旅人と生中で乾杯。


Lonely girl with suitcase at country road.


およそ7年ぶりに出会った友人は、他の誰とも似ていない魅力と決意に満ちていた。

彼女とは僕がケータイ屋をしていた時に回っていた千葉の店で出会った。
実に素直でまっすぐで、当時何かにつけて斜に構えていた僕はある程度の猜疑心を抱きながらも、安心して言葉を交わせる数少ないスタッフのひとりだったのだ。

僕がケータイ屋を辞めてからしばらくは音信不通。
そのうちFacebookなんて便利なものができて、僕は彼女のアカウントにフレンド申請を投げた。

なにやら、化粧が濃くなっているなあ。
おお、この子は人生を謳歌しておるぞ。

などなど、色々なパワアを感じさせる写真が、ポツポツと落ちてきていた。
それで、昨日だ。
どうにも一度会っておきたいと思って気まぐれに「今度関西に来る時は声を掛けてね」などと軽薄なコメントを投げていたら、本当に声を掛けてくれたのだ(こういう人に対するマメさは勉強になる)。

京都から大阪に移動しているということで、僕たちはJR京橋駅の北口で待ち合わせた。
年下の女の子と待ち合わせるには何ともイカガワシイ街だけれど、交通の便が良いのだから仕方がない。

改札の出口で最近電源が落ちるようになったiPhoneを触っていると(まだ分割が半年分も残っているのに)、僕の記憶にあったよりも小さなコロコロとした女の子が、身の丈ほどもあるのではないかというリュックを背負って、重心のバランスを取るために前傾姿勢で現れた。
これほど愛嬌に満ちた前傾姿勢を、僕は未だかつて見たことがなかった。

再開を喜び合い、少し歩いて炉端焼きの店に入ると、彼女はリュックサックをどかんと降ろして、ビシッと生中を注文した。
僕も勢いにあやかり、久しぶりにビールを頂いた。

彼女の話しは実に愛と情熱に溢れていた。
中学生の頃に決意した夢のために、資金を作るべくケータイ販売の業界にいたこと。
資金が貯まり、仕事を辞めてからお遍路を回ったり日本を一周したり、カンボジアに何の当てもなく飛んで電気も通っていない村で日本語を教えてきたこと。
そのどれもが僕のスケールを遥かに超えていて、しかし彼女自身にとっては実に当たり前のことで、僕はすっかりその話しに聞き入った。

中でも度肝を抜かれたのは、お遍路の話しだ。
四国にはお遍路を回っている人を歓迎する習慣があるそうで、彼女は歩いている間、様々な人のお世話になった。
88箇所の寺を回り終えた彼女はレンタカーを借り、さらに1週間を掛けて四国をもう一周し、お世話になった方々に感謝を伝えて回ったのだという。

思うことなら、誰でもできる。
感謝を抱くことも、誰でもできる。
それを行動にして返してゆく困難を彼女は実にあっさりと超えていて、それはもう暖かい手のひらでビンタをされたような不思議なインパクトが、このストーリーにはあったのである。

その他にも沢山のことを話した。
彼女は語りつくせぬ物語をかいつまんでいくつも教えてくれたし、僕も言葉に仕切れていなかった色々なことを出させてもらった。
気がつくと3時間があっという間に過ぎていて、僕たちは会計を済ませると、実にあっさりと別れた。

人として成長をしたければ旅をしろ、という格言がある。
彼女はこれから関西を回り、台湾に文化を学びに行った後、改めてカンボジアに帰ると言った。
きっと、これからどんどんと大きくなっていくのだろう。

旅とは即ち、出会いである。
自分自身の喜びに向かい、希望に向かう限り、そこには必ずドラマが生まれる。
僕は旅人ではない。
しかし、僕自身のドラマを生きている。
そう思ってもいいのだ、とも、彼女は謙虚な言葉遣いで、キラキラとした言葉達で、僕に語ってくれた。
この出会いもまた、彼女のドラマであり、僕のドラマであるのだ。

最後に彼女との話しの中で面白いと感じたエピソードを、もうひとつだけ添えておく。
彼女は必要な資金が貯まり、そろそろ仕事を辞めたいと思った時、思うように辞められなかったのだそうだ。
そこで会社から言われた役割を、特にストレスを感じている自覚もなくせっせとこなしていたところ、ストレス性の腹痛を発症し、手術をすることになったのだという。

その後仕事を辞めて自由を生きるようになった彼女ははたと、何をすれば自分が喜ぶのか、何をすれば自分が悲しむのか、そういうことに気付いたのだそうだ。
それからはすっかり体も良く、カンボジアでお腹を下したことも、「付きものですからねー」と言って笑っていた。

人は、知っているのだ。
ただ、気付いていないだけだ。

僕らはきちんと喜んでいるし、悲しんでいる。
怒っているし、笑っている。

そのひとつひとつに気付いていくことが、『自分と出会う』ということなのだろう。
彼女とはまた会うかもしれないし、もう会わないかもしれない。
だけどきっと僕は、昨日の3時間足らずの逢瀬を、きっと忘れない。

会いに来てくれて、ありがとうね。

先の見えない土管の向こうに飛び込むマリオの狂気。


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コピーバンドには独特の違和感が伴う。
答えは実にシンプル。
「本物ではないから」だ。

コピーバンドを馬鹿にしているのではない。
僕よりも素晴らしいライブパフォーマンスを魅せるコピーバンドはたくさんいる。
また、オリジナルのミュージシャンと同等かそれ以上に、作品を演じきるミュージシャンも多くいる。

だから、「作品を作った人かどうか」ということは、「本物か偽物か」という問題の問いかけにはならない。
大切なことは、その人が自分の人生を歩いているのかどうか、ということだ。

