批判しない男と滑空生物に魅せられた凶暴な女。


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とある識者の言うところによると、警察署で死刑を受けた受刑者は執行の瞬間に自分の行いを鑑みて反省しているかというと、そうではないという。
むしろ自分の身を守るために行動を起こした結果がこのザマだ、といった風に、自らの行動は正当であると主張する方が多いのだそうだ。

とある識者というのは、ドール・カーネギー。
ご存知の方も多いだろうが、世界的に有名な『人を動かす』という書籍の冒頭は、このような話題で幕を開ける。

僕たちには自分の行いを正しいと信じようとする性質がある。

ゴルファーのタイガー・ウッズが不倫騒動を巻き起こした時、騒動の後で彼は「今までこんなに頑張ってきたんだから、許されると思っていた」というコメントを残している。
実際にゴルフを頑張ってきたことと不倫をしてもいいかどうかということは全く無関係だ。
しかし彼の中では不倫を楽しむための理由として、ゴルフを頑張ってきたことが選出され、「こんなに頑張ってきたのだから」と自分を納得させていた。

あるいは音楽仲間の間では、音楽では食っていけないことを正当化するために「世間の連中は聴く耳がない」「日本の芸能文化はレベルが低い」といった理由を持ち出す者が多い。
しかし、「音楽を楽しむこと」と「音楽で食っていく」ことはまったく別のことだ。
売れない自分を正しいと思うために世間が間違っていると信じようとするというのは、他の業界でも失敗する者に多く見られる傾向である。

『人を動かす』の中ではこの人の性質を知って、相手のことを批判・非難しないと第一項を締めくくる。

死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえおればよろしい。
その批評が当たっていればいるほど、効果はてきめんだ。

という一節が、実に印象的である。
この一節を読んでから、僕は自分の身の回りの人物、特に彼女様を否定するようなことは一切言うまいと心に誓ったのだ(これ以上恨みを買ったら命に関わる)。

その彼女様から昨日突然、こんなことを言い渡された。

彼女様「明日からお前の事務所でモモンガ飼うから。」

僕「何言ってるの?」

彼女様「お前の事務所でモモンガ飼うから。」

僕「何?え?え?」

彼女様「モモンガ」

僕「どうして?多角的におかしくない?なんで突然モモンガ飼うの?うちで?」

彼女様「昨日行ったカフェでモモンガ里親募集しててん。」

僕「君の実家の君の部屋で飼えばいいじゃないか。もうチワワも2匹いるし、変わらないじゃないか」

彼女様「家族から猛反対を受けました」

僕「僕の猛反対は猛反対と認定されないんですか」

彼女様「だってモモンガかわいいやんか」

僕「僕まだ見てないもの。モモンガの形状とかディティールとか、全然頭にないもの。」

彼女様「ロフトに上がる階段の下のスペースとか、モモンガのための空間にしか見えんかってん。」

僕「もしかして僕が姿見の鏡置いて朝のオシャレするために使ってる空間のことですかそれ」

彼女様「演奏の動画撮ってる時にモモンガが画面を滑空して横切ったりしたらほら、斬新」

僕「新し過ぎてもうそれ音楽じゃなくなるから」

彼女様「夕方に迎えにいくから、時間作っとけよ」

僕「えっ」

彼女様「さっき正式にカフェに連絡いれました」

僕「えっ」

彼女様「名前はキャシー」

僕「えっ」

彼女様「モモンガ可愛いからしゃーないな」

僕「」

人を批判することは簡単だ。
だが批判された者がどのような感情を抱くかということを、僕たちは忘れてしまう。
人を批判しないというだけで、僕たちは良い感情に囲まれて生きていける。

しかし人を批判しないでいすぎると、ある日突然モモンガを飼うことになるから油断ならない。
読者の皆様も、十分に気を付けていただきたい。

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こちらが電話の後で送られてきたキャシーの写真。
あれ・・・可愛いぞ・・・

幸せのゴボウ。


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音楽を聴くときは、耳に意識を集中してはいけない。
リラックスして、心をフラットなところに置いて、そこで自分の中に注がれる音をただ静かに観察する。
すると、雑念まみれで聴いていた時とは比べものにならない量のサウンドや言葉がするするっと奥まで入ってくるものだ。

この「心をフラットなところに置く」というのは、あらゆる場面で重要なテクニックだ。
よく「視野が狭い」と言われる人たちは、往々にしてこれが出来ていない。
物事に何らかの意味付けをしながら受け取るクセがついているのだ。

例えば僕の場合だと、どんな音楽を聴いていても自分よりも劣っている部分を必死で探していた時期があった。
自信の無さを、他人との比較で埋めようとしていたんである。
必死で自分よりも劣っている部分を見つけて安心しようとしていたんである。

