友達を大事にしてこなかった僕たちが友達を続けている理由

ゆうさく
大阪で新しい家を賃貸で探してるんだけど、犬2匹&子連れで暮らせる遮音性バッチリのお家ってほぼないので、かなり難儀している。今日の午後2件内見なんだけど、いいとろこが見つかるといいなぁ。

僕はとっても友達が少ないことで有名です。全国の僕と妻以外の人を除く全ての国民が知っています。

そんな僕にも多少は友達がいて、特に大阪のある友人とは、帰ってくる度になんとかタイミングを作ってお酒を飲んでいます。

その友人が、この前一緒に飲んでいる時にこんなことを言っていました。

「私は友達を大事にしてこなかったから」

その友人は、その都度入っているコミュニティでの繋がりはできるけど、昔からの友達はほぼいない。ということを端的に、自虐するでもなく、けれどまっすぐ核心を射る一言が、胸に残りました。とっても素敵だな、と思った。

友達は少なくていい、いなくていい、というのは、少し前に流行った文脈です。でも、「友達を大事にしてこなかった」というのは、それとは少しニュアンスが違うように思います。

それは罪であり、悪のような気もする。一方で、「友達を大事にしてこなかった」という言葉に救われた気分になっている僕もいる。

そもそも、どうしてお互いが「友達を大事にしてこなかった」と自覚している僕たちは、今こうして友達を続けられているんだろう。っていうか、僕この友人から大事にされてない、と感じたことないんだけど。

なんだか、大いなる勘違い、あるいはすれ違いがあるような気がします。今回の記事ではこの辺りについて、少し考えていきます。

この画像みたいな写真が撮れる友達関係って、違和感がすごい。舞台か何か?って思っちゃうけど、普通にSNSに転がってるよね。

友達を大事にしてこれなかった理由

友達を大事にしてこなかった。それは、もちろん僕にも当てはまります。

僕は基本的にコミュ障ですから、人との関わりは最低限に止めたい。でもそのことを自覚して、ある意味戦略的に人との関わりをデザインできるようになってきたのは、結構最近の話しです。

学生時代などは、関わっては疲れ、交わっては疲れ、卒業などの機会に「もういいや」と人間関係をほぼ全て破棄する、ということを繰り返していました。

それは別に、誰が苦手とか、誰が嫌いとか、いやもちろん個別に見ればそういう感情はあるのだけど、だからといってそれだけでもない、もっと大きな「疲れ」と、その先にある「くたびれ」の結果です。

そうそう、すごく友達の多い人と話していて、驚いたことがあります。彼は人と会っている時間が終わると、必ずその後にメッセージを送るんだそうです。

常に誰かと連絡をとっているから、LINEの通知は鳴りっぱなし。誕生日も忘れず、冠婚葬祭も抜かりなく、Facebookでは常に誰かと並んで盛り上がっている写真がアップされています。

これが僕には信じられない。だって僕は、人と会っている時間を最低限にしたいし、人と会っていない時には人のことを考えたくない。だって疲れるもの。

そして、人と会っていない時にその人との繋がりを保とうとしたり、その人のために何かを考えることが「人を大事にすること」なのだとしたら、僕や大阪の友人は間違いなく、「人を大事にしていない」ということになります。

ううむ何だか、深い問題が見えてきた。

友達を大事にしてこなかった人にも友達がいるのはなぜだ

不思議なことがあります。僕の数少ない友人たちは、声をかければいろいろと予定を調整して、会ってくれます。会えば楽しいし、お酒も進みます。僕は彼や彼女のことが大好きだし、たぶん彼や彼女もそうだと思う。