人は、自分の人生しか歩けない。
どんなに憧れても僕は桑田佳祐にはなれなかったし、島田紳助にもなれなかった。
きっと椎名林檎にも斎藤一人にも仮面ライダーにもなれないだろう。

シューティングゲームやレースゲームの中に、FPSと呼ばれる形のものがある。
「First Person shooter」の略で、プレイヤーがゲームの登場人物と同じ視点になってゲームの世界を動き回るというものだ。
これが、実に難しいんである。

例えばスーパーマリオなら、仮にマリオの目の前に土管があったとしても、プレイヤーという第三者の視点で見れば、その向こうに不自然な穴があったり、怪しげな亀が闊歩していたりするのが見える。
しかしFPSでは、目の前に壁があると、その向こうに敵がいるのかどうかサッパリ分からないのだ。

よく人の人生を羨む人がいるが、それは第三者という視点から、人の人生を眺めているからにすぎない。
マリオだって気前よくジャンプしているように見えるが、本人からしてみれば何があるのか分かったものではない土管の向こうに飛び込んでいく訳だから、その度胸と覚悟たるや、正気の沙汰ではないのだ。

第三者には分からない苦労を、当事者は背負っている。
僕たちだってそうではないか。
僕はよく人から「落ち着いていますね」などと言われるが、心中穏やかである時の方が少ないくらいだ。
いつも、この手は失敗するのではないか、練習は不十分ではなかったか、次はどういった理由で彼女様から怒られるのか、戦々恐々として日々を過ごしている。

しかし、それをアピールしたところで、誰かが幸せになるだろうか。
黙っていればいいのだ。
人が「落ち着いていますね」と言ってくれたら、「ありがとうね」と言って、受け取ればいいのだ。
そして、「そうか、僕は落ち着いて見えるのか」などと思いつつ、脇に汗を湿らせておけばいいんである。

ステージに立つ人間としてひとつ、確信していることがある。
それは、この世の中にステージでない場所などどこにもない、ということだ。

僕たちは役柄を与えられ、それを演じて生きる。
それは主婦かもしれないし、建築家かもしれないし、営業マンかもしれないし学生かもしれない。

しかし、もっと大切な役を、その前にもらっているではないか。
例えば僕なら、『山本優作』という役を貰っているのだ。
この役には、和歌山の片田舎に生まれ、スピリチュアルな母の家系と教育と音楽の染みた父の家系の血を混ぜ合わせ、イジメに合い、万引きで捕まり、上京し失敗し心を病み立ち直りマイナスの経験を乗り越える方法をスピと理論を現実に落としながら人に伝えるというストーリーがあったのだ。

この人生のストーリーは、ハッピーエンドにもバッドエンドにもできる。
どうせなら、ハッピーエンドにしたい。

人は、色々な人から色々な役割を与えられる。
それは劇中劇のようなもので、例えばドラマ『相棒』の杉下右京の職業が警察官であるように、ドラマ『我が人生』の君の職業が、何であるかという話しなのだ。

時折「こんな仕事じゃダメだ」と、人から与えられた役割にケチを付ける者がいる。
そんなことだから、その程度の仕事しか与えられないのだ。

僕は貧乏のどん底で就職活動にも失敗した時、警備員のアルバイトで日銭を稼いで生きていた。
こんな仕事じゃあ・・・などと思い力を出し切らないでいると、どの現場に行っても嫌われた。

ある時、偶然に仲良くなった現場の監督のために一生懸命力を出していたら、その現場を任せてもらえるようになった。
仕事が終わったら一緒にお酒を飲み、将来について語り合うようになった。
毎日の仕事が楽しく、それが活力となり、当時の音楽活動や寺子屋の立ち上げを大きく後押ししてくれた。

今目の前にあることは、今懸命に掴み取るべき手がかりだ。
それは少し、手を伸ばさないと届かないところにある。
「どうしてこんなことをせんといかんのだ」とふて腐る気持ちも分かる。

だけどその手がかりは、君に掴んでもらうためにそこにあるのだ。
出来ることは全部する。
足りないものは人から教わったり、勉強したり練習したりする。
何か教えてあげられることは、惜しみなく教える。

たったこれだけのことをするだけで、人生は恐ろしく簡単に好転し始める。
苦労もある。
悩みもある。
どん底の状態から立ち上がることは実に困難で、羽ばたきたい空は遥か高く感じる。
「君にも翼がある」と歌う歌を馬鹿にしていたが、残念ながら僕も、同じようなことを言うしかないのだ。

君には翼がある。
しかし、羽ばたくにはまだ体力が足りない。
先ずは、立つところからだ。

どん底なのだから、地面がある。
今生きているのだから、生きていていいという事実がある。
死ぬべき人を生かしているほど、世界は優しくない。
君にはまだ、ストーリーが残っている。
壮大な思いと裏腹に、あまりに小さなその手がかりを、君は全力で掴み取るべきだ。

自分の人生を生きるとは、そういうことだ。
自分の役柄を演じるとは、そういうことだ。
本物になるとは、そういうことなんだよ。

自分の好きなことを見つけるための唯一の方法。


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スマホ一台で世界中の情報に触れられる時代である。
安楽椅子の探偵ではないが、行動しなくても様々なことが知れる。
知れてしまう。

膨大な情報に触れているのに、僕たちは自分の好きなことひとつ知らない。
理由は簡単だ。
「知識」はあっても、「体験」していないからだ。

例えば突然目の前にスティービー・ワンダーが現れて、人を感動させる楽曲の製作理論を語られたとしよう。
それで全ての人が名作曲家になれるかというと、そうではない。
飲み込みの早い者や遅い者はいるだろうが、いずれにせよ必ず「練習」という体験を積み重ねる作業が必要だろう。