しかし、それをしようとすればするほど自分よりも優秀な部分が耳について、大変に苦しい思いをする。
それを無視して「あいつは○○が××だからダメだよ」などと言っていていも、それはそれは息苦しい。
終いには、自分の作品を作っていても他の人よりも劣っている部分が見えてきて、何も作れない、楽器を触るのも辛い、という状態になる。
自分から地獄の釜に飛び込んでいるのに、そのことに気付いていない。

よく言われる話しだけども、他人と何かを比較している内は、僕たちは幸せにはなれない。
生まれながらに勘が鋭く「才能がある」と言われる人は実在するが、そういう人と出会った時は、神の采配で素晴らしいサンプルが目の前に現れたのだと思えばいい。
眩しい光に目を閉じず、一体何がどう輝いているのか、自分が輝くためにはどういった部分が参考になるのか、じっくりと見つめるとよい。

人との比較クセを辞めるために、ひとつ、どうしても覚えておきたいことがある。
それは、

自分の人生で起こることは、全て自分の人生を素晴らしくするべくして起こっている

ということだ。
ハッキリ言って、実際そうなのかは分からない。
しかし、目の前の出来事が絶望の種だと信じることも、希望の種だと信じることも、方向が違うだけでやっていることは同じである。
幸も不幸も思い込みなのだから、幸せな思い込みをして、ハッピーに生きればいい。
わざわざ自分が苦しい生き方を選ぶというのは、いわゆるひとつのアレだ。変態。

「才能ある人との出会いも、愛の無い人の攻撃も、辛い経験も嬉しい経験も、今この瞬間に起こっている出来事全てが自分の人生をもっと良くするために起こっている」ということにする。

最初は言葉だけでもいい。
何年も掛けてせっせと育んできた不幸思考は、1日は2日では抜けない。
まあ、1週間くらいあれば抜けてくるんだけど。

ともかくとりあえずそういうことにして、じっと考えるんである。
その場では辛くても良い。
後から一手間掛ける。

例えば僕は、たまに嫌なヤツに出会うと、自分の周りの人がいかに良い人ばかりなのかということを噛み締めて喜んだりするんである。
そして、そのことに気付かせてくれたのはその嫌なヤツであったと気付くと、やはりこの世は僕のために回っているのだと、ただただ確信を深めるのだ。

この一手間を惜しんで、人は不幸になる。
落ち目の自分という幻想に取り付かれ、自尊心を守るために人との比較に走る。
渦巻く劣等感をひた隠すために過激な攻撃をしたり、自分を傷付けたりする。

この一手間を惜しんではいかんのだ。
根本的に、人はネガティヴなんである。

「今この瞬間に起こっている出来事全てが自分の人生をもっと良くするために起こっている」

というのは、何度も言うが、そういうことにするという意思が必要なんである。
ゴボウも梅もレモンも、そのままではとても食べられなくても、何かしら一手間掛けると美味しくる。

家の庭にゴボウが生えているのなら、いかにそれを美味しく食べるかを考える。
隣の家の庭にトマトが生っていると言って文句を言っていても、ゴボウは美味しくならない。
美味しいゴボウ料理が作れるようになったら、隣のトマトと交換してもらえたりもするのだ。

手を抜かない。
これ、大事。

語尾の曖昧と立場の違い


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僕は本を読むのが大好きだ。
やらなければならないことが大量にあるために本の虫になろう、ということは難しいのだけど、時間さえあれば一日中でも本を構えて暮らしていたい。

読むものも、最近はビジネス書が多いのだけれど、長編小説からライトノベル、エッセイや古典や自己啓発関係など、様々だ。
そういう風に読書を楽しんでいると、ある日ふと気付くことがある。
どうにも、嫌いな作家というが、やはり僕にもいるらしいということだ。

僕が嫌いな作家第1位は、ダントツで脳科学者の茂木健一郎氏である。
予め言っておくと、僕はテレビなどに出演している茂木氏のことは決して嫌いではない。
ところが本になって読み進めてみると、これが実にイライラとするんである。

どうしてだろう?と思いじっと見つめていると、氏の本は「〜と思う」や「〜ではないだろうか」といった、曖昧な語尾を多用していることに気づかれた。
まるで普段の僕のようだ。
これだ!と膝を打った僕は、そこに自信の嗜好のベクトルを見出した。

主義や主張は、間違っていてもいい。
テキストに起こされて、あまつさえ本などという説得力の高い媒体にされる文章なのだから、断定して欲しいんである。

語尾がぼやけると、主張がぼやける。
結論の輪郭が曖昧になれば、ここで立場の違う人からの反論を受けづらくなるかもしれない。
しかし、僕にとって読書というのは、本の表面上の情報だけではなく著者の人となりや人生観や価値観を想像しながら楽しむものであるから、あるいは、自分にとって必要な情報のみを拾い上げる作業であるから、曖昧な語尾で輪郭を崩されると、これが実に受け取りづらいんである。

