努力が報われないのは正しい生き方をしてるから。


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終始怒鳴り続けていたその男は、全力を上げて自分に都合の良い世界を求めていた。
似たような話しを繰り返すな、そんな話しはどうでもいい、馬鹿にしてるのか。
男の周りの人は皆辟易として、もう疲れた顔もせずに、ただ粛々と嵐が通り過ぎるのを待っているように見えた。

「引き寄せの法則」というものを聞いたことがあるだろうか。
ナポレオン・ヒル的に言うと「思考は具現化する」という法則である。
よくスピリチュアルな表現で語られることが多いので嫌う人が多いのだけど、僕は希望を持って信じている。

怒り、怒鳴り、騒ぎ散らしていたあの男は、一体何を引き寄せていたのか。
それは、「劣等感を刺激する出来事」である。

自信が無い時、人は大きな声を出し、言葉数が増える。
それは目の前の出来事や人物と相対する勇気がなく、大騒ぎをすることでその不安や自信の無さを誤魔化そうとするからだ。

ただそんなことをされても、それが仕事であったなら、伝えなければならないことは伝えなければならないから、周りの人間はウンザリした顔で言葉を投げる。
そうすると劣等感レーダーが異常に過敏な者は、「ウンザリした顔」だけは敏感に感じ取って、さらに騒ぐ。

劣等感を誤魔化すための騒ぎが、より自分の劣等感を刺激するような出来事を生み出す。
それを感じ取ってさらに大騒ぎをすると、本当に大切なことを聞き逃し、さらにさらに劣等感に響くような出来事に繋がっていく。
こうやって、人の話しが聞けず、中身の無い主張しかできず、人に構ってもらえない、寂しい人生が出来上がる。

実は、僕はこの件で大変なダメージを受けた。
周りの人は上手く流せていたのに、僕だけが実に大きく心をかき乱されたのだ。

それまで仕事で関わる全ての人に「愛してるよ!」という掛け声を心の中で叫んでいた僕は、愛だの何だの言っていても、愛を与えるに値しない者もいるのだと、そう言って拗ねたくなった。

生きていると、こういったことが度々起こる。
僕はこれを「神様の試験」だと思っている。

「お前は、愛で生きるのね。あ、結構本気なのね。それじゃあ、こういう人もいるんだけど、どうする?」

こんな塩梅で、ポンと試験が降りてくる。
突然に、唐突にやってくる。

人によっては、これを見て「俺は努力しても報われねえんだよ」と言って腐ってしまう。
実際僕も腐っていたことがある。

そして、腐ると、遅かれ早かれ「やり直し」を食らう。
それは「退職」だったり、「病気」だったり、「何かの破綻」だったり、まあ色々な形で、

「ん〜、やっぱりもうちょっとここやり直そうか」

という感じで、やってくる。

だから何かが起こったら、この問題は、試験なのだと思う。
自分が新しいステージに行くための、乗り越えるべき課題なのだと考える。

試験だから、そこには必ず「問い」がある。
試験をクリアする第1ステップは、その「問い」が何であるかを見抜くことだ。

僕は、胃袋を締め上げる感情を上手く処理できないまま、暫く悶々として歩き回っていた。
そのうちに一人ではどうにもできないことを悟り、恐る恐る彼女様に話しを聞いてもらった(このツケがどれほど高くつくかを想像すると胃が痛くなる)。

するとどうだ。
まるで風穴でも空いたように毒気はするすると解れていって、終いには随分と有難い気付きに辿り着いていた。

実は僕は数日前、あるインタビュー動画の編集中に、「僕どうしてこんなに無駄なこと沢山喋ってるんだろう」という疑問にぶつかっていた。
そう、先ほどの「劣等感」の話しが、自分の中に繋がったんである。

あの不憫な男は、僕の写し鏡であったのだ。
その場に居合わせた多くの人のうち僕一人が大きく心を乱されていたのは、その男が僕のために登場した、「試験」そのものだったからである。

それまでぼんやりとしていた「問題」の輪郭が、とても鮮明になってきた。
同時に、そんな僕にライトを当てようとしてくれていた仲間達への感謝が、後から後から湧いて止まらなくなった。

具体的に何ができるのかは、まだ分からない。
ただ僕の劣等感の原因が何であれ、次に自分が言葉で壁を作ろうとした時に、「いいんだよ」と自分に言ってやれる、それだけで大きな成長である。

努力は報われる。
ただし、「報われているのだ」という確信を持つ必要がある。
「報われている理由」は、自分で勝手に決めてしまえばいい。

努力は報われない。
ただし、「報われないのだ」という確信を持つ必要がある。
「報われない理由」は、やはり自分が勝手に決めているものだ。

神様の試験は、今日も誰かの身に降りてきている。
もしかしたら、君の身に降りてきているかもしれない。

大変だと思う。
それまでの自分を否定されるような気持ちになるかもしれない。
もう何もかも嫌になって、投げ出したくなるかもしれない。

だけど、負けない。
「まいった」をしない。


人の力も借りて、自分の心と向き合って、まずは解くべき「問題」を見定める。
見つけたら一点集中して、その「問題」と向き合う。

今回の件で、僕は「愛の人」になる決意と確信をさらに深めた。
試験に合格した後には、驚くほど清々しい朝がやってくる。

あの男のことは、ひっくり返ったって好きにはなれない。
もう二度と会いたくもない。
しかし、あの男が居なければ、僕は今日の決意と確信を抱くには到底至らなかったに違いない。