逆上がりもそうだ。
友人が目の前でくるくる回っているのをいくら見ていても、自分ができるようになる訳ではない。

「知っていること」と「体験していること」は大いに違う。
そして今、「体験している人」が圧倒的に少ない。

平素は休日を死ぬほど望んでいるのに、休日の楽しい過ごし方を知らない。
明日からまた仕事だと項垂れる程度の休日の過ごし方しか知らないものだから、後に後悔を残す。
じゃあ何をすれば満足のいく休日が過ごせるのかというと、「知るかそんなもん」が答えである。

要は、自分という人間の実験だと思えばいい。
悔いを残した休日は、どのように過ごしたか。
朝ダラダラ起き出して、そのまま昼過ぎまでテレビを見て、ラーメンをすすりながらネットを彷徨っていたらもう夜だった。
そんな休日を悔いたことがあるのなら、ただ、同じことをしなければいい。

実に簡単な原理のこれを、多くの人が知らない。
楽しくなかったことは、自分で「もうやらない」と決めて、やらなければいい。
そして別のことをして、また別のことをして、次も別のことをしてみる。

それを繰り返すと、「こうすると自分は気持ちがいいのだ」ということが分かってくる。
ゆったりと休日を過ごしたいと頭で思っていただけで、もしかしたらジムに行ってバリバリ体を動かす方が、スッキリした休日を過ごせるかもしれないのだ。
それは、自分という人間が何に後悔を感じ、何に喜びを感じるのか、調べる実験を繰り返すことでしか知りようがない。

いつも昼前に起きていた人は、試しに夕方まで寝てみればいい。
それでつまらなければ、夜まで寝てみればいい。
その次は、朝早くに起きてみるのだ。

思考ゼロで、なんの根拠もなく早起きがいいに決まっていると言い張ることに意味はない。
全て経験して、その上で「夕方まで寝るとめちゃめちゃスッキリするんだ」と感じるのなら、それが自分にとってベストの休日なんである。
じっと自分自身を観察するのだ。

繰り替えしになるが、僕たちには圧倒的に「体験」が足りない。
経験をしたことがないことは、大量の面倒と不安を引き連れている。
人が「それはやりたくない」と言う時、多くの場合は「嫌いだから」ではなく、「不安だから」「面倒だから」という理由で、やりたくないと主張していることがほとんどだ。

だから体験が増えない。
だから上手くいかない。
だから自分が好きなことも分からない。

好きなことや楽しいことは、不安で面倒なことの中にある。
面倒なことをやればいい。
不安なことをやればいい。

不安も面倒も、風呂のようなものだ。
飛び込んでしまえば後悔することはない。
自分をじっと観察して、何をすれば自分が喜ぶのかを見極める。
それを繰り返すだけで、人が発信している刺激を口を開けて待っているだけの受け身の人生から、抜け出すことができるのだ。

以上の素晴らしい気づき胸に、彼女様に「好きなことを何でもしていいって言ったら何をする?」と聞いてみたところ、

「綾野剛のいるあったかい南の島で一日中布団にくるまっていたい」

と答えた。
布団の中に居たのでは南の島も綾野剛も関係ないではないかと聞くと、それは必要なのだという。
「馬鹿じゃないの」とまで付け足された。

自分の好きなことは、自分にしか分からない。
聞いたところで理解もできないのだ。
君の好きなことは、一体何だ。
胸を張って答えられないのなら、もう少し不安で面倒なことを、やってみた方がいいかもしれない。

虐げられる喫煙者への今後の対応。


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カフェで知的な創造活動(今朝アップした2分ほどの短い動画の訂正作業だ。3箇所もある。)に勤しんでいると、少し離れたところにある喫煙エリアからサラリーマンらしき二人組の話し声が聞こえてきた。
彼らは極端な分煙を憂いており、喫煙者の人権復興を訴えていた。

僕は喫煙者ではないが、虐げられる者の気持ちは分かる。
過去様々な者たち(「彼女様」「優秀な後輩」「近所の犬」など)から虐げられて生きてきたからだ。

中でも最も記憶に残っているのは、高校時代、数学の成績が悪く、補修を受けさせられた時だった。
教師の教え方が未熟なために貴重な青春を消費させるなど、虐げられているにも程がある。
ため息を吐きながら教室に入ると、そこには虐げられて当然と思える面々が肩を並べてゲラゲラと笑い合っていた。

理不尽に打ち震えながら席につくと、実にのんびりとした口調で全く緊張感のない喋り方をすることで有名なO先生が入ってきた。

「さぁ〜、お前ら、あ〜〜〜〜なっ、さぁ、あのぉ〜〜〜・・・補修な、あのぉ〜〜〜ちゃっちゃとな、あのぉ〜〜〜やって、な、早よ終わらせよな」

O先生は早く終わらせる気などさらさら無いに違いない、間延びの極みとも思える壮大な挨拶をされた。
計算の早い者なら、数学の問題を2問は解けていただろう。
教室の中に計算の早い者が一人もいなくてよかった。

補修は実に間延びして進んだ。
僕の通っていた高校は授業1コマが90分というシステムであったのだが、体感としてはその3倍はあっただろう。
授業は遅々として進まず、周りの連中は寝るか、喋るか、ゲームをするといった様子である。
肝心の数学に関する理解は一切深まらず、かわりに顔のシワが深まった。

今後二度とこのような目に会うまいと気合を入れて挑んでいた僕も、気がつくと隣の壁にもたれ掛かってウトウトとしていた。
この時間は、一体何なのだ。
青春を切り取られ、愚か者の集う部屋に押し込められ、聞くものといえば地方のコミュニティラジオ番組よりも遥かにつまらない数学の授業である。
これを地獄と言わずして、何と言うのか。

現実に戻ってきた僕は苦しかった過去の思い出を胸に、今まさに喫煙エリアへと追いやられているサラリーマン達に憐憫の眼差しを向けた。
彼らは職場で追いやられ、自宅で追いやられ、そして今このカフェでも追いやられているのだ。
これを憐れまずして、何を憐めというのか。