・・・例えば今回の僕の主張も、

「語尾を曖昧にすると、受け取る人にとって、なんだかハッキリしないものになってしまうかもしれません」

などと言っていては、実に説得力のない情けない文章になってしまう。

だから、僕個人としては断定的な文章を愛するし、自分でもそのような文章を心がけている。
批判が怖くないのかと言われることもあるが、そもそもテキストというのは万能ではない。

そのことも分からず、著者と自分の立場の違いも理解せず、日々のフラストレーションを発散する機会として振るわれる批判など、相手にするだけ時間の無駄である。
このロクでもない批判を恐れて、一体どれだけの人が本来の実力を発揮せずに死んでいくか分からない。

何かを主張して批判されるのは怖いかもしれない。
しかし、主張をしないでおいたところで、その批判人が自分を養ってくれる訳でも、応援してくれる訳でもない。
彼らは批判の対象を躍起になって探しているだけなのだ。

という訳で僕の主張は以上なのだけど、それもまあ茂木氏のあの文体が好きな人がいるということも十分に理解している。
でなければ、大勢の人が関わる本という媒体(出版の敷居は低くなっているという噂だけど)で発売されるようなことはないだろう。
もちろん、茂木氏の知名度とか、そういうのはあるだろうけれど。

もしかしたら、僕もこの記事で何らかの反論を受けるかもしれない。
しかし、それはもしかしたら僕とあなたの立場の違いや、あなた自身の中に日頃の鬱憤的何某が溜まっているだけかもしれない。
それは本来、別の場所で決着を付けておいた方がいいことだと思う。
だから最後くらいは茂木氏に習い、曖昧な語尾で主張の輪郭をぼかして逃げ出そうと思うのだけど、これで本当に批判を回避できるかどうか分からないかもしれない。

努力が報われないのは正しい生き方をしてるから。


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終始怒鳴り続けていたその男は、全力を上げて自分に都合の良い世界を求めていた。
似たような話しを繰り返すな、そんな話しはどうでもいい、馬鹿にしてるのか。
男の周りの人は皆辟易として、もう疲れた顔もせずに、ただ粛々と嵐が通り過ぎるのを待っているように見えた。

「引き寄せの法則」というものを聞いたことがあるだろうか。
ナポレオン・ヒル的に言うと「思考は具現化する」という法則である。
よくスピリチュアルな表現で語られることが多いので嫌う人が多いのだけど、僕は希望を持って信じている。

怒り、怒鳴り、騒ぎ散らしていたあの男は、一体何を引き寄せていたのか。
それは、「劣等感を刺激する出来事」である。

自信が無い時、人は大きな声を出し、言葉数が増える。
それは目の前の出来事や人物と相対する勇気がなく、大騒ぎをすることでその不安や自信の無さを誤魔化そうとするからだ。

ただそんなことをされても、それが仕事であったなら、伝えなければならないことは伝えなければならないから、周りの人間はウンザリした顔で言葉を投げる。
そうすると劣等感レーダーが異常に過敏な者は、「ウンザリした顔」だけは敏感に感じ取って、さらに騒ぐ。

劣等感を誤魔化すための騒ぎが、より自分の劣等感を刺激するような出来事を生み出す。
それを感じ取ってさらに大騒ぎをすると、本当に大切なことを聞き逃し、さらにさらに劣等感に響くような出来事に繋がっていく。
こうやって、人の話しが聞けず、中身の無い主張しかできず、人に構ってもらえない、寂しい人生が出来上がる。

実は、僕はこの件で大変なダメージを受けた。
周りの人は上手く流せていたのに、僕だけが実に大きく心をかき乱されたのだ。

それまで仕事で関わる全ての人に「愛してるよ!」という掛け声を心の中で叫んでいた僕は、愛だの何だの言っていても、愛を与えるに値しない者もいるのだと、そう言って拗ねたくなった。

生きていると、こういったことが度々起こる。
僕はこれを「神様の試験」だと思っている。

「お前は、愛で生きるのね。あ、結構本気なのね。それじゃあ、こういう人もいるんだけど、どうする?」

こんな塩梅で、ポンと試験が降りてくる。
突然に、唐突にやってくる。

人によっては、これを見て「俺は努力しても報われねえんだよ」と言って腐ってしまう。
実際僕も腐っていたことがある。

そして、腐ると、遅かれ早かれ「やり直し」を食らう。
それは「退職」だったり、「病気」だったり、「何かの破綻」だったり、まあ色々な形で、

「ん〜、やっぱりもうちょっとここやり直そうか」

という感じで、やってくる。

だから何かが起こったら、この問題は、試験なのだと思う。
自分が新しいステージに行くための、乗り越えるべき課題なのだと考える。

試験だから、そこには必ず「問い」がある。
試験をクリアする第1ステップは、その「問い」が何であるかを見抜くことだ。

僕は、胃袋を締め上げる感情を上手く処理できないまま、暫く悶々として歩き回っていた。
そのうちに一人ではどうにもできないことを悟り、恐る恐る彼女様に話しを聞いてもらった(このツケがどれほど高くつくかを想像すると胃が痛くなる)。