人生とは、僕たちが思っている以上に、バラ色なんである。
不安になる必要はひとつも無い。
不安があるとすれば、今回彼女様に話しを聞いてもらったツケが、今後どれほどに利息を重ねて膨れ上がるのかということぐらいだ。
ある日僕が突然痩せ衰え朝も夜もなく働き始めたら、取り立てが始まったのだと思ってもらって間違いない。

脳と世界のただならぬ関係〜美女よ来れ〜


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ドラマーとヴォーカリストでは、同じ曲を聴いていても全く違う聴き方をしている。
ドラマーはドラムをよく聴いているだろうし、ドラムに絡む要素をよく聴いている。
ヴォーカリストは歌と、それに絡む要素をよく聴いている。

何に興味があるのか。
何に楽しみや気持ち良さを感じるのか。
何を見つけようとしているのかで、音楽ひとつの聴き方も異なってくる。

人は常々常在的に自分が望むものに無意識にフォーカスを合わせて生きている。
分かりやすいのは仕事関係のもので、例えば僕はケータイ屋をやっていた時は、街を歩けば販売店や展示の仕方、接客やカタログの情報など、色々なものが気になって、目に入ってきていた。
それはつまり、「僕はケータイ屋だから」という自覚の上で、自分にとって「当たり前」の情報を選び取っていたということだ。

「幸せ」と「不幸せ」にも同じことが言える。

自分が「幸せ」だという自覚の上で生きている人は、自分にとって「当たり前」の情報、つまり、「自分が幸せな理由」をこの世界から切り取る。
自分が「不幸せ」だと自覚している人は、その逆をしているということだ。

カウンセリング業界や自己啓発の業界では「今この瞬間にあなたは幸せ」というフレーズを連呼するのだが、それはつまり、「自覚の矯正」、あるいは「ポジティブな自己洗脳」をしているということである。
脳科学者の茂木健一氏は、これを「脳を騙す」と言った。
メンタリストのDaigo氏が「認知的不協和」という言葉を流行らせたことがあったが、まあどれも同じことだ。

何度も繰り返し「自分は幸せだ」と口に出したり紙に書き出したりしていると、我々の脳は「幸せの理由」を探さざるをえなくなる。
脳は、そういう風にできている。
そういう役割を持った内臓なんである。

脳というのは僕たちが思っている以上にシンプルなのだ。
一流のスポーツ選手は試合前に自分が勝利するイメージトレーニングをやりまくる。
ボクシングの選手に大口を叩く人が多いのも、同じ理由からだ。

言葉を繰り返すことによって脳に「自覚」を植え込む。
どのような「自覚」を持っているかで、僕たちの世界は喜劇にもなるし、悲劇にもなるんである。

僕は楽しくハッピーに生きていたい。
ということは、「楽しくてハッピー」という「自覚」を持つにはどうすればいいのか、考えてやればいい。

やることは簡単だ。
ことあるごとに「楽しくてハッピー」と言えばいい。
「楽しくてハッピー」のハードルを、極限まで下げればいい。
そして、出来る限り「楽しくてハッピー」のハードルが低い人たちと一緒に居ればいい。
そうすることで、「そうか、これも楽しくてハッピーなのか」という発見があるからだ。

これさえ出来れば、僕たちはハッピーの達人になれる。
望むものが手に入るというのは、こういうメカニズムなんである。

ただ、なぜだろう。
これほど求め望んでいるにも関わらず、僕を養ってくれる優しくて働き者の絶世の美女は、未だに現れない。

「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」という質問に答えていない全ての人に。


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いかにして楽をしようか。
いかにして手を抜こうか。
いかにして少ない負担と労力と責任で給料を貰おうか。

これが、サラリーマン時代の僕が常々考えていたことだった。
実際は、ここまで明確に言葉に出来ていた訳ではない。
手を抜きたがる自分が嫌いだったから、目に見えない事実を受け入れたくなかったということもあって、これらの考えは深度15センチほどのまさに表面化を、僕のボートの舵を狂わせながら、じっとりと漏れ出した石油のように漂っていた。

「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」

という風な、いわゆる「究極の質問」というものがある。
多くの人が聞いたことがあるだろう。
そしてそのうちの80〜90%ほどの人が、「知ってるけど、そんなことを考えてもねえ」と思っているだろう。

隠さなくてもいい。
僕もそうだったのだ。
スティーブ・ジョブズが毎朝鏡に向かって「今日が人生最後の日だったら、今日のスケジュールをこなすだろうか」という質問をしていた、という話しを聞いても、「そういうことをやってるんだ〜」程度のことで、実際に自分でやってみることはなかった。