僕は友人たちに対して、「人と会っていない時にその人との繋がりを保とうとする」ことを一切していません。そういえば、友人たちからもそういうことをされた覚えがない。

もちろん、お歳暮も年賀状も出しませんし、届きません。SNSはフォローし合ってるけど、別段お互いに意識してチェックしているということもなし。

めったに連絡を取らないし、連絡をする時はこちらが言いたいことを言うだけだし、そこで始まったやりとりも、話しの途中でもどちらかが飽きたら止まります。

お互いに大事にし合っていないのに、お互いが好き。不思議ですが、ここまで書いてきたおかげで、おぼろげながら答えが見えてきました。僕たちは常日頃から人との繋がりに意識を割くことは苦手だけど、今目の前にいる大切な人に全神経を向けることは、得意なのです。

実は僕たちは友達を大事にしてきていた

結局のところ、友達を大事にする方法は、人によって違うのだ、という話しなのだと思います。

人との繋がりの中に心地よさを感じる人は、常にLINEの通知に晒され、季節節々冠婚葬祭ソーシャルメディアにリアルな飲み会なんでもござれ。人と会うことで元気になるのだし、そういう人は同じような人と繋がるだろうから、自ずとコミュニティは大きくなっていきます。

あと、そういう友人たちの話しを聞いていて感じたことなのだけど、彼らは「友達」のハードルが異常に低いのです。まさに友達の友達は友達、の世界。分かり合ってるとか、理解する努力を寄せ合っているとか、関係ないのです。信じらんない(爆)。

僕や大阪の友人は、そういうことをするとたぶん、疲れ果てて死んでしまう。だって人と関わることは疲れることなのだもの。

誤解してほしくないので弁明しておくけれど、それは相手が好きとか嫌いとか、そういう感情とは別の出来事です。僕は大阪の友人とゲラゲラ笑いながら何時間でも話しができますが、その後ちゃんと疲れます。程度は違うと思うけど、友人もたぶん、同じなんじゃないかな。

僕たちにとって、人に会うことはエネルギーを消費する行為なのです。そういう脳なの。だから、人と会うために理由が要るんです。

その理由が「その人と一緒に居て心地いいかどうか」ということ。その辺の感覚を僕なりの言葉でさらに具体的に言うと、「その瞬間相手に全神経を向け、理解を寄せる努力をしたいと思えるかどうか」ということです。

大勢で盛り上がるのが好きな人って、これをやらせてくれない感じがするのよね。ツボが違うっていうことだと思うのだけど、グッと集中したと思ったら他の人の方を向いちゃう。聞いて欲しいことがあるのに、上辺だけなぞって次の人に流れていく。そういうことされると、めっちゃ寂しいんです。

だからつまり、僕たちは友達を大事にしてこなかったんじゃなくて、大事にし合える人とだけ繋がり続けることができてきた、ということなんじゃないかな。

このまま自分たちなりに友達を大事にしていれば大丈夫。たぶん

外交的であることが称賛される世の中において、そういう人同士が出会えるのは奇跡みたいなものです。まぁ、オタク文化がある程度承認されてる日本は、外交的であることが賞賛されるアメリカなんかよりはずっとマシなんだと思うけど。

とにかく、何がいいとか、悪いとか、ということではなくて。

世の中には、人と関わることで元気になる人と、疲れる人がいる。後者は当然、本能で不快感から離れようとするから、人との繋がりがどんどん減っていく。

けれど、孤独だからこそ理解したいし、理解してもらいたいという願いは大きい。そういう願いを持った後者同士が、お互いを局地的に大事にし合いながら、長く付き合い続けている。

つまりですね、後者同士がが自分を犠牲にしないで済む方法で関係を維持していることは、どうしようもなく「友達を大事にしている」ということだと思うのです。

そんなわけだから、陰キャ諸君よ、胸を張れ。深くてキモい関係の友人と、これからもズルズル付き合い続けよう。ただ、そういう同志とは生涯で何人も出会えるわけじゃないから、今いる友達が何か助けを必要としていそうだったら、全力で寄り添いにいこう。

それが僕らの、友達を大事にする、なんだと思う。たぶん。

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