誹謗中傷をしない子を育てる言葉のつくりかたについて

ミュージシャンでレッスンプロの柴田ヒロキ氏とコラボして『ギター弾き語りタッグレッスン』というサービスを制作中である。

小さく始めたスタートアップキャンペーンが5月いっぱいで終わるのだけど、キャンペーン期間中に参加してくれた役者として長く児童演劇に関わっている″ゆうたん″から、こんなお題をもらって3人で議論した。

子どもたちの中に、なんの罪もない人を誹謗中傷したりしない、正しい想像力を育むために、表現者として「言葉」をどう使えばいいか。

ゆうたんは昔からのプロレスファンだ。彼はプロレスラーの木村花さんが亡くなったことと、彼女が悪意ある誹謗中傷を受けていたことに、心を痛めていた。

小さな子どもたちの教育の現場に携わる一員として、先生ではなく表現者という立場から、どういう風に「言葉」を考え、使えばいいのか。

いやまぁ、ギター弾き語り教室で取り扱うテーマとしてはおよそ深遠で壮大なのだけど。向き合い、語り合ってきました。その足跡を残しておきます。

柴田さん、ゆうたん、何か抜け漏れあったら、どっかでコメントくれぃ。

想像力とは、今その場から見えないものを思い描く能力のこと

問答の最初に「想像力って何?」ということを考えた。この言葉のイメージがズレてたら、話しが噛み合わないもんね。

「他人の気持ちをイメージできる力」

「物事には今見えている面、意外にもたくさんの面があることを分かっておく力」

「自分が何かをすることで、どんなことが起こるのかを思い描く力」

など、いろいろ出た意見をとりまとめて、今回の問答では、想像力のことを「今その場から見えないものを思い描く力」という風に定義してみた。

以降、この前提で話しが進むよ。

言葉を選ぶ前に、自分が何者としてその場にいるのかを問う/問い続ける

これが今回僕たちが取り組んだ問答の、ひとつの結論である。

現場では、特にゆうたんが関わっている小さな子ども達が学び合うような現場では、大人には想像もできないような出来事が笑っちゃうほど多発する。

そのひとつひとつのケースに対して「正しい回答のリスト」を作ろうとするのは、無理がある。向き合う子どもたち一人一人がまるで別人なのだし、自分自身の状態だって変化し続けるからだ。

だから正しい回答を求めるのではなく、可能な限りベターな回答を続けることができるように自分自身を定義し続けることが大切、という考えである。

そこでゆうたんに「子どもたちにとって、ゆうたんはどういう人でありたいの?」と聞いてみたら、「頼りになるお兄さん」や、「自分が子どもの頃に見ていた香取慎吾」という言葉が出てきた。

出てきたのだけど、例えば現場で「僕は頼りになるお兄さん」とリマインドをしたら、エネルギーが湧いてくるだろうか、という質問には、「ちょっと違うかも」とのこと。

こういう、自分の中にある大きなエネルギーにアクセスできる自己の定義は、ある意味生涯を通して追求し続けるものなのだと思う。

ゆうたん自身は既に大きなイメージを持っていることは分かった。そのことをお祝いしつつ、改めて「子どもたちにとって、自分はどういう存在でいるのか」ということを自分に問い続けることを、終わりのない宿題として持ち帰ることになった。

「どうせこの子は幸せになる」と信じる

子どもたちにとって、ど自分はどういう存在でいるのか。それを考えるひとつの要素として、「どうせこの子は幸せになる」ということを信じてみる、というアイデアが出た。

「自分がこの子を幸せにする」という発想だと、自分がその子を幸せにできないと、その子は不幸である、というニュアンスが残る。

そこで、「自分がいてもいなくても、この子は幸せ。けど今日自分と出会えたことで、この子はもっと幸せになってしまう。やったぜ」という発想で、子どもたちと向き合ってみるということだ。

こうすると、自分が言葉選びを失敗することが怖くなくなる。失敗したって、その子は幸せになってしまうのだから。

そして軽やかな気持ちで言葉を選べるようになる。自分が選んだ言葉で、その子の幸せが増えるのだから。

そして想像力の翼は、きっと気持ちが軽やかなほど、遠くまではばたくことができる。子どもたちより先に、こちらが軽やかでいなくては。

失敗(に見える)経験を歓迎する

これは柴田氏から出たアイデアだ。子どもたちは、きっとこれから誰かを傷付けたり、誰かに傷付けられる経験をたかくさんしていく。柴田氏自身も子どものころ、気に食わないヤツをトイレに連れ込んでボコボコにしたことがあるらしい。こわい。

けれど、気まずい思いをするから、痛い思いをするから、そういう経験をするからこそ、自分なりの正誤の判断基準が引かれていく。

まだまだ人生経験これからの子どもたちは、だから、何かを経験したことがそもそもお祝いすべきことなのだ。

今回ゆうたんは、「お絵かきの時間に、隣りにいたお姉さんの絵を見て自分の絵を消してしまった小一の男の子」を引き合いに出して、「もっと自由に自分の想像力を信じていいんだよ」ということを伝えたいと言っていた。

そこに対して「自分の絵を消してしまうことも、その子の人生経験のひとつとして、お祝いしていいんじゃないか」という視点を投下した形になる。

もちろん正解がどちらかは分からない。ケースバイケースで変わるだろうし、僕たちが気づいていない他の選択肢もきっとある。

けれど、もしそこで自分が「どうせこの子は幸せになる」と信じることができていたなら。無責任に子どもたちを放置するのとは全く違う形で、彼らを見守ることができるかもしれない。

自分を考え続ける自分と、どうせ幸せになる子どもたちを信じる

十分に吟味する余裕のない現場で、それでもより良い選択をしたい。

その選択で、子どもたちを豊かな想像力を持つ大人へと育む言葉を選んでプレゼントしたい。

そのために自分に何ができるだろうか。

ゆうたんが投げかけてくれてたこの素敵な問いに対して、僕たちは「自分を考え続ける自分と、どうせ幸せになる子どもたちを信じる」という、ひとつの結論を得た。

とてもいち弾き語り教室で取り扱う案件ではないように思えるけど、どっこい、こういうことをどれだけ深く考えているかが、言葉を使って表現をする人には、とても大切だったりする。


返す返すも、これが絶対の正解だなんて思わない。ゆうたんはともかく、僕と柴田氏は、少年少女への教育に関しては素人もいいところだ。

一方で、悪くない結論だとも思う。愛おしい仮説だと思う。そして、困難な宿題だと思う。

思い出すだけでエネルギーが湧いてくる自己の定義と、それを思い出すための仕組みは、サッと手掛けてパッと作れるものではない。

これまでの自分の思考グセはすぐには黙ってくれないし、これも繰り返しになるけれど、小さな子どもたちのいる現場では、何が起こるか全く予想できない。

備えることの難しい、不意打ちがデフォルトの現場にいて、それでも子どもたちの健全な成長を祈り、何かを備えようとする行為は、ベタだけれど、それが一番の備えのような気がする。

ちなみに僕はゆうたんとは別の、家族との向き合うシーンに、同じ宿題を持ち帰ることにした。毎日会う人。一番分かってほしい人。一番分からない人。家族って、そういうところかないですか。

妻も子もいる僕は、妻と子にとってどんな人でいるのか。彼女と彼の幸せを信じられるか。愛おしくも困難な宿題に、結局最後は毎日の中で泥臭く取り組むしかないのだと思う。

その答えを、ゆうたんは演技にして、柴田氏は歌にして、僕は、、、あれ?僕は、何にするんだろ?ま、まぁ、なんとかして、なんとかしよう。がんばろ。

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