いや、本当はやってみなかった訳じゃあない。
ただ、普段から自分のことを見ないように、考えないようにする癖が付いていたから、ちょっと考えようとしても、面倒臭くてやめてしまったのだ。
そしてそんな自分も許せなかったから、「知ってるけど、そんなことを考えてもねえ」という言葉を使って、他のロクでもない思考と同じように、押入れの中に放り込んで隠していた。

人というのは、そもそも大変な怠け者である。
「半年後に死ぬとしたら、今日何をする」と考えることは、実際に全神経を集中させることができれば、15分から20分もあれば十分に出来てしまう。
カウンセリングを受ける訳ではないから、お金も掛からないし手間も掛からない。

では、なぜたったそれだけのことをしないのか。
答えは、「面倒臭いから」だ。

信じられないとか、効果の保証ができないとか、そういうことは全て後から付いてくる言い訳に過ぎない。
戦争を吹っかけるような国は、平和的外交よりも武力行使の方が楽だからそうしているのだ。
言葉を尽くし礼を尽くすより、横っ面を叩き伏せた方が、頭使わないでいいから楽なんである。

社会でも、知的労働者と肉体労働者では、賃金に格差がある。
頭を使うことは、体を使うことよりも不可が大きいのだ。
肉体労働者がいけない訳ではない。
ただ、頭を使おうという人がどれほど希少なのかということが、こういうところからも見て取れるということだ。

それと同じように、「半年後に死ぬとしたら、今日何をする」ということを考えるよりも、「こんな自分嫌だなあ」とか、「俺のことを受け入れてくれない社会だよ」と不貞腐れて拗ねている方が、楽なんである。

こういうことを言うと、「やっぱり俺はダメなヤツなんだな」と、懲りずに不貞腐れを上塗りする者がいる。
それがもう、いいようにされているんである。
誰にって、そりゃあんた、「脳」に決まってるでしょう。

手を抜きたがったり、楽をしたがったりするのは、人の脳に備わったデフォルトの機能のようなものだ。
孫正義の脳にも鬱で死にそうな顔してる人の脳にも、同じ機能が搭載されている。
では何が違うのかというと、脳に支配されているか、脳を支配しているか、というところが違う。

鬱になって潰れる人は、「面倒臭いこと」「痛み」自分に「不都合」のある全てのことを避けようとするから、八方塞がりの路地に迷い込んでうずくまるしかなくなる。
成功への道を駆け上がる人は、「面倒臭いこと」「痛み」「不都合」こそが、自分の進むべき方向を照らす導であることを知っているから、それらをどんどんと引き受ける。

感じる不安や、ザワザワとした感覚は、同じだ。
不安を拒むことで自分の身を守っているような感覚にもなるが、結局のところ、不安を受け入れた方が、身も心もしっかり守れるんである。

面倒臭いことをしてみる。
痛みを引き受けてみる。
不都合を許してみる。

一言で言うと、「やりたくないことをやってみる。」。
手始めに、「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」という質問に、全力で答えてみたらどうだろう。

「ひざげ」の手のひらに鉛筆の芯がズギュンしてる。


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すっかり奥まで入ってしまって、どれだけじっくりと見ても染みにしか見えなくなったのが、中学3年生の頃だと言った。
僕は普段めったに話しをしないクラスメイトの手のひらを見つめて、「痛くないのこれ?」と聞いた。
時々ジクッとするくらいで、部活のバスケットボールをするのにも、特に支障はないのだと、彼は返した。

彼は「ひざげ」と呼ばれていた。
すね毛の発毛範囲が異常に広く、一般的な男子ではおおよそ生えないであろうというエリアにまで、すね毛の猛威が広がっていたのだ。
その進行が如実に表れていたのが、ヒザであった。

このままではこの男はいずれ、いやおろらくは確実に、すね毛にまみれて死ぬのだろう。
そんな彼のことを、彼の周りの友人達は哀切と憐憫の情を込めて、「ひざげ(膝毛)」と呼んだ。

「付き合う人を間違えたんだな。」

そう言って「ひざげ」は、膝の毛を揺らして笑うのだった。

そのひざげには、知る人ぞ知るもうひとつのセールスポイントがあった。
手のひらに鉛筆の芯が深く刺さり、その上で完全に皮膚が塞がって、もうにっちもさっちもいかなくなっているんである。
彼を研究する者の中には、その鉛筆の芯があるから彼の膝は今日も不可解な量の毛をたゆたえているのではないかと指摘する者もいるが、残念ながら今日に至っても事実確認は取れていない。

それは、全く痛くないのだそうだ。
利き腕の手のひらに埋まっているにも関わらず、彼はシャーペンも筆もバスケットボールも、何の問題も無く使っている。
体育の時間にハーフパンツからのぞく大量のすね毛と比較すれば、実に他愛のないセールスポイントであるように思えた。

しかし、僕は彼が一人でいる時に、自分の手のひらをじっと見ているところを何度か見たことがある。
その時は、いよいよすね毛が手のひらにまで侵食してきたのか、と思って通り過ぎたものだが、今思い返してみれば、あの鉛筆の芯を眺めていたのではないかと思うのだ。