「もうちょっと、堂々と吸いたいよなあ。」

「俺なんか、何にもしてないとずーーーっと換気扇の音が聞こえてる気がするもんね。」

涙が出てきそうだ。
仕事に励み、社会に貢献し、経済活動に人生を捧げる世の男がこの有様である。
彼らはもっと救われていいのではないか。
少なくとも、喫煙という自己のリスクを伴った行為くらい、もう少し多めにみてやってもいいのではないか。

そう思い溜息をつこうとした瞬間、喫煙ルームから漂ってきた微量の副流煙が僕の鼻腔に飛び込み、そのまま肺胞機関への侵入を試みた。
僕は大いに咽せ込み、その拍子に手に持っていたiPhoneを床に落とした。
それ以降、僕のiPhoneはおよそ1時間おきに電源が自動で落ちる謎の新機能に目覚めている。
喫煙者は、今後一切の副流煙が僕の元に届かない、洋上の密閉施設などでタバコを吸うべきだ。

使命に燃える男の末路。




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僕は使命に燃える男だ。
口の中が気持ち悪く感じれば歯を磨かなければならない使命に燃えるし、ダイエットをすると鉄の決意を固めていても腹が減ると何かを食べなければならない使命に燃える。

使命とは文字通り、「命の使い方」を指す。
本当かどうかは分からないが、人は生まれてくる時、神とこの人生で成し遂げるべきことを約束してくるのだという(おそらく僕は数々の痩せたい欲求に打ち勝ってくると約束してきたのだ)。
もしそれが本当なら、神との約束である。
反故にしては、何が起こるか分かったものではない(凶暴な彼女を当てがわれる可能性がある)。

今のは箇々別々の話であるが、どうやらそれ以外に、「男だから」「女だから」といった別カテゴリーの使命というのも、どうやらあるらしい。
つまり、「男」に生まれたからには、全うすべき使命があるというのだ。

まさか男に生まれただけで全うすべき使命を背負わされているとは思わなかった。
生まれた時には懸命に働いた金を税金として納めなければならないことを知らなかったから、似たようなものなのだろう。

では、男の使命とは何か。
僕は駅の蕎麦屋で麺を啜りながら数秒間熟慮し、ひとつの回答を得た。

『男の使命とは、女を許すことである。』

例えば僕が買ってきた野菜を痛ませ、そのことが彼女様にバレたとしよう。
そうするとほぼ確実に、「痛むのが野菜でなくてお前であったならよかったのに」という意味合いのことを、実に様々な角度から追求し、言及し、千々に千切れよと言わんばかりの勢いでもって責め立てられる。
野菜を痛ませるような生命体に存在価値はないと、鉄の教育活動が開始される。

ところが立場が逆であったなら、僕は野菜を痛ませ落ちこむ彼女様を励まし、優しい言葉を掛けねばならない。
そうしなければ、「かわいい彼女が落ち込んでいるのに優しい声くらいかけたらどうだ」といった意味合いのことを、実に様々な角度から指摘し、叱責し、塵芥よりも細くなれと言わんばかりの勢いでもって責め立てられるのだ。

結局のところ僕が救われるには、

①野菜を痛ませたのが彼女様である

②彼女様の失態を全力でフォローする

③僕が綾野剛である

という3つの条件をクリアするしかない。
どうしても③の条件がクリアできず、かつて無事にこの厄災を乗り切った経験はないのだが、しかしだからといって①と②をクリアする努力を怠っては、命に関わる。

その時、僕は以前僕を執拗に攻撃した彼女様を許している。

「お前は以前僕をしこたまに罵倒したけれど、それがどうだ、この有様は。バイオハザードじゃないか。アンブレラ社の陰謀じゃないか。」

などとせせら笑いたい気持ちをグッと堪え、

「大丈夫だよ。これれくらい、みんなやってるさ。ほら、この惨劇を忘れないように、野菜たちに祈りを捧げようじゃないか。僕も付き合うよ。」

くらいの、聖人君子も裸足で逃げ出すような立派なことを言ってのけるのである。
ほぼ確実に「綾野剛でもないクセにウザいことを言うな」と言って腐った人参などが飛んでくるが、包丁が飛んでくるよりも遥かにマシである。

このようにして、僕は自分が背負った覚えのない使命を背負い、日夜戦っているのである。
僕自身の使命がどういったものなのかはまだ全く分かってはいないが、女の横暴を許すのが男の使命であることはハッキリと分かる。
許す以外の選択肢がないのだから、当然である。

ところが先日、大変なことが起こった。
買い物の帰りに彼女様が、「男だろう。か弱い彼女の持ってる荷物くらい、持ったらどうや。」などと言い出したのだ。
まさか、自分より屈強な人間に掛かる負荷を肩代わりすることも男の使命であるとは思わなかった。

僕はギターしか抱えたことのない細腕でキャベツや大根の入ったビニール袋を抱えた。
「信用できへんから卵は預かるわ。」といって彼女様が僕から生卵のパックを奪い取る。
事務所に着くと、彼女様のバッグの中でパックの中の卵が2個ほど割れていた。

うなだれる彼女様に男の使命を果たそうと近付くと、「お前がちゃんと持って行くって言ってくれたらよかったのに!」といって責められた。
あまりの横暴さにいよいよ腹の虫が収まらなくなった僕は両の目をカッと見開き、鬼の形相(平常運転である)で怒り狂う彼女様に対してこう言い放った。

「おっしゃる通りでございます。」

「使命」とは、「命の使われ方」とも読み取れる。
深い学びに頬を打たれた僕は自身に課せられた教育が一切の妥協なく終了していくとを痛感しつつ、床に滴った卵の黄身を拭き取るためにキッチンペーパーを取ろうとした。

