違うんです社長、聞いてください〜社外研修から逃げ出した件に関する言い訳〜

会社の研修として、障害当事者が障害者をサポートするための知見が得られる、という触れ込みの講座に参加したのだけど、どうしてもその場にいられなく途中離脱することにした。

トータル2日半の講座に対して、掛かる費用は確か2万円。弊社は僕と社長の2人で参加したが、会社が払った僕1人分の参加費を、僕個人の判断でドブに捨てたことになる。社長、ごめん。

そんなわけで今回の記事は、僕が社長に対して、どうして僕が2万円の損失を会社に背負わせてでも講座を途中離脱しなければならなかったのか、言い訳をするものである。社長が読むかどうかは分からないけど、自分の気持ちを整理するためにも、誠心誠意言い訳したい。どうぞ、お付き合い願います。

まず、ここに引っかかりました

自分で言うのも何だけど、僕はめったなことでは怒らない。周りの人や自分に対して、あまり期待をしていないからだ。

当然今回の講座に対しても、あまり期待していなかった。それなのに受講中に激しい怒りを覚え、多少冷めた後にも気持ちの悪い、居心地の悪い感覚に襲われ続けた。

僕が看過できなかったのは、主催者たちの精神性だった。それは一言で言うと、「成長マインド礼賛」だ。

成長マインドとは、変化を求め、責任を引き受け、ネガティブなこともポジティブに解釈し直そうと努める内的な営みのことを言う。らしい。

これは、変化を恐れ、責任を周囲に転嫁し、ネガティブな感情に身を任せる固定マインドの対立概念として立項され、「これからの時代は成長マインドの方が生きやすい」と語られたのだが、その話しを聞いた僕は眉間に寄せたシワを隠さず、手元の資料にこう書き込んだ。

本当か?

画像:資料に書かれた本当か?のメモ

「成長マインド」礼賛には明らかな欠陥があります

僕はもともと気持ちが塞ぎがちなナイスガイだ。うっかりすると1日の多くの時間を落ち込んで過ごしてしまうし、鬱で仕事を続けられなくなったこともある。当然再発を防ぎたいから、手当たり次第に手立てを探してきたし、同じテーマについて今も考え続けている。

そうした活動を始めてまず真っ先に出会ったのが自己啓発の世界であり、先ほど申し上げた成長マインド的な概念だった。15年ほど前の話しだ。

詳細は省くが、僕は成長マインドの権化となり、絞り出したエネルギーを元手に昔からの夢だったミュージシャンとして働き始め、失敗し、失職した。夢は破れ、たくさんのものを失った。仕方なくコールセンターでアルバイトを始めて、言葉の通じないクレーマーからの着信に怯えて過ごした。

こんなことはよくある話しだ。誰しも似たような経験をするし、成長マインドのせいで失敗したとも思っていない。問題は、失敗しつつある自分に対して、成長マインドの持つ構造的な欠陥が牙を剥き続けていた、ということだ。

即ち、「僕が失敗したのは、成長マインドに基づく行動が足りなかったからだ」という観念が、常に僕自身を責め立てていたのである。

これは宗教の信仰にも似ている。信者に良いことがあれば、それは信仰が神に通じ、恩寵を賜ったということになる。しかし信者に良くないことが起こると、それは信心が足りないからだ、という話しになる。

全く同じ構造を持っているのが、産業革命以降の社会を駆動させてきた能力主義という思想だ。能力を発揮した者はそれに見合った報酬を受け取り、いかなる理由があれ、能力を発揮しなかった者は報酬を受け取るに値しない、というものである。

そしてそれは、成長マインドにも同じことが言える。成長マインド礼賛というゲームの世界においては、成功を得たというのは、成長マインド的に生きられたということの証左に他ならないし、成功が得られないということは、成長マインドが足りないということになる。目的と手段が実に容易に入れ替わってしまう。それを止めることが人類にとって難しいということは歴史が語っているので、本項下部の出典を参照されたい。

このように、宗教も、能力主義も、成長マインドも、それぞれの観念において優秀な人がいい思いをし、優秀でない者は割を食う。嫌な気分になる事実だが、実はこれは表面的な問題に過ぎない。その裏には、さらにえげつない問題がある。落ちこぼれた者たちが差別され始めるのだ。

宗教においては、病気や障害や外部環境など、あらゆる理由で不幸な状況にある者たちは、信仰が足りないだとか、何らかの罪に対して神が罰を与えているのだと考えられてきたし、能力主義においては努力不足の怠け者として足蹴にされてきた。そしてそれは、今も多くの場所で変わらない。