するとどうだ。
まるで風穴でも空いたように毒気はするすると解れていって、終いには随分と有難い気付きに辿り着いていた。

実は僕は数日前、あるインタビュー動画の編集中に、「僕どうしてこんなに無駄なこと沢山喋ってるんだろう」という疑問にぶつかっていた。
そう、先ほどの「劣等感」の話しが、自分の中に繋がったんである。

あの不憫な男は、僕の写し鏡であったのだ。
その場に居合わせた多くの人のうち僕一人が大きく心を乱されていたのは、その男が僕のために登場した、「試験」そのものだったからである。

それまでぼんやりとしていた「問題」の輪郭が、とても鮮明になってきた。
同時に、そんな僕にライトを当てようとしてくれていた仲間達への感謝が、後から後から湧いて止まらなくなった。

具体的に何ができるのかは、まだ分からない。
ただ僕の劣等感の原因が何であれ、次に自分が言葉で壁を作ろうとした時に、「いいんだよ」と自分に言ってやれる、それだけで大きな成長である。

努力は報われる。
ただし、「報われているのだ」という確信を持つ必要がある。
「報われている理由」は、自分で勝手に決めてしまえばいい。

努力は報われない。
ただし、「報われないのだ」という確信を持つ必要がある。
「報われない理由」は、やはり自分が勝手に決めているものだ。

神様の試験は、今日も誰かの身に降りてきている。
もしかしたら、君の身に降りてきているかもしれない。

大変だと思う。
それまでの自分を否定されるような気持ちになるかもしれない。
もう何もかも嫌になって、投げ出したくなるかもしれない。

だけど、負けない。
「まいった」をしない。


人の力も借りて、自分の心と向き合って、まずは解くべき「問題」を見定める。
見つけたら一点集中して、その「問題」と向き合う。

今回の件で、僕は「愛の人」になる決意と確信をさらに深めた。
試験に合格した後には、驚くほど清々しい朝がやってくる。

あの男のことは、ひっくり返ったって好きにはなれない。
もう二度と会いたくもない。
しかし、あの男が居なければ、僕は今日の決意と確信を抱くには到底至らなかったに違いない。

人生とは、僕たちが思っている以上に、バラ色なんである。
不安になる必要はひとつも無い。
不安があるとすれば、今回彼女様に話しを聞いてもらったツケが、今後どれほどに利息を重ねて膨れ上がるのかということぐらいだ。
ある日僕が突然痩せ衰え朝も夜もなく働き始めたら、取り立てが始まったのだと思ってもらって間違いない。

脳と世界のただならぬ関係〜美女よ来れ〜


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ドラマーとヴォーカリストでは、同じ曲を聴いていても全く違う聴き方をしている。
ドラマーはドラムをよく聴いているだろうし、ドラムに絡む要素をよく聴いている。
ヴォーカリストは歌と、それに絡む要素をよく聴いている。

何に興味があるのか。
何に楽しみや気持ち良さを感じるのか。
何を見つけようとしているのかで、音楽ひとつの聴き方も異なってくる。

人は常々常在的に自分が望むものに無意識にフォーカスを合わせて生きている。
分かりやすいのは仕事関係のもので、例えば僕はケータイ屋をやっていた時は、街を歩けば販売店や展示の仕方、接客やカタログの情報など、色々なものが気になって、目に入ってきていた。
それはつまり、「僕はケータイ屋だから」という自覚の上で、自分にとって「当たり前」の情報を選び取っていたということだ。

「幸せ」と「不幸せ」にも同じことが言える。

自分が「幸せ」だという自覚の上で生きている人は、自分にとって「当たり前」の情報、つまり、「自分が幸せな理由」をこの世界から切り取る。
自分が「不幸せ」だと自覚している人は、その逆をしているということだ。

カウンセリング業界や自己啓発の業界では「今この瞬間にあなたは幸せ」というフレーズを連呼するのだが、それはつまり、「自覚の矯正」、あるいは「ポジティブな自己洗脳」をしているということである。
脳科学者の茂木健一氏は、これを「脳を騙す」と言った。
メンタリストのDaigo氏が「認知的不協和」という言葉を流行らせたことがあったが、まあどれも同じことだ。