人には、小さな棘が刺さることがある。
それはほんの小さな、何か他の刺激があれば気付くこともないような些細な痛みを伴って、僕たちの皮膚の下に潜り込む。
そしていずれ深く深く埋もれて、染みのようになる。

その結果、僕たちはその棘のことに気付かない。
刺さった自分が気付いていなければ、刺した者も気付いていない。

しかし、「ひざげ」はその染みを見つめていた。
痛くもないし、困ってもいない。
しかし、見つめていたのだ。
そして、「たまにジクッとする」と言ったのだ。

こうした小さな小さな棘が、僕たちの心を惑わせる毒を持っている。
それは時として、命にまで達する毒である。

どんな人がその毒に犯されているのかというと、僕は、ほぼ全ての人が犯されていると思っている。
特に人が許せない、劣等感の強い人は確実に、その毒に犯されている。
そしてその原因は、本当に些細な小さな極小の棘であったりするんである。

そして(これが一番大きな問題なのだけど)、その棘を抜くには、一見健全に見える皮膚を傷付け、肉を裂いて、血を流して取り出さなければならない。
それがまた、痛いんである。
傷もまた、すぐには塞がらないんである。

この棘は親知らずのようなもので、一度抜いてしまうと違和感と不快感のない新しい世界が待っている。
僕個人としては、できたらみんなこの棘が抜ければいいのに、と思っている。
棘が抜けるような、そんな曲を書いたり、歌ったりしている。

もちろん、「抜かない」というのも、ひとつの生き方だ。
そもそも多くの人は、小さな棘が刺さっていることにも気付いていないのだから。
健全な皮膚と肉を傷付けてまで、たまに疼く程度の棘を抜くことを選ばない人も多いだろう。

しかし僕は思うのだ。
死ぬまで、手のひらを見つめ続けるのは、きっと気持ちが悪い。
僕は自分から何本も棘を抜いてきたが、その度に気持ちが良いのだ。

そのうち、世界一痛みを少なく棘の抜ける人になりたいと思うようになった。
お節介である。
しかし、それが役に立つこともたくさんある。
そして僕が愛する音楽や言葉には、その力がある。

出来ることなら、僕の音楽や言葉が君の小さな棘に届けばいい。
多少の痛みを引き受ける覚悟を決める、手伝いができたらいい。

そんなことを思って、今日もギターのチューニングをする。
急がなければ。
君のすね毛が膝に届く前に。

化け猫と死の天使。


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シロが逝ったというメールが、今朝叔母から届いた。
昨年の冬ごろに上げていたブログに頻繁に登場していた、あのパンク顔の猫である。

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シロは齢20歳を超える化け猫である。で、あった。
体が白いからという実に深遠なる理由でシロな名付けられたこの猫は、僕が小学生の頃から母の実家(僕の実家から徒歩20分)の作業場で、いつも何かの物陰からこちらを見ていたものだった。

シロが僕の近くに来てくれるようになったのは、ここ何年かのことだ。
特に僕が関東から引き上げてきてプー太郎をしていた1年間は、ほぼ毎日僕がシロのところに出向き、ご飯を上げてブラシを入れて、ひとしきりイチャイチャしながら仕事をするというスタイルが確立していた。

僕が大阪に事務所を構えてからは、僕の後を追ってプー太郎になったブラザーちゅわさんや、不可解なことに今だプー太郎を経験していないブラザーぷうちゃんが面倒を見ていたそうだ。
何より、誰も居ない時に仕事と家事の合間で世話に走っていた、母の尽力は大変なものだったろう。

今じんわりと、さみしい。
石垣島に引っ越す前に大阪で会ったブラザーちゅわさんが、「もう長くないと思う」と言っていた、まさにその通りになった。

もう本を読みながら、20分で辿り付ける距離を30分かけてゆっくりと歩いていって、あの開けにくい鍵を開けてコンクリイトの土間をどれだけ歩き回っても、シロは居ない。
夏の暑い日に道路の真ん中で寝ているシロをどかして車を走らせる手間もなければ、冬の寒い日にホットカーペットやカイロをかき集めて段ボールベッドに詰め込む苦労もない。
冷蔵庫の中の小魚とカツオ節を缶詰と混ぜて「ゴージャス飯だシロちゃん!」と一人で盛り上がることもない。

ああそうか。
シロは死んだのか。
シロ、お前死んだんか。

人や動物の死と出会うと、いつも思う。
僕らは自分が思っている以上に、相手のことを想っているのだ。
よく「ポッカリと穴が開いたような」という表現をするが、ポッカリとした穴が開くほどに、相手のことを想っていたのだ。

若くして親の介護をしている人も居れば、老老介護という現代社会の問題と戦っている人もいる。
突然大切な人を失うこともあれば、ゆったりとした時の中で順風の最後を遂げる人もいる。

