろうが何だろうが気にしない。
それ故に、出かける時に雨が降っていなければ、傘を持ち歩くことがほとんどないんである。

それに対し、彼女様は雨に濡れることが許せない。
雨に濡れることは圧倒的に愚かな行為であって、万死に値するとさえ考えている節がある。
僕が傘を持っていないと知るや否や、千の罵倒と万の殺意を向けてくるのである。
おそらく、前世がジャミラだったのだろう。

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ジャミラ



実はこの問答は、既に何年も前から繰り返されていることである。
自分の中にない価値観を持つということは、実に難しい。
ある者がその事柄について声を荒げたとしても、別の者は同じ事柄を全く違った目で見ていることがあるからだ。

例えば今回のケースだと、僕自身は雨に濡れることは全く苦ではなく、むしろ気持ちの良いことだと思っている。
しかし前世がジャミラの彼女様は、雨や水に濡れると死ぬ、くらいのことを思っているのだ。

方や雨に気持ち良さを、方や死を感じているという状況である。
その中で僕に傘を持つ文化を与えようというのなら、まずは雨に濡れる気持ち良さを理解した上で、僕が気付いていないデメリットを差し出し、それに対する対抗策を提案しなければならない。
ただ単に自分が気に食わないからお前が変われ、という話しでは、人は変わらないのである。
(僕はウルトラマンがジャミラを放水で悶絶死させるシーンを何度も見ているから、彼女様の気持ちをある程度理解している。)

人の価値観を変えるのは容易ではない。
僕自身は最近人から悩みを相談されることが多いのだけど、その際にまずすることは、お説教ではなく理解である。

相手が何を信じていて、何を求めているのか。
それを見抜き、理解に務めることが何よりも大切だ。
それが出来れば、もう後は何もしなくてもいいというほどに、重要な項目である。

人は、分かってくれる人の言葉ならば、自ずと信じられるのである。

この日僕は彼女様から、大阪に降り注ぐ雨粒よりも多いのではないかというほどの罵詈雑言を浴びた。

どうして傘を持たないのか。
どうしてそんな信じられないことができるのか。
どうしてお前は綾野剛ではないのか。

徐々に雨と傘の話題から離れていく彼女様の言葉を聞きながら、僕は懐かしきイギリスの街並みを想った(行ったことはない)。

僕「雨に濡れることは、気持ちいいんだよ?」

彼女様「それはお前の勝手やろ。」

僕「まあそうなんだけど」

彼女様「お前これからうちに来るのに、ずぶ濡れだったら一歩も入れへんぞ。すき焼き食わせへんぞ。」

僕「本当にすいませんでした。今後このようなことが一切無いように努力に努めます。」

人は、変わる時は案外あっさりと変われる。