そうした状況の中にいると、自分自身が努力を通じて恩寵や成功を得た(と信じている)優秀な者たちは、そうでない者たちを「信心/努力の足りない者」として見下し始める

そして見下された側においては、ある者は怒り拳を振り上げ、ある者は自分を責める。こうして幸福を求めるはずの行為の中で、さらなる不幸が生成されてしまうことが、宗教と能力主義と成長マインドに共通する構造的欠陥である。

余談だが、能力主義によってエリートたちに見下げられたと感じた大衆の怒りがドナルド・トランプ前大統領を生み出し、アメリカに怒りと排他の社会をもたらしたという論もある。その辺気になる方は、マイケル・サンデルがおすすめです。本項の根拠も、概ねこれに寄っています。

※Amazonのアソシエイトリンクが表示されない方はこちらをクリック。

どうしても許せなかったのは、これです

運営側が上述したような構造的欠陥のある思想を放置している程度では、僕はここまで怒らない。せいぜい

「これからの時代は成長マインドが生きやすいとか言ってるけど、そんなことは遥か昔から言われて続けてきてるのに社会の本流になってないことが既にシステムの不備を証明しているし、何だったらマイケル・サンデルみたいなさらに踏み込んだ論もあるのに、自分たちのやってることに酔って思考停止して同じことを言い続けてるんですね。成長マインド、足りてないんじゃないですか?

と嫌味を言えばとりあえずの気はおさまる。僕がどうしても許せなかったのは、「成長マインドは素晴らしい」という思想を、障害を持つ当事者や、障害者に関わる人々を相手に気持ち良さそうに振り回す、成長マインド的成功者ゆえの浅はかさである。

成長マインド経験のある障害当事者(ADHD)として、過剰な一般化を承知で言わせてもらえば、われわれ障害者は社会の様々な場面で落ちこぼれに甘んじて苦渋を舐め続けてきたし、自分自身を責め続けてきた。

そんなわれわれを集め、苦しみのない世界へ誘うかのように「成長マインドは素晴らしい」と吹聴するのは、害悪である。それは新しい競争の舞台でしかなく、宗教や能力主義のように多くの落ちこぼれと少しの成功者を生むシステムであり、埃まみれの構造的欠陥を持った何一つ新しくない思想の押し付けなのだ。

しかし、主催団体はそのことには気付かない。彼らは優秀な「少しの成功者」だからだ。成長マインドを極めれば誰しも自分たちのようになれると善意と確信を持って信じており、それ以上の疑念を持つことはない。成功した人は反省しないものだ。

彼らは固定マインドと成長マインドを二項対立させ、優しい言葉と表情で「どちらを選ぶべきか」と迫る。これは「誤った二分法」と呼ばれる詭弁の手法のひとつだ。つまり、第三、第四の選択肢がある可能性を無視して、自分たちにとって都合のいい回答…つまり成長マインドを選ぶしかない状況を与えているに過ぎない。

彼らはそもそも成長マインド以外を提案する気がないし、提案することができない。選ぶ側はよくよく注意しなければ、自分が論理的に破綻した二択を迫られていることに気付けない。

ただでさえ日々の生活の中で無力感と自己否定に苛まれがちなわれわれに対し、たまたま自分が勝てたからといって、何も考えずに新たな敗者を生み出す構造的欠陥のある思想ゲームを、詭弁まで用いて選ばせようとする浅はかなその精神を、僕は許すことができない。

今後社外研修について。お詫びとお願い

取り乱しました。

この記事は弊社社長への言い訳でした。こんなことではいけません。

ここまで書いてきたことで、僕が何に怒って講座を離脱したのか、分かって頂けたかと思います。ここからは今後の話しをします。

今想像されることとして、社長が僕に新しい社外研修を振らなくなる、ということが考えられます。いかなる理由があれ、会社の金でセッティングした場を拒絶するというのは、一種の叛逆行為ではあるでしょう。そのように考えられることも、仕方ありません。

しかしながら閣下、僕はADHDという精神障害の当事者であり、こうした空気の読めない行動を取ってしまうことこそが、僕の障害者たる実態なのであります。

こうした如何ともし難い事情に対し、深く共感を寄せられることが、弊社の美しい文化であると、深く信じております。

また、衝動性の高い僕にとって、自分の関心というフレームの外に、自分の力だけで抜け出すことが難しいこともまた、困難な実態のひとつです。

今回の講座においても、(主催者側がそうしようと考えた理由は分かるけれど)自己啓発パートが始まらなければ、僕には模範的な受講者として学びを尽くす準備がありました(社長も仰っていたように、どれほど講師の技量が拙くても、です)。

社外研修は僕にとって、自分の関心のフレームの外に強制的に自分を放り出す貴重な機会です。どうか今回の離脱には温情をいただき、今後も学びの機会を頂きたく、お願い申し上げます。

本当に申し訳ありませんでした。