いずれにしても、僕たちは本当に、人を想っている。
家族同然になった動物達のことも、想っているのだ。

そうして僕らの側から空に還ってゆく彼らは、最後に残った僕たちにあるものをくれる。
それは彼らと共に居たという「経験」と、それを活かすための「時間」である。

目の前に居るその人は、いずれ死ぬ。
君の前から消えて居なくなる。
声も匂いも笑い声も泣き声も、今この瞬間にしか触れられない。

そして自分自身もまた、そうだ。
死は日常である。
そして死を思うからこそ、僕たちには理解できることがある。

死神というと禍々しい印象だけれど、死というのは僕たちの心に大きな思いやりと力を与えてくれる、天使なのだと思う。
シロを連れて行ってくれた天使は、僕ら家族にもきっと、羽を落としてくれているのだ。
しっかりと拾い上げて、ついでにシロの毛も拾い上げて、ちゃんとポケットに入れておかなければ。

ああ、もう、言葉がない。

もっとずっとお前のことを書いていたいのに。

シロ、シロ。

さようなら、シロちゃん。

僕らの付き合いは短かったけど、楽しかったよな。

また会おうな。

愛してるよ。

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荷物を降ろそう委員会。


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何かミスをした時に、

「バカやろう!」

と怒鳴られると、心がグニャリとして歪んでしまう。
当面そのショックからは立ち直れず、集中力が削がれ、同じようなミスを繰り返す。

ところが、

「大丈夫だよ。これくらいで済んで、よかったよね。次は上手くできるから、よろしくお願いね。」

などと言われると、それはそれは心が軽くなる。

人は常に、心に重荷を背負っているものだ。
それは本当に簡単なことなのだけど、出来る人が実に少ない。

ミスをした者、失敗をした者は、既に自分を責めているのだ。
それをさらに怒りで押しつぶして得られるものは、新しい失敗と禍根だけである。

優しく許す。
たったそれだけのことで、人の心は軽くなる。
たったそれだけのことで、巡る因果は断ち切れる。

職場で使えば周りの人のスキルがどんどん高まり、生産性は向上する。
「気が重い」というだけで人間の能力がどれほど落ちるか、ほぼ全ての人が実感したことがあるのではないか。
肩の荷を降ろす、優しく許せる人が増えればいい。
そして、自分自身がそういう人であり続けたいものだ。

ただし、軽薄なる男性諸君は、女性にこのワザを使う時は注意すべきだ。
肩の荷を降ろした女性のパワアは、腕力の影に隠した男の虚弱を、まるで紙くずのように一蹴するだろう。
こちらも自分の肩の荷を降ろすワザくらい身に付けていなければ、とてもじゃないが対峙し続けることは難しい。
ゆめゆめ油断しないことだ。

強欲のすゝめ


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叔父は喉を鳴らしてミルクと砂糖をたっぷりと入れたコーヒーを飲み込んだ後、僕の母に向かって噛んで含めるように言った。

「最近の子は我慢を知らんからな」

母はそれを、焼酎のお湯割りを傾けながら聞いている。
死んだおじいちゃんは怒ると手が付けられなかったとか、死んだばあちゃんも口がきつくて酷い目にあったとか、そいういう話しを返したりもする。

僕は隣りで猫のシロをモフモフしつつクールにブラックのコーヒーを嗜んでいたのだけど、ふとした疑問が頭を過ぎった。
我慢しなくていいって、良い時代じゃん。

人の世は、少しずつ時間をかけてマシになってきているのだ。
生まれるのがほんの80年ほど違ったら、爆弾や鉄砲の飛び交う戦争の時代だった。
500年早かったら、斬り合い殺し合いが当たり前の戦国時代だ。

人の世は荒れたり落ち着いたりを繰り返しながら、だんだんとマシな方に向かっている。
子供が我慢をしなくて良い時代というのは、素晴らしいではないか。
それを実際に時代を変えた世代の人たちがどうのこうのと言うのは、何か妙な違和感を感じるんである。

「今の若いもんは刀の使い方も分からん」と言うのはいいけれど、刀の使い方を知らなくても襲われないし殺されない時代になったということだ。
それは、実に誇るべき、素晴らしい進歩ではないか。

なぜそのような言葉が出てくるのかというと、叔父や母が拗ねているからではないかという思いに至った。

「俺はこんなに我慢しているのに」
「私はこんなに我慢しているのに」
「「今の奴らは我慢してない(風に見えるから)のはズルい!」」


という塩梅だ。

だから僕はひとつの決意をした。
極力、何の我慢もせずに生きてみよう。
極力、楽しいことばかりに注目して生きてみよう。

そのためには、無意識にしている「我慢」や「やりたくないこと」に気付いて、淘汰せねばならない。
僕が叔父や母くらいの歳になった時に、

「最近はさらに我慢しなくて良い時代になったのう。デュフフ」

などと言って、ハードボイルドにウイスキーを傾けるという義務を全うしなければならない。

今僕は歌いながら街を歩き、電車の中では本を読み、多くの同僚がいる職場で一番勉強をしている。
その時「やりたい」と思ったことに対して躊躇せず、飛び込む姿勢を貫いている。