何度も繰り返し「自分は幸せだ」と口に出したり紙に書き出したりしていると、我々の脳は「幸せの理由」を探さざるをえなくなる。
脳は、そういう風にできている。
そういう役割を持った内臓なんである。

脳というのは僕たちが思っている以上にシンプルなのだ。
一流のスポーツ選手は試合前に自分が勝利するイメージトレーニングをやりまくる。
ボクシングの選手に大口を叩く人が多いのも、同じ理由からだ。

言葉を繰り返すことによって脳に「自覚」を植え込む。
どのような「自覚」を持っているかで、僕たちの世界は喜劇にもなるし、悲劇にもなるんである。

僕は楽しくハッピーに生きていたい。
ということは、「楽しくてハッピー」という「自覚」を持つにはどうすればいいのか、考えてやればいい。

やることは簡単だ。
ことあるごとに「楽しくてハッピー」と言えばいい。
「楽しくてハッピー」のハードルを、極限まで下げればいい。
そして、出来る限り「楽しくてハッピー」のハードルが低い人たちと一緒に居ればいい。
そうすることで、「そうか、これも楽しくてハッピーなのか」という発見があるからだ。

これさえ出来れば、僕たちはハッピーの達人になれる。
望むものが手に入るというのは、こういうメカニズムなんである。

ただ、なぜだろう。
これほど求め望んでいるにも関わらず、僕を養ってくれる優しくて働き者の絶世の美女は、未だに現れない。

「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」という質問に答えていない全ての人に。


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いかにして楽をしようか。
いかにして手を抜こうか。
いかにして少ない負担と労力と責任で給料を貰おうか。

これが、サラリーマン時代の僕が常々考えていたことだった。
実際は、ここまで明確に言葉に出来ていた訳ではない。
手を抜きたがる自分が嫌いだったから、目に見えない事実を受け入れたくなかったということもあって、これらの考えは深度15センチほどのまさに表面化を、僕のボートの舵を狂わせながら、じっとりと漏れ出した石油のように漂っていた。

「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」

という風な、いわゆる「究極の質問」というものがある。
多くの人が聞いたことがあるだろう。
そしてそのうちの80〜90%ほどの人が、「知ってるけど、そんなことを考えてもねえ」と思っているだろう。

隠さなくてもいい。
僕もそうだったのだ。
スティーブ・ジョブズが毎朝鏡に向かって「今日が人生最後の日だったら、今日のスケジュールをこなすだろうか」という質問をしていた、という話しを聞いても、「そういうことをやってるんだ〜」程度のことで、実際に自分でやってみることはなかった。

いや、本当はやってみなかった訳じゃあない。
ただ、普段から自分のことを見ないように、考えないようにする癖が付いていたから、ちょっと考えようとしても、面倒臭くてやめてしまったのだ。
そしてそんな自分も許せなかったから、「知ってるけど、そんなことを考えてもねえ」という言葉を使って、他のロクでもない思考と同じように、押入れの中に放り込んで隠していた。

人というのは、そもそも大変な怠け者である。
「半年後に死ぬとしたら、今日何をする」と考えることは、実際に全神経を集中させることができれば、15分から20分もあれば十分に出来てしまう。
カウンセリングを受ける訳ではないから、お金も掛からないし手間も掛からない。

では、なぜたったそれだけのことをしないのか。
答えは、「面倒臭いから」だ。

信じられないとか、効果の保証ができないとか、そういうことは全て後から付いてくる言い訳に過ぎない。
戦争を吹っかけるような国は、平和的外交よりも武力行使の方が楽だからそうしているのだ。
言葉を尽くし礼を尽くすより、横っ面を叩き伏せた方が、頭使わないでいいから楽なんである。

社会でも、知的労働者と肉体労働者では、賃金に格差がある。
頭を使うことは、体を使うことよりも不可が大きいのだ。
肉体労働者がいけない訳ではない。
ただ、頭を使おうという人がどれほど希少なのかということが、こういうところからも見て取れるということだ。

それと同じように、「半年後に死ぬとしたら、今日何をする」ということを考えるよりも、「こんな自分嫌だなあ」とか、「俺のことを受け入れてくれない社会だよ」と不貞腐れて拗ねている方が、楽なんである。

こういうことを言うと、「やっぱり俺はダメなヤツなんだな」と、懲りずに不貞腐れを上塗りする者がいる。
それがもう、いいようにされているんである。
誰にって、そりゃあんた、「脳」に決まってるでしょう。

手を抜きたがったり、楽をしたがったりするのは、人の脳に備わったデフォルトの機能のようなものだ。
孫正義の脳にも鬱で死にそうな顔してる人の脳にも、同じ機能が搭載されている。
では何が違うのかというと、脳に支配されているか、脳を支配しているか、というところが違う。