「勿体ないからティッシュにして。」

「はい」

真の使命に目覚めると、男は、つらい。

良い音楽を奏でるためには、コンビニでレジを打てば良い。


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やることが山ほどあって、やりたいことも山ほどあって、だけどそれを実行する力が無い時というのが、人には必ずある。
一番分かりやすいのは、『お金が無い』状態だ。

僕を筆頭に、多くの人はお金持ちではない。
結婚をすると財布を妻に握られ男は小遣いで細々と生きることになるというが、僕などはまだ結婚もしていないのに、自動販売機でコーラを買うだけで彼女様から汚物を見るような目を向けられる。
これが平常運転なのだから、人の環境への順応力というのは実に驚異的である。

お金が無い状態を解決する方法は、ひとつしかない。
お金を稼ぐことである。
それしかない。
実にシンプルだ。

お金というのは仕事をすれば手に入る。
仕事とは、『仕える事』だ。
人様のお役に立つことである。
それも、明らかに圧倒的に役に立つことだ。

音楽などもそうなのだが、まず、全ては素人から始まる。
多少慣れてくると、まあ、聴いていて苦ではないレベルになる。
多くの場合、ここで明暗が分かれる。
選択肢は4つだ。

①自分が演奏したくて、人が聴きたいものを目指す
②自分は演奏したくないが、人が聴きたいものを目指す
③自分は演奏したいが、人は聴きたくないものを目指す
④自分が演奏したくなく、人が聴きたくないものを目指す


これが音活寺子屋のブログなら、

~~~~~

まあこうやって見たら分かると思うんだけど、お金になるのは①と②だけでしょ。
で、実は③の人が一番少ないのね。
みんな、人が聴きたいものを目指すんだけど、人間理解を深めようとしないから人が求めてる軸にはまれない。
だけど自分がやってることは求めれらないって思っちゃってるから、自分の軸からも外れてくる。
一番悲しい④のパターンに、本当に大勢の人が陥ってるのよ。
もしかしたら、君もね。


~~~~~

などと言うところだが、今回はもっと明確な答えがある。
つまり、仕事などというものは、実は空気のように当たり前に情熱的にそこかしこに転がっていて、それを選り好みして選んでいないということなんである。

コンビニのレジ打ちアルバイトでもいいのだ。
それを、徹底的に極める。
そうすると、上司や他の店のスタッフの目にとまる。
そこまでやってようやく、給料アップや昇級、あるいは別業界への引き抜きなど、次の人生のステップが待っている。

人生を一生懸命生きていると、必ず次のステップがやってくるのだ。
神は手掛かりを一手ずつしか与えない。
その手掛かりは、常に自分がいっぱいに手を伸ばさなければ届かない位置に現れる。

ところが、そうやって一生懸命やることを無駄だと思う者がいる。
かつての僕がそうだ。

音楽をするために上京したのだから、アルバイトなどしている場合ではない。
しかし現実問題としてアルバイトをしなければ生きていけない。
音楽をお金に換える方法を、事務所に所属して売り出してもらうこと以外に知らない。
しかし、どうにもやる気がでなくてオーディションもまともに受けていない。
そうやってどんどん自分の弱い部分、闇の感情にフォーカスを合わせていったことによって、世界は闇に飲まれ、僕は心を痛めた。

今だからこそ思うが、一生懸命アルバイトをすればよかったのだ。
一生懸命にコンビニのレジを打ち、一生懸命に新築マンションの床を磨き、一所懸命に誘導棒を持ってトラックの後ろで「オーラーイッ」と叫べばよかったのだ。

どうしてそうしなかったのか。
劇的で外的な突然の進化を、頑張らないまま享受したいと思っていたのだ。
つまり、甘っちょろいことを思っていたんである。
自分よりも年下の才能がどんどん開花してゆく中で、僕は自分の腕と心と魂を磨くこともせず、ただ周りの人がチャンスとお金と輝かしい未来を持ってきてくれることを、文句を垂れながら待っていたのだ。

今なら断言できる。
凡人が良い音楽を奏でるためには、一生懸命にレジを打てばよい。
ピカピカになるまで床を磨き、事故が起こらないように赤い棒を振り回せばよいのだ。

人は、ひとつの人生を生きている。
音楽は偉大だ。
芸術は偉大だ。
僕の仕事がら、教育も偉大であると断言する。

しかし、音楽も芸術も教育も、人間という生き物の一部である。
人として生まれて人として感じる感覚の一部である。
レジ打ちもクリーニングも警備誘導も、音楽を奏でることと何ら変わり無い。

冒頭の話しに戻る。
貧乏な人は、お金を稼ぐことに一生懸命になればいい。
仕事がないのなら、仕事を見つけることが仕事だ。
仕事を見つけたら、早くその仕事を覚えることが仕事だ。
仕事を覚えたら、その仕事で世間に給料以上の価値を返すのが仕事である。

お金がないのは、仕事をしていないからだ。
そして今やりたいことを仕事にできていない人は、他の場所に何か学ぶべきことがあるのだ。

僕は5月からミュージシャン業務を再開するが、それは昨年の活動休止以前に無かったものを学んだからだ。
人は、目の前のことを一生懸命にこなしていれば、必ず向上する。
そういう風にできている。

今僕はとある知り合いのマーケティング業務の資料作りを仕事として請けているが、パワーポイントをグリグリと弄りながら、この道のプロである社長の気遣いや仕事の流れを学び、ひとつの大きなテーマに向かってどのようなデータが何を意味するのかを学んでいる。
その結果歌詞のまとめ方や、自分の商売を押し出していくためのプロセスに新しい情報が流れ込み、脳の中でスパークする。

ギターなど置いて、働けばいい。
金を稼げば、良い音楽が鳴るようになる。
音楽は本来、イメージの世界で鳴り響いているものなのだ。
イメージすることを止めなければ、音楽は絶対に劣化しない。
劣化するのはいつでも、自分が手を抜こうとする自分自身なのだ。