すれ違う人が不思議な顔をする。
電車の中では隣りの人が胡散臭そうな目でこちらを見る。
お喋り好きな同僚が隣りの席で物足りなさそうにしている。

実に痛快である。
自分の人生を生きている実感がある。
そして実際に、歌がどんどん楽しくなるし、本は人生を導いてくれる。
ややこしい仕事も、かなり頭に入ってきた。

「人に迷惑を掛けてまでそんなことをしたくない」と言う人がいるかもしれない。
しかし僕は人の耳元で大声を出している訳でも、電車の中で本を音読している訳でも、隣人のお喋りに全く付き合っていない訳でもない。

具体的な迷惑を掛けていないにも関わらず気分を害するのは、その人が勝手に迷惑と感じているからだ。
勝手に迷惑を感じるような人に合わせていては、自分の人生は歩めない。
拗ねている人に合わせていては、時代は進まない。

もっと強欲で良い。
もっと傲慢で良い。
もっと自分勝手で良い。

自分の「気持ちよさ」や「楽しさ」や「幸せ」は、全力で追いかけるべきだ。

そんなことを思っていたら母が、職場の同僚と飲みにいくから今日の晩飯は何かこう適当に済ませておけ馬鹿者共が、といったメッセージを残して出て行った。
随分と楽しそうに、言葉も弾んでいた。

ほら、やっぱり我慢しない方が、楽しいじゃないか。

「こってりラーメンセット」の注文の仕方。


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豚骨ベースのスープが舌の上を滑りながら、噛み砕かれた麺から溢れる小麦の香りを内包して、喉の奥へと駆け下りてゆく。
時折やってくるネギと粗挽きのコショウの刺激と逢瀬を重ねる度、そのまったりとした味わいは相対的に深みを増して、さらなる高みへと上りつめる。
合いの手を入れるように飛び込んでくる餃子と煮卵が、この食に飽きることを許さない。

このラーメン屋の「こってりラーメンセット」は絶品である。
豚骨醤油のダシに中太縮れ麺がよくからむラーメンと、カリッとしてジューシーな餃子のセットで、今日1日の頑張りが報われる。
席に着き、威勢の良い兄ちゃんに「こってりラーメンセットください」と呼び掛ける至福は、何物にも変え難い。

「こってりラーメンセット」は、「こってりラーメンセット」を頼まなければ出てこない。
「こってりラーメンセット」を頼んだ後に「やっぱりあっさり塩ラーメンセットで」と言っても、やはり「こってりラーメンセット」は出てこない。

このような当たり前を、僕たちはしばしば見落としてしまう。
頼みもしないのに「こってりラーメンセットが出てこない」と言って不機嫌になったり、「あっさり塩ラーメンセット」を食べながら「こってりラーメンセットの方が良かったのに」などと言って不機嫌になったりする。
所謂一つの、馬鹿というやつだ。

どいしてこのような馬鹿をしてしまうのか。
理由は簡単だ。

まず頼みもしないのに「こってりラーメンセット」を待っている者は、自分が望むものは周りの者が察して用意して然るべきという勘違いをしている。
手を上げ、人を呼び、声に出して注文をするという最低限の行動さえ起こさずに、まさしく口を開けて好みのラーメンが出てくるのを待っている。

「あっさり塩ラーメンセット」を食べながら文句を言う人は、やれ「塩分が」やれ「カロリーが」と、余計なことを考えすぎている。
その時自分が求めているものを食べる際に飲み込む毒よりも、求めていないものを食べる時に飲み込む毒の方が多いことに気付いていない。

そして何度も繰り返すが、こういった症状を自覚している者はいない。
何故なら、自覚した瞬間に全て解決してしまうからだ。

「こってりラーメンセット」が食べたいのなら、手を上げて店員を呼び、注文をして待機し、お勘定を払わなければならない。
それを当たり前だと思っていないから、僕たちは口を開けたまま、隣で「こってりラーメンセット」を楽しんでいる人を横目に涎をいっぱいに垂らして、自分は不幸だと言い張る。

「あっさり塩ラーメンセット」を頼んだのなら、「こってりラーメンセット」のことは忘れて、「あっさり塩ラーメンセット」を楽しめば良い。
雑念ばかり抱えて人生を謳歌しようなどと、そんな馬鹿げた話しは無いではないか。

人はなぜか、「こってりラーメンセット」は叶いやすく、「自分の目標」は叶わぬものだと思っている。
「あっさり塩ラーメンセット」は楽しめても、「自分の現状」は楽しめないものだと思っている。

原理は同じだ。
自覚がない。
当たり前に気付いていない。
自分の目標に向かっている者を僻み、自分の現状を楽しんでいる者を小物だと嘲る。

大した問題ではない。
自分が望むものが手に入らないことは、おかしいのだ。
自分が現状を楽しめないのは、おかしいのだ。
自分が何かを間違えているのだ。

人のせいにしても、問題は解決しない。
自分のせいにして初めて、問題は解決に向かう。

手を上げて、「こってりラーメンセット」を注文しよう。
目の前の「あっさり塩ラーメンセット」を楽しみ尽くそう。

そして何があっても決してこれだけは忘れてはならない。
食べ過ぎると、太る(涙)。

不安の槍とイケメンの窮地。


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先日、異常に相槌の早い男と話しをした。
その男は僕が一節の半分しか話していないのに「はい」と相槌を打ち、「そんなことより」という勢いでもって自身の不安を突き出してくる。
僕はすっかり辟易としてしまって、その場を早々に切り上げて、ミスタードーナツのポンデリングに癒しを求めたのであった。