鬱になって潰れる人は、「面倒臭いこと」「痛み」自分に「不都合」のある全てのことを避けようとするから、八方塞がりの路地に迷い込んでうずくまるしかなくなる。
成功への道を駆け上がる人は、「面倒臭いこと」「痛み」「不都合」こそが、自分の進むべき方向を照らす導であることを知っているから、それらをどんどんと引き受ける。

感じる不安や、ザワザワとした感覚は、同じだ。
不安を拒むことで自分の身を守っているような感覚にもなるが、結局のところ、不安を受け入れた方が、身も心もしっかり守れるんである。

面倒臭いことをしてみる。
痛みを引き受けてみる。
不都合を許してみる。

一言で言うと、「やりたくないことをやってみる。」。
手始めに、「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」という質問に、全力で答えてみたらどうだろう。

「ひざげ」の手のひらに鉛筆の芯がズギュンしてる。


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すっかり奥まで入ってしまって、どれだけじっくりと見ても染みにしか見えなくなったのが、中学3年生の頃だと言った。
僕は普段めったに話しをしないクラスメイトの手のひらを見つめて、「痛くないのこれ?」と聞いた。
時々ジクッとするくらいで、部活のバスケットボールをするのにも、特に支障はないのだと、彼は返した。

彼は「ひざげ」と呼ばれていた。
すね毛の発毛範囲が異常に広く、一般的な男子ではおおよそ生えないであろうというエリアにまで、すね毛の猛威が広がっていたのだ。
その進行が如実に表れていたのが、ヒザであった。

このままではこの男はいずれ、いやおろらくは確実に、すね毛にまみれて死ぬのだろう。
そんな彼のことを、彼の周りの友人達は哀切と憐憫の情を込めて、「ひざげ(膝毛)」と呼んだ。

「付き合う人を間違えたんだな。」

そう言って「ひざげ」は、膝の毛を揺らして笑うのだった。

そのひざげには、知る人ぞ知るもうひとつのセールスポイントがあった。
手のひらに鉛筆の芯が深く刺さり、その上で完全に皮膚が塞がって、もうにっちもさっちもいかなくなっているんである。
彼を研究する者の中には、その鉛筆の芯があるから彼の膝は今日も不可解な量の毛をたゆたえているのではないかと指摘する者もいるが、残念ながら今日に至っても事実確認は取れていない。

それは、全く痛くないのだそうだ。
利き腕の手のひらに埋まっているにも関わらず、彼はシャーペンも筆もバスケットボールも、何の問題も無く使っている。
体育の時間にハーフパンツからのぞく大量のすね毛と比較すれば、実に他愛のないセールスポイントであるように思えた。

しかし、僕は彼が一人でいる時に、自分の手のひらをじっと見ているところを何度か見たことがある。
その時は、いよいよすね毛が手のひらにまで侵食してきたのか、と思って通り過ぎたものだが、今思い返してみれば、あの鉛筆の芯を眺めていたのではないかと思うのだ。



人には、小さな棘が刺さることがある。
それはほんの小さな、何か他の刺激があれば気付くこともないような些細な痛みを伴って、僕たちの皮膚の下に潜り込む。
そしていずれ深く深く埋もれて、染みのようになる。

その結果、僕たちはその棘のことに気付かない。
刺さった自分が気付いていなければ、刺した者も気付いていない。

しかし、「ひざげ」はその染みを見つめていた。
痛くもないし、困ってもいない。
しかし、見つめていたのだ。
そして、「たまにジクッとする」と言ったのだ。

こうした小さな小さな棘が、僕たちの心を惑わせる毒を持っている。
それは時として、命にまで達する毒である。

どんな人がその毒に犯されているのかというと、僕は、ほぼ全ての人が犯されていると思っている。
特に人が許せない、劣等感の強い人は確実に、その毒に犯されている。
そしてその原因は、本当に些細な小さな極小の棘であったりするんである。

そして(これが一番大きな問題なのだけど)、その棘を抜くには、一見健全に見える皮膚を傷付け、肉を裂いて、血を流して取り出さなければならない。
それがまた、痛いんである。
傷もまた、すぐには塞がらないんである。

この棘は親知らずのようなもので、一度抜いてしまうと違和感と不快感のない新しい世界が待っている。
僕個人としては、できたらみんなこの棘が抜ければいいのに、と思っている。
棘が抜けるような、そんな曲を書いたり、歌ったりしている。

もちろん、「抜かない」というのも、ひとつの生き方だ。
そもそも多くの人は、小さな棘が刺さっていることにも気付いていないのだから。
健全な皮膚と肉を傷付けてまで、たまに疼く程度の棘を抜くことを選ばない人も多いだろう。