働くことで停滞するものなど、何もない。
10年掛かるのなら、10年掛ければよい。
そのことに今気付けば、10年後にはなんとかなるのだ。
1年引き伸ばせば、11年掛かることになる。

この劇的な気付きを得た僕は得意満面、彼女様に働くことの尊さを説くことにした。
毎朝仕事に行くのが面倒だとブーブー垂れているあの女にも、その仕事がいかに自分自身を輝かせることに繋がるか、気付かせてやる必要がある。
しいては、仕事を通して人に優しくすることを学び、僕に対する罵詈雑言および本ブログには記載しきれない暴力の数々が、少しでも和らげばよい。

一通りの話しが終わると、彼女様は珍しくキラキラした目でこちらを見た。
初めて外国人と話した時に付け焼き刃の英語が通じた時のような感動を覚えた僕は、ようやく言葉が届いた感動に打ち震え、神に感謝した。


彼女様「今稼いでんの?そしたらほら、欲しいコートがあんねんけど!可愛い彼女が!コートを欲してるんですけど!」

一点訂正する。
一生懸命にやっても、変わらないものもある。

双竜の掌を持つ女と、うずくまるイケメンの苦労と努力。


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僕はバランスを追い求める男だ。
左の頬を殴られたら右の頬を差し出せとイエス・キリストも言っているが、まさにそのような精神性を持った男である。
そして僕の彼女様は、目にも留まらぬスピードで左右の頬を同時に攻撃する技術を持った女である。

僕は講師業をしている関係もあって、よく人が何かに取り組む場面に立ち合う。
それはギターであったり音楽活動であったりするのだが、ほぼその全てに共通しているのは、上手くいっていない人、上手くいかない人というのは、バランスが悪いということだ。

例えば、「何でも先生の言うことを聞きます!」という生徒が居たとする(実際そんな夢のような生徒はいない)。
そんな一件素晴らしく見える生徒も、バランスが悪い。
何が悪いかというと、講師を疑う視点というものを持っていないのだ。

講師と生徒というのは、いわゆる仕事を請ける側と発注する側である。
本来であれば、生徒が「この講師の言うことは信用ならない」「もっと良い講師がいるかもしれない」「最近なんだか顔が気に食わない」などという理由を見出せば、この受注関係は無に帰すものである。
元来そこには、「ちょっとでも役に立たないこと教えてみろいつでも辞めてやんだかんな」という緊張感があって然るべきである。

ところが、時折講師の言うことを鵜呑みにし、その緊張感を一切醸し出さない人がいる。
これが、実は危険なんである。
その緊張感があるからこそ、講師は全力で教えるし、場合によっては全力で調べる。
当然、今までの知識やノウハウも一切出し惜しみをしない。

「先生の言うことは何でもかんでも一切合切信じます!」というのは、そういった意味で実にバランスが悪いんである。

先日とある後輩がギターのアレンジを教わりたいと言ってきたので、カリスマ講師として指導に当たっていたところ、途中からなぜか心の話しになってきた。
僕はギターをそっちのけで、若きミュージシャンに熱弁を振るった。
これ以上ギターで教えられることがなかったから、必死だった。

そのうち、後輩が目に涙を浮かべはじめた。
「どうしてこんな話しを聞かされなければならないのか」という不条理に対する涙かと思ったら、僕の話しに感銘を受けたのだという。
不条理に涙を呑む機会が多い僕にとって、新鮮な回答だった。
しばらくの間は彼の涙が信じられなかったくらいだ。

彼は、優しい男であったのだ。
それ故に、「戦う」という意思を持っていなかった。
だから、そこでバランスが崩れていたのだ。

これは本心でもありテクニックでもあるのだけど、人に1つ何かを気付かせてあげるためには、その他の苦労や努力を全て理解して心から労わなければならない。
彼は今まで人に黙っていたことを全て僕に見透かされたといって、大変驚いていた。
ようやく僕のことを理解してくれる人が現れたのかと、僕自身も別件の涙が溢れるかと思った。

「だから僕は、彼を激励して、感動の渦の中で、僕らは別れたんだよ。」

そう言うと彼女さまはただでさえ鋭い眼光をさらに険しく尖らせて、僕の心臓を握りつぶすかのような声でこう言った。

「で、その子は生徒になったんやろな。」

その質問に対し軽薄にもお金が欲しくて彼に心を説いたのではないと主張したところ、それを言い切る前に左右の頬に衝撃が走り、目の前に火花が散った。
顔を覆ってうずくまる僕の苦労と努力を理解して労ってくれる人は、まだ現れない。
世界は実にアンバランスだ。

世界を叩くハンマー。


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老朽化した金網を建て直すためには、基礎から壊して作り直さなければならない。
大きな公園の中央に設けられたグラウンドはおよそ二ヶ月間の間黄色いバリケードに囲われていて、その中からはキャタピラやショベルが軋み唸る音が、ずっとずっと聞こえていた。

ある日、そのグラウンドに沿った歩道を歩いていると、ちょうど金網を支える鉄柱の基礎を作っているところだった。
大きく掘り返された地面の底には木の枠で型が作られていて、その中にドロドロとコンクリートが流し込まれていた。

その、まさしくコンクリートが流し込まれているシューターの先端で、疲れ切ってくすんだ顔のおじさんが一人、作業着を汚しながら黙々と作業をしていた。
コンクリートは、ただ流し込むだけでは中に空気が入ってしまって、固まった時の強度が下がる。
その空気を抜くために、おじさんはせっせと木の枠をハンマーで叩いていたのだ。