会話というのは、人類が触れる最も身近で最も深遠な行為である。
時により場により人により、必要とされる言葉が違う。
同じことも場違いなトーンで話すと受け入れてもらえないし、同じようなトーンで話しても表情や服装や髪型などで相手に与える印象は異なる。

中でも最も罪深いのは、自分の話ししかしたがらない者だ。
散々不安を感じているのだから、その不安をぶちまけたい気持ちはよく分かる。
実際に吐き出した方が良い場合も沢山ある。
しかし、「周りの人が相手にしてくれない」という不安を周りの人の言葉を遮ってするその男は、やはりどうやらもうしばらくその修行の中に身を置くべき時期のようで、ふらりと現れた僕を軽く蹴散らした挙句、再び不平と不満の渦の中へと還っていったのである。

ポンデリングを食べながら、僕は色々なことを考えた。
僕は大変なお喋り好きだ。
思うことも言いたいことも山ほどある。
それを迂闊に人に押し付けることは良くないということも承知している。

しかし、実際問題として僕は人に不安の槍を突き刺して元気を吸い取るような男と出会った。
そこには神様の宿題とも言える、何かメッセージのようなものを感じずにはいられない。

チョコレートの掛かったオールドファッションに手を掛けたところで、はたと気付いた。
もしかしたら僕は、大変な思い違いをしていたのかもしれない。
おそらく神様は、こう言いたかったのだろう。

「愛とお節介は違うのだ」

と。

実際僕が彼女様に「しとやかな女性の美しさ」を説いたところで、一切相手にされない。
それどころか、僕の言葉に反発するように奔放で凶暴になってゆく。

そう、彼女様は「しとやかで美しい女」になろうなどと、一切考えてはいないのだ。
いくら僕が「しとやかな女性の美しさ」を説いたところで、それは見事に「お節介」なんである。
このことに気付いた瞬間、かつて携帯屋時代にレンタルビデオを借りに来た客に必死で「ケータイいかがっすか」と声を掛け続けていた、あの虚しさが胸の奥から去来した。

彼女様に少しでもしとやかになってもらうことが今後の僕の人生を左右すると思っていたから、この気付きを得た瞬間の驚きといったらなかった。
気が付いたらポンデきなことエンゼルフレンチが新たに手元に買い足されていたほどだ。

人が望まないものを与えることを「お節介」と呼ぶのなら、人が望むものを与えることを「愛」と呼ぶに違いない。
人は自分を愛してくれる人を愛するから、「奔放で凶暴な女」を目指す彼女様の背中を押すような言葉を使えば、結果として僕は彼女様からもっと大事にされるということになる。

エンゼルフレンチを握りしめながら、僕は葛藤していた。
今のままでも十分に、僕はその奔放と凶暴に打ちのめされているのだ。
それを助長させるような言葉を使うというのは、僕にとっては腹に刺された包丁を「もっと深く突き刺してごらん」と言うに等しい行為である。
正気の沙汰ではない。

しかし、これまで戦って、戦って、戦い抜いて僕はボロボロにやられているのだ。
「戦わない」という選択肢があるのなら、是非選びたい。
これ以上の負け戦は御免被る。
手のひらにへばり付いたクリームを拭き取りながら、僕は胸に決意を秘めた。

事務所に戻ってしばらくすると、彼女様が仕事から帰ってきた。
相変わらず、こちらが首をかしげるほどに、乱暴な勢いで扉を開ける。
芸能人格付けチェックで、浜ちゃんが正解の扉を開ける勢いを想像してもらえれば、その乱暴が少しは伝わるだろう。

彼女様はバッグとコートと半蔵(チワワ/オス/4才)を床にばらまくと「疲れた!」と言って座り込み、僕に暖かいお茶の提出を要求した。
騒々しい日常の中で、僕は勇気を振り絞った。

僕「お疲れさまでした。」

彼女様「ん」

僕「相変わらず良い勢いでドアを開けるよね」

彼女様「は?」

僕「あれくらいの勢いで開けてもらえたら、ドアも建て付いてる甲斐があるんじゃないかな」

彼女様「何?喧嘩売ってんの?」

僕「と、とんでおもない。僕はただ、君にもっとほんp・・・自由で、きょうb・・・大らかに生きてほしいだけさ」

彼女様「何なの?バカなの?死ぬの?」

僕「もうすぐお茶が入るからね。」

彼女様「そういえばお前、この前置いていったイモのサラダ食ったか?」

僕「も・・・もちろんです。おいしかったです」

彼女様「ちょっと冷蔵庫ん中見せろ」

僕「すいません嘘です忘れてました冷蔵庫の中で傷んでます本当にすいません」

彼女様「ちょっと包丁とってくれ」

僕は誰かにこの不安を突き立てたくてしょうがなくなった。

人は人を幸せにするために生まれてきている(嘘)。


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僕は24時間365日ダイエットに勤しんでいる。
その結果、体重100キロの巨漢よりも軽く、体重150キロの関取よりも軽いというスリムな体を維持している。