しかし僕は思うのだ。
死ぬまで、手のひらを見つめ続けるのは、きっと気持ちが悪い。
僕は自分から何本も棘を抜いてきたが、その度に気持ちが良いのだ。

そのうち、世界一痛みを少なく棘の抜ける人になりたいと思うようになった。
お節介である。
しかし、それが役に立つこともたくさんある。
そして僕が愛する音楽や言葉には、その力がある。

出来ることなら、僕の音楽や言葉が君の小さな棘に届けばいい。
多少の痛みを引き受ける覚悟を決める、手伝いができたらいい。

そんなことを思って、今日もギターのチューニングをする。
急がなければ。
君のすね毛が膝に届く前に。

化け猫と死の天使。


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シロが逝ったというメールが、今朝叔母から届いた。
昨年の冬ごろに上げていたブログに頻繁に登場していた、あのパンク顔の猫である。

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シロは齢20歳を超える化け猫である。で、あった。
体が白いからという実に深遠なる理由でシロな名付けられたこの猫は、僕が小学生の頃から母の実家(僕の実家から徒歩20分)の作業場で、いつも何かの物陰からこちらを見ていたものだった。

シロが僕の近くに来てくれるようになったのは、ここ何年かのことだ。
特に僕が関東から引き上げてきてプー太郎をしていた1年間は、ほぼ毎日僕がシロのところに出向き、ご飯を上げてブラシを入れて、ひとしきりイチャイチャしながら仕事をするというスタイルが確立していた。

僕が大阪に事務所を構えてからは、僕の後を追ってプー太郎になったブラザーちゅわさんや、不可解なことに今だプー太郎を経験していないブラザーぷうちゃんが面倒を見ていたそうだ。
何より、誰も居ない時に仕事と家事の合間で世話に走っていた、母の尽力は大変なものだったろう。

今じんわりと、さみしい。
石垣島に引っ越す前に大阪で会ったブラザーちゅわさんが、「もう長くないと思う」と言っていた、まさにその通りになった。

もう本を読みながら、20分で辿り付ける距離を30分かけてゆっくりと歩いていって、あの開けにくい鍵を開けてコンクリイトの土間をどれだけ歩き回っても、シロは居ない。
夏の暑い日に道路の真ん中で寝ているシロをどかして車を走らせる手間もなければ、冬の寒い日にホットカーペットやカイロをかき集めて段ボールベッドに詰め込む苦労もない。
冷蔵庫の中の小魚とカツオ節を缶詰と混ぜて「ゴージャス飯だシロちゃん!」と一人で盛り上がることもない。

ああそうか。
シロは死んだのか。
シロ、お前死んだんか。

人や動物の死と出会うと、いつも思う。
僕らは自分が思っている以上に、相手のことを想っているのだ。
よく「ポッカリと穴が開いたような」という表現をするが、ポッカリとした穴が開くほどに、相手のことを想っていたのだ。

若くして親の介護をしている人も居れば、老老介護という現代社会の問題と戦っている人もいる。
突然大切な人を失うこともあれば、ゆったりとした時の中で順風の最後を遂げる人もいる。

いずれにしても、僕たちは本当に、人を想っている。
家族同然になった動物達のことも、想っているのだ。

そうして僕らの側から空に還ってゆく彼らは、最後に残った僕たちにあるものをくれる。
それは彼らと共に居たという「経験」と、それを活かすための「時間」である。

目の前に居るその人は、いずれ死ぬ。
君の前から消えて居なくなる。
声も匂いも笑い声も泣き声も、今この瞬間にしか触れられない。

そして自分自身もまた、そうだ。
死は日常である。
そして死を思うからこそ、僕たちには理解できることがある。

死神というと禍々しい印象だけれど、死というのは僕たちの心に大きな思いやりと力を与えてくれる、天使なのだと思う。
シロを連れて行ってくれた天使は、僕ら家族にもきっと、羽を落としてくれているのだ。
しっかりと拾い上げて、ついでにシロの毛も拾い上げて、ちゃんとポケットに入れておかなければ。

ああ、もう、言葉がない。

もっとずっとお前のことを書いていたいのに。

シロ、シロ。

さようなら、シロちゃん。

僕らの付き合いは短かったけど、楽しかったよな。

また会おうな。

愛してるよ。

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荷物を降ろそう委員会。


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何かミスをした時に、

「バカやろう!」

と怒鳴られると、心がグニャリとして歪んでしまう。
当面そのショックからは立ち直れず、集中力が削がれ、同じようなミスを繰り返す。

ところが、

「大丈夫だよ。これくらいで済んで、よかったよね。次は上手くできるから、よろしくお願いね。」

などと言われると、それはそれは心が軽くなる。

人は常に、心に重荷を背負っているものだ。
それは本当に簡単なことなのだけど、出来る人が実に少ない。

ミスをした者、失敗をした者は、既に自分を責めているのだ。
それをさらに怒りで押しつぶして得られるものは、新しい失敗と禍根だけである。

優しく許す。
たったそれだけのことで、人の心は軽くなる。
たったそれだけのことで、巡る因果は断ち切れる。

職場で使えば周りの人のスキルがどんどん高まり、生産性は向上する。
「気が重い」というだけで人間の能力がどれほど落ちるか、ほぼ全ての人が実感したことがあるのではないか。
肩の荷を降ろす、優しく許せる人が増えればいい。
そして、自分自身がそういう人であり続けたいものだ。