穴の上から見下ろしている現場監督があれやこれやと指示をする。
実に淡々と、見ていてこちらが申し訳なくなるくらい、明らかに自分よりも年長者のおじさんを顎で使っている。
そもそも現場監督と作業員とはそういう関係であるのだが、僕が現場で働いていた終盤に出会ったM本監督は、実に作業員の立場に立ったものの考え方をしてくれる人だったから、はやりそこには大いなる違和感があって、しかしその違和感も、今この場で声高らかにその場のおじさん達にぶつけるというのは、明らかに余計なお世話であった。

作業員のおじさんは黙々と木の枠を叩く。
コンクリートが飛び散り、おじさんの頬をさらに汚す。
穴の上から監督が何かを言う度、おじさんは自分のペースを乱されて、手元が慌てる。
それを見た監督がまた語気を荒げて何かを言う。

僕はいたたまれなくなって、そそくさとその場を立ち去った。

昨日、出先から帰ってきた時のことだ。
件の公園の通りを自転車で颯爽と駆け抜けていると、あのグラウンドは新たな金網でもって見事に生まれ変わり、サッカーに野球にと勤しむ子供たちを包み込んでいた。

大きな穴があったところは見事に埋められていて、そこからは立派な鉄柱がそびえ立っている。
ジグザグに並べられたカラーコーンの向こうで、何人かの少年が帽子を脱いで大人の話しに耳を傾けている。
よくテレビなどでこういう光景を写して、

「ここから未来のスラッガーが」

などというナレーションを入れることがある。
テレビとして、夢を抱かせるのは大切なことだ。

しかし、それはやはり野暮なのではないかとも思う。
今ここで走り回り、自分たちを応援してくれる大人の情熱に触れている子供たちを見ていると、そんな立派なものにならなくても、今この瞬間に十分な価値があるのではないかと思うのだ。

そしてふと、僕は思い出したのだった。
あの木枠をせっせとハンマーで叩いていたおじさんが、この鉄柱の根元にいたことを。

おじさんはとても孤独に見えたが、おじさんの仕事はこうして今に繋がっている。
おじさんは実感していないかもしれないが、おじさんは確かに世界と繋がっている。

もしかしたら、作業員はあのおじさんでなくてもよかったのかもしれない。
だけど結論として、あのおじさんが叩いたコンクリートが、今大勢の人を包み支えている。

毎日は酷く平凡で退屈で、それでいて困難なものかもしれない。
だけれど、それでも僕たちは、こうやって自分の目には触れないところで、誰かと、世界と繋がっている。
それを教えてくれる人は少ないけれど、少なくともそれが「仕事」であれば、誰かがその仕事で得をしているから、その「仕事」が成り立っているのだ。

パンの中に毒を入れなくても、威嚇して相手を打ち負かさなくても、自分のアイデアが退けられたとしても、僕らは必ず世界と繋がっていて、何らかの影響を与えている。
そのことをぜひ、覚えておきたいと思った。

生まれ変わったら何になりたい?


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人は時折、「生まれ変わったら何になりたい」という話しをする。
男性諸氏はこの時「美女の自宅の便座」と答えるだろうが、美女の自宅には高い確率で美男子が現れる。
軽薄な判断は来世にも悪影響を及ぼすことになるから注意が必要だ。

このように、人は物事の本質を見誤ると取り返しのつかない失敗を犯す。
「生まれ変わったら何になりたい」という質問が、一体何を意図して投げかけられているのか、どのような状況で投げかけられているのか、誰から投げかけられているのかで、答えはまるで違ってくるのだ。

仮に職場の休憩室などで男性の同僚に「生まれ変わったら何になりたい」と聞かれたとしよう。
この場合、その同僚は高い確率で疲れている。
そんな時は多少真面目な顔をして、

「また、お前の同僚になりたいよ。」

くらいのことを言うべきなのだ。
美女宅の便座になりたいなどと言った次の日に彼がビルから飛び降りたのでは、あまりにも切なすぎる。

それでは、女性の後輩から「先輩は生まれ変わったら何になりたいですか」と聞かれたとしよう。
軽薄なる男性諸氏は若干のトキメキを感じるかもしれないが、勘違も甚だしい。

このケースでは、後輩女子はほぼ100%の確率で実に単純に興味本位に何の裏表もなく額面通りの情報を求めているのだ。
何か立派なことを言っても大した「ふ〜んそうですか」とつまらなそうにされるのがオチだし、調子にのって「君の家の便座になりたい」などと言ってしまったら、最悪の場合社会から追い出されてしまう。

妙な下心など持たず、素直に感じた通りを語れば良い。
思いつかない場合は、「不倫ドラマに出れるような艶っぽい俳優になりたいなあ。」などと言っておけば、とりあえずあと1ヶ月くらいは受けるのではないだろうか。

最も注意すべきなのは、自分の恋人や妻から「生まれ変わったら何になりたい」と聞かれた時だ。
恋人の場合はまだしも、戸籍上夫婦となった女からそういうことを聞かれたら、預かり知らぬところで生命保険への加入手続きが終了していると見て間違いない。

まず敵の手に刃物が握られていないかどうかを確認し、何もなければ徒手空拳に備えて受け身の態勢を取る。
包丁の一本でも握られていたなら、一刻も早く頭を下げ、片っ端から怒られる心当たりの案件を陳謝する他ない。

ここで、「何ビクビクしてんのよ」などと言ってにこやかにされても、油断してはならない。
毎日の食事に何を盛られているか分かったものではないからだ。

生命保険への加入直後の事故では、あまりに不自然である。
1年から2年をかけ、ある程度良好な夫婦関係を装ってから犯行に及ぶ可能性もゼロではないのだ。
かといって、出された料理を食べないというのは、これもまた別件の恐れにより実行不可である。
結婚というのは、男の展望と退路の両方を同時に断つ、実に悪魔的な儀式であると言えよう。