しかしその一方で、ダイエットには失敗し続けている。
体重40キロの拒食症患者よりも重く、体重3000グラムの健康な赤ん坊よりも重いという肥満体だ。

物事には常に2つの視点がある。
物質はそれよりも軽いものと比べれば重く、それよりも重いものとくらべれば軽い。
そもそも「重量」という概念そのものが、人間の感覚を元に決められた相対的なものだ。
人が理解できるものでなければ、「重量」を感じることがそもそもあり得ない。
地球が重くて肩凝りが治らないという人はいないし、銀河が重くて階段を上がるのが辛いという人もいないだろう。

これらの事柄から得るべき教訓は、結局、人は自分の物差しでしか物事を計れないということだ。
そしてその物差しのことを、昔の人は「価値観」と名付けたのだ。

他人の価値観は、実に身勝手である。
例えば僕は拙い文章を駆使して日々彼女様から被る被害の数々を訴えているのだが、集まるコメントやメッセージは「彼女様のファンです」「お前はもっと痛い目にあうべきだ」「あんな女になりたいです!」といった、犯行を助長するようなものばかりだ。
皆、自分が楽しければ、ヤマモトの一人や二人、どうなろうと構わないと思っている。
実に身勝手な価値観だ。
一度でいいから苛立ちのピークに達した彼女様に会わせてやりたい。

人の価値観は、あらゆる場面で交錯し、すれ違い、混ざり合っている。
例えば素晴らしいミュージシャンのライブを観ている会場はひとつの価値観で盛り上がっているように見えるが、その実、各個人が何をどう楽しんでいるのかということを突き詰めてゆくと、全員が全く同じものを同じ解釈で楽しんでいるということは絶対にない。
観客の心が真にひとつになるのは、ミュージシャンが余計なことを話して思い切りスベった時だけだ。
その価値観の集中豪雨を浴びた者が言うのだから、間違いない。

価値観とはつまり、僕は桑田佳祐が好きだけど、君AKBが好きなのだという、たったそれだけのことである。
ある人が美しいと感じるものを、美しいとは感じない。
ある人が吐き気を感じるようなものを、心から愛しいと感じる。

これを許しあうことができたなら、人はもっと幸せになれるのだけど、残念ながら未熟な者は自分の価値観と相違するものを攻撃しようとする。
そうすることで、自分の価値観が正しいのだと、自分に言い聞かせているのだ。
つまり、自信のない自分の価値観を、攻撃という行為で守ろうとしているのである。

どれほど趣味の近い間にも、価値観の相違は絶対にある。
宗教の世界では神様でさえ、全ての人間から好かれていない。
いかに神が完璧であろうと、評価をする側の人間が不完全なのだから、当然である。

ところが、多くの人はそれが認められず、またそのことにも気付かず、他人の価値観を変えようとすることに一生を捧げる。
そして、ほぼ確実に失敗して死んでゆく。
強引に人の価値観を捻じ曲げた者は、薄暗い穴倉の中で奴隷に跨ってふんぞり返る。

断言するが、人は人を変えるために生まれてきているのではない。
人を幸せにするために生まれてきているのでもない。
人は、幸せに生きて死ぬために生まれてきている。

もし君が今幸せでないのなら、それは人のことばかり考えて生きているからだ。
もし君が今許せない人がいるのなら、自分のためにその人物が都合よく変わるべきだと思っているからだ。
もし君が今人生のどん底にいるのなら、それは君がどん底が似合うような生き方をしてきたからだ。

君は、何をしたら楽しいのだ。
ゆっくりと息をして、少しの間あらゆる不安を忘れて、自分のヘソの下や肩口、頭蓋骨の裏側や胃の辺りに、どのような感覚があるかを感じるべきだ。
そして何かを感じたら、それを感じ尽くしてみるべきだ。
それはザワザワしていたり、ワサワサしていたり、ジンジンしていたり、ジュクジュクしていたりする。
それが感情だ。
余計な言葉や解釈を添えてはいけない。
感覚だけを感じ尽くす。
それこそが、僕たちが無視し続けてきた僕たち自身だ。
そして、何をしたらどこにどんな感覚が生まれるのかということこそが、君の価値観そのものだ。

色々と悩みは絶えないが、まずは自分の感情をしっかりと拾い上げてゆくことを練習すればいい。
それをコツコツと続けていくと、自ずと人の気持ちや感情が分かるようになってくる。
誰かと共感する能力が育ってくる。

まずはしっかりと自分を感じることから始めるのだ。
少しそういったことに慣れてきたら是非、不遇を訴えても笑われるだけの僕に、深い共感をしてほしい。
笑うようなヤツは、これからもう酷い目に合わせてやるんだかんな。コンチクショウ。