ただし、軽薄なる男性諸君は、女性にこのワザを使う時は注意すべきだ。
肩の荷を降ろした女性のパワアは、腕力の影に隠した男の虚弱を、まるで紙くずのように一蹴するだろう。
こちらも自分の肩の荷を降ろすワザくらい身に付けていなければ、とてもじゃないが対峙し続けることは難しい。
ゆめゆめ油断しないことだ。

強欲のすゝめ


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叔父は喉を鳴らしてミルクと砂糖をたっぷりと入れたコーヒーを飲み込んだ後、僕の母に向かって噛んで含めるように言った。

「最近の子は我慢を知らんからな」

母はそれを、焼酎のお湯割りを傾けながら聞いている。
死んだおじいちゃんは怒ると手が付けられなかったとか、死んだばあちゃんも口がきつくて酷い目にあったとか、そいういう話しを返したりもする。

僕は隣りで猫のシロをモフモフしつつクールにブラックのコーヒーを嗜んでいたのだけど、ふとした疑問が頭を過ぎった。
我慢しなくていいって、良い時代じゃん。

人の世は、少しずつ時間をかけてマシになってきているのだ。
生まれるのがほんの80年ほど違ったら、爆弾や鉄砲の飛び交う戦争の時代だった。
500年早かったら、斬り合い殺し合いが当たり前の戦国時代だ。

人の世は荒れたり落ち着いたりを繰り返しながら、だんだんとマシな方に向かっている。
子供が我慢をしなくて良い時代というのは、素晴らしいではないか。
それを実際に時代を変えた世代の人たちがどうのこうのと言うのは、何か妙な違和感を感じるんである。

「今の若いもんは刀の使い方も分からん」と言うのはいいけれど、刀の使い方を知らなくても襲われないし殺されない時代になったということだ。
それは、実に誇るべき、素晴らしい進歩ではないか。

なぜそのような言葉が出てくるのかというと、叔父や母が拗ねているからではないかという思いに至った。

「俺はこんなに我慢しているのに」
「私はこんなに我慢しているのに」
「「今の奴らは我慢してない(風に見えるから)のはズルい!」」


という塩梅だ。

だから僕はひとつの決意をした。
極力、何の我慢もせずに生きてみよう。
極力、楽しいことばかりに注目して生きてみよう。

そのためには、無意識にしている「我慢」や「やりたくないこと」に気付いて、淘汰せねばならない。
僕が叔父や母くらいの歳になった時に、

「最近はさらに我慢しなくて良い時代になったのう。デュフフ」

などと言って、ハードボイルドにウイスキーを傾けるという義務を全うしなければならない。

今僕は歌いながら街を歩き、電車の中では本を読み、多くの同僚がいる職場で一番勉強をしている。
その時「やりたい」と思ったことに対して躊躇せず、飛び込む姿勢を貫いている。

すれ違う人が不思議な顔をする。
電車の中では隣りの人が胡散臭そうな目でこちらを見る。
お喋り好きな同僚が隣りの席で物足りなさそうにしている。

実に痛快である。
自分の人生を生きている実感がある。
そして実際に、歌がどんどん楽しくなるし、本は人生を導いてくれる。
ややこしい仕事も、かなり頭に入ってきた。

「人に迷惑を掛けてまでそんなことをしたくない」と言う人がいるかもしれない。
しかし僕は人の耳元で大声を出している訳でも、電車の中で本を音読している訳でも、隣人のお喋りに全く付き合っていない訳でもない。

具体的な迷惑を掛けていないにも関わらず気分を害するのは、その人が勝手に迷惑と感じているからだ。
勝手に迷惑を感じるような人に合わせていては、自分の人生は歩めない。
拗ねている人に合わせていては、時代は進まない。

もっと強欲で良い。
もっと傲慢で良い。
もっと自分勝手で良い。

自分の「気持ちよさ」や「楽しさ」や「幸せ」は、全力で追いかけるべきだ。

そんなことを思っていたら母が、職場の同僚と飲みにいくから今日の晩飯は何かこう適当に済ませておけ馬鹿者共が、といったメッセージを残して出て行った。
随分と楽しそうに、言葉も弾んでいた。

ほら、やっぱり我慢しない方が、楽しいじゃないか。