ラップバトルと外山滋比古によるセレンディピティ。あるいは空虚が無能になって嬉しい話し。

お喋り少年と30年後のラッパー

自分に自信があるとかないとか、そういうことがよく分からなかった。ネットに顔を出すのは平気だし、その時考えていることを言葉にすることも苦手ではないから、話しの上手下手はさておき、そこに迷いがない限りは、僕は自分に自信がある方なのだろうな、と思っていた。

それが揺らいだきっかけは、YutaNのサブカル流しというYouTubeチャンネルを一緒に作っているYutaNが、「ラップバトルが楽しい」という話しをしてきたことだ。

これまでラップを聴かなかった僕は、当然ラッパーのこともまったく知らない。言われるがままに動画を検索してみると、いかつい顔をした男たちがリズムに乗ってお互いを罵り合ったり、揚げ足を取り合ったり、時には絶賛し合ったりしていた

そのうちようやく、彼らが恐ろしく主観的な主張を繰り返していることに気付いて、また驚いた。ラップバトルでは、ラッパーAの「俺が正しい」という主観的な主張に対し、ラッパーBが「俺の方が正しい」という主観的な主張を返す。その応酬を体験した観客が、「どちらがイケていたか」という主観的な基準で勝者を選ぶ。どこまでいっても、そこには主観しかない

小学生の時、周りの大人や上級生から、お喋りだ、生意気だ、黙っていろといって怒鳴られたり、殴られたりしたことを思い出した。主観で感じたことを言葉にすると嫌われたり、いじめられたり、人を傷付けたりした。いつしか話す時に、言葉を選ぶようになった。自分の内側に生まれた言葉を摘むようになった。僕も大人になったのだと、誇らしく思っていた。

だからなおのこと、ラッパーたちの行為が不可解に見えた。どうしてあんなに堂々と、再現性のない主観的な主張をし続けられるのだろう。相手の主張を取るに足らないものと断じられるのだろう。

分かっている。あれは、そういうパフォーマンスだ。芸事のひとつである。つまり嘘だ。しかし100%嘘というわけでもない。リアリティのないラッパーはバトルでは勝てないから、本音純度は高めなければならない。

結局その時は、彼らは心が強く、僕は弱いのだ、というおぼつかない着地点で、検討は決着したつもりでいた。

乱読のセレンディピティによるセレンディピティで空虚になる

その考えがふたたたび揺らいだのが、外山滋比古の「乱読のセレンディピティ」を読んでいた時だった。本の序盤に「知識だけを集めても考える力は育たない」という旨の文があった。それを読んでまさにセレンディピティが起こった。

ちょっと話しがズレます。ADHDは多動や集中力の欠落という症状で有名な障害だが、その中に思考の多動という概念がある。動きに落ち着きがない肉体的な多動や、ひとつの物事に集中し続けられないという性質は、この思考の多動から始まるという論もあるらしい。

僕はADHDである。小学生の時はそんな分類はなかったが、確かにずっと動き回っていたし、集中力もなかった。頭の中はいつもとっ散らかっていて、騒がしかった。深く考えることができず、どこかから湧いてくる言葉を推敲しないまま周囲に撒き散らしていた。

中身がないうえに支離滅裂なお喋りだったから、周りの人はさぞ辟易としたに違いない。そりゃあ近くにいるとうっとおしいし、気の短い人ならゲンコツのひとつもくれてやりたくなると思う。

そうやっていじめられるのが嫌だったから、時間をかけて湧いた言葉を摘む技を身につけてきたわけだが、だからといって頭の中に言葉が生まれるのを止められるようになったわけではない。この文章を書いている今この瞬間も、頭の中は騒がしい。その中から、今表に出したい言葉と、その連なりである思考を、苦労して選んでいる。

また別方向の努力として、ぼこぼこ無限に湧いてくる言葉を止められないのなら、せめてまともな言葉が出てくる環境を作ろうということで、本を読むようになった。電子書籍も読むが、スマホはすぐにSNSやゲームにアクセスできるから、やっぱり本は紙がいい。

そうやっているうちに、どこまでが本からもらった他人の知識で、どこからが自分の思考なのかが、よく分からなくなった。ある事柄と別の事柄の共通点の発見…つまりセレンディピティの快感はちょいちょい得られるが、ラッパーたちのように、「俺はこうだ」と主張できることは見当たらない。

人から意見を聞かれたら、借り物のゆるい論理思考で状況を分析し、つなぎ、そこから導き出される結論らしきものを述べる。アナロジーを使って別の事象を引用し、説得力を付与することもある。わが脳は信頼のおけない論理思考と、曖昧な知識を引き出すための道具に成り下がる。そこに僕のオリジナリティはない。三十代の半ばを過ぎて僕はからっぽの空虚な存在になってしまっていたのだと、ようやく得心した。

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感謝とニヒリズムの交わるところ

話しはさらに散らかる。一時期書道家の武田双雲が好きで、本や作品を追いかけていた。ADHDを告白し、失敗をさらけだし、笑顔で「感謝だ!」「ポジティブだ!」と叫びながら見事な作品を生み出し続ける彼のようになりたかったが、結局感謝の人になることも、見事な作品を生み出す人にもなれなかった。

やや枯れがかってきたころ、堀元見という人が、周囲に気を使いすぎて疲れてしまう人のことを「繊細さん」と名付けたビジネス本を読み、「この本は無能のための阿片だ」と論じているのを見て、大笑いした。

僕はどうにも、これさえやっておけば人生うまくいく、というものに弱い。一時期スピリチュアルな本をよく読んだが、それも結局、霊的なことに人生を楽にしてくれる活路が見いだせるのではないかという、阿片を求めてのことだった。

堀元氏はそんな過去の僕を無能と切り捨ててくれた。それは余計に伸ばした枝葉を剪定してもらったようで、実に痛快だった。自分を空虚から無能に格上げすることができた。人間に戻ることができたのだ。堀本氏には、感謝してもしきれない。

目指すのは「全身でものを考える無能」

人間に戻れたのだから、これ以上は望むべくもない。望むべくもないのだが、欲が出た。外山滋比古の言う「考える人」になりたい。馬鹿の考え休むに似たりというが、僕は馬鹿ではなく無能である。「考える無能」というと、考える馬鹿よりよほどたちの悪い何かになっているような気もするが、それは考えられるようになった時に考えよう。

考える無能になるためのアプローチとしては、運動を選択しようと思う。もともと朝から晩まで多動の限りを尽くしていた人間が、頭だけでものを考えようとしているから、無理があるのだ。たぶん。

だから体を使おう。どんどん動こう。フィジカル的にも多動に戻ろう。物理的な自分全部を使って考えるのだ。とりいそぎ、通勤を車から自転車に変えよう。ついでに日々拡張を続ける腹部の外周距離の減少が伴えば、とってもうれしいです。

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