以上のように、「生まれ変わったら何になりたい」という質問ひとつとってみても、常にその質問の真意や本質を見抜こうとする眼力の有無で、男の将来は大きく左右される。
男は自分が軽率だと分かっているのだから、軽率なら軽率なりに、頭を使う必要がある。

ところで、先日彼女様に「生まれ変わったら何になりたい」と聞かれてまだ答えられていないのだけど、未だに何と答えるのがベストなのか、分からずにいる。
何と答えれば、少しでも穏やかに長生きができるだろうか。

愛に生きる男の苦悩とベランダのガラモン。


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僕は愛に生きる男だ。
愛に生きるとは、許して生きるということである。
許さなければ、戦ったところで勝ち目のない人生を生きているのだ。

許すべき案件は多岐に渡る。
彼女様の暴力に始まり、僕が乗り込む直前に電車のドアを閉めたJR東西線の車掌や、気分よく歩いている時に足の小指をぶつけた事務所のホワイトボードの角など、数え上げると枚挙に暇がない。
そしてそのどれもが、訴訟を起こしても敗色濃厚である。
ホワイトボードに至っては、法的に訴訟を起こす機会すら与えられない始末だ。

先日コンビニで昼食の麻婆豆腐丼を買った際に、レジの店員が箸を付けてくれていなかった。
僕がそのことに気付いたのは、レンジでグツグツに温めた麻婆豆腐丼を公園で開けた、その時であった。

人は、そこにあって当たり前と信じていたものが無いとなると、実に大きな衝撃を受けるものだ。
落とし穴にハマる人は皆、自分が落ちていくことではなく、床がなかったことに驚くのである。
ボコボコと沸騰する麻婆豆腐丼を膝の上に乗せ、アチチなどと言いながら僕は、それはそれは筆舌に尽くしがたい虚無感を味わっていた。

この時点で、僕には選択肢が2つあった。
①さっき麻婆豆腐丼を買ったコンビニまで戻り、箸をもらう。
②事務所まで戻り、自分の箸を使う、である。

①は早々に却下した。
コンビニの店員が僕を見て、「こいつは素手で麻婆豆腐丼を食べそうだ」と判断した可能性があるからだ。
今からさっきの店に戻って箸の不在を言及した時に、「箸使うんですか!」などという顔をされた挙句中途半端に冷めた麻婆豆腐丼を食べるのは、いくらなんでも心に染み過ぎる。
場合によっては、「僕はあなたが箸を使わない人だと信じていたのに!」と一方的に理解し難い主張を投げつけられる可能性もゼロではない。
そんな新人類と出会う元気は、丼の蓋を開けてから箸の不在を知った僕には、残されていない。

となると、僕の選択肢は自ずと②の一択となる。
せっかくグツグツに温まっている麻婆豆腐丼がまさしく口惜しいが、事務所にも電子レンジがあるから、温め直しは可能である。
僕は腹の中に渦巻くコンビニ店員への怒りを感じつつ、麻婆豆腐丼をビニール袋に戻して歩き出した。

少し歩いたところで、突然物陰から自転車にまたがったおばちゃんが現れた。
ポケモンで戦闘が始まる時は、きっとこんな感じなのだろうなと思わせてくれる程度には、あまりにも突然の出来事であった。

信じられないかもしれないが、大阪のおばちゃんは、自分の自転車の前には絶対に誰も現れないと信じている節がある。
僕の彼女様も自転車に乗ると人格が豹変するから(悪鬼から羅刹になるのだ)、これは土着的な宗教に近いのかもしれない。

とにかく、そんなおばちゃんが飛び出してきたものだから、僕としてはたまったものではない。
おばちゃんの自転車はけたたましいブレーキ音を立てて止まり(手元がカバーで隠れていたから、実際にブレーキを握っていたかどうかは定かではない。もしかしたら、おばちゃんの叫び声だったかもしれない。)、僕を数十センチ吹っ飛ばした。
当然、一蓮托生の関係であったビニール袋も、数十センチ吹っ飛んだ。

「あーびっくりした」

おばちゃんの感想が素直すぎてびっくりした。
自転車に乗っていた自分が歩行者の脇腹に突撃したのだから、普通は謝るのが先ではないか。
僕は体を起こし、毅然とした態度でこう言った。

「すいませんでした。」

愛深く陳謝の姿勢を見せる僕に、おばちゃんはようやく「大丈夫か」と気遣いの言葉をかけた。
僕の体は大丈夫だ。
しかし麻婆豆腐丼が入ったビニール袋は少し離れたところに転がっていて、うっすらと見えるビニールの中の器は、先ほどまで僕の膝の上に居た彼とは明らかに違う角度で、大阪の大地にその身を預けていた。

「大丈夫です」

それ以外にどう答えろというのか。
これからこのおばちゃんが僕の事務所に来て麻婆豆腐丼を作ってくれるとでもいうのか。
そんなものばかり食べてちゃダメと、キンピラごぼうを大量に作ってストックされるのが落ちである。

走り去るおばちゃんのたくましい背中を視界の隅に捉えつつビニール袋を持ち上げる。
紅い。
明らかにビニール袋の内側が紅い。
なにやら豆板醤的に紅い。
きっと表面のラー油が少し溢れただけさと指で触れてみると、そこには明らかに半固体的な質量が感じて取れたのだった。

春の日は柔らかいが、街吹く風にはまだ冬の名残がしがみついている。
それは僕の手元の不本意の塊からも刻一刻と温もりを奪い、どこか遠い空の向こうに連れ去ってしまっていた。
僕の麻婆豆腐丼(元)の抱いていた熱量が、どこかの美女が干している下着の間を通り抜けることを心から祈っていると、近所の家のベランダに、ガラモンのようなおばちゃんが現れて布団をバンバンと叩き始めた。

愛の男はきっとその時、泣いていたのだと思う。