16年間一緒に生きた愛犬を看取った翌日に考えたこと

力はないけれど、意思のこもった何度目かの鳴き声に呼ばれて抱きかかえた愛犬「大河」が、体に少し力を入れて息を止めたのは、昨日、5月22日の16時ごろだった。

大河は妻の連れ子で、僕が30歳で結婚して以来ざっくり6年間を同じ屋根の下で過ごしてきた。もちろんそれ以前からも付き合いはあり、妻とは10年近い交際期間があったので、距離の遠い時期があったとはいえ、僕はほぼほぼ彼の人生に参加することを許してもらえた、ということになる。

目が見えなくなってから2年。うまく歩けなくなってから1年。寝たきりになってから3日。彼は生後3ヶ月で出会って以来ずっと大好きだった妻の膝の上で、16年と10ヶ月の命をまっとうした。

今、大きな喪失感と、彼を最後まで看取れた誇らしい気持ちが交互にやってきて、心がとても忙しい。けれど、この機会を逃すと書けないことがある気がする。

少しずつできることが減っていく彼を見守り続けてきた日々を、このインパクトの中で振り返って、とても素敵なことに気付けたから、忘れないように書いておきたい。

手を抜かない

今、大河と一緒に生きたこの6年間に対して、何の後悔も残っていない。これは凄いことで、素晴らしいことだ。これまで人も動物も何人も見送ってきたけれど、この清々しさは始めての経験である。

どうしてこんなに悔いが残らなかったのか。大きな要素としては、僕が彼との付き合いに手を抜かなかった、ということがあると思う。

もう少し正確に言うなら、僕は手を抜かなかったし、大河は僕に手を抜かせなかった、となる。後半部分については次の項で書くので、まずは前半部分について。

突然だけど、僕は103歳で亡くなった曾祖母との関係に、大きな悔しさがあった。曾祖母は、父方のおばあちゃんのお母さんだった。名字は「林」。僕の名字は「山本」なので、曾祖母が僕の実家にいてくれたのは、ひとえに父方の祖母と祖父が、曾祖母の世話を引き受けてくれていたからだ。

優しくて、大きな声で笑う曾祖母が、僕は大好きだった。その曾祖母が家を離れることになったのは、僕が16歳の時。「林」と「山本」を繋いでいた祖母が62歳の若さで、肺がんで亡くなったことがきっかけとなった。毎日バッカバカ煙草吸ってるから。

祖母の弟さんが、これ以上は世話になれないからと、曾祖母を連れ出すという話しが出た。僕の母は「優作のために家に居続けてほしい」と言ってくれたそうなのだけど、祖母の弟さんは聞き入れなかった。曾祖母は娘を失った悲しみと、本当に少しだけの荷物を持って、「山本」の家からいなくなった。

この時の無力感たるや!

僕が、祖母の弟さんが両手を振って「優作になら任せられる」と言ってくれるくらい、立派な大人だったら!きっと曾祖母は、ずっと僕の帰る場所に居続けられたはずである。そう思った。思わざるをえなかった。僕は、誰もが納得する立派な大人になろうと、胸をかきむしりながら誓った。

あの日から20年。今の僕は立派な大人にほど遠い。経済力も、社会的影響力も、人間性も、何もかも小さい。妻も子もいるけれど、日々家族との慎ましい暮らしを支えることで精一杯だ。

16歳の僕に、36歳の僕は顔向けできない。けれどこの16歳の、がらんどうになった曾祖母の部屋で何時間も悔し泣きした当時の僕が、大河の人生の最終章に、万難排し全力を以て当たれと叫んでいたのだった。

数年前に「息子」と言って可愛がっていた愛犬を失った弊社社長のずずこさんは、大河が寝たきりになったことを伝えると、当たり前のように在宅で働くことを許してくれた。

義実家の両親は、ことあるごとに車を走らせ、大河に手を掛けている間、息子を見たり、食事の工面をしてくれた。

僕は立派な大人になれなかったけれど、僕の周りの人たちが、大河と妻と僕(あと弟犬の半蔵)という、わが家族のはじまりの形で彼を看取ることを、させてくれた。本当に感謝しかない。

今この寂しさと共にある誇らしさは、20年前の無力感に押し潰されていた僕に向けて、思っていた形とは違ったけど「今度は、やったよ」と呼び掛ける結果報告であり、大きな悔しさというギフトをくれた曾祖母への感謝である。

手を抜かず、ていねいに向き合うと、悔いが残らない。というのが、ひとつ目の学びである。

かわいいは最強

大河は可愛かった。爆撃的に可愛かった。大河の可愛さで地図から消えた街は数知れない。彼が幼少期を過ごした大阪府鶴見区は言うに及ばず、妻と結婚してから転々とし続けてきた街はことごとく彼の可愛さで焦土と化した。

当然その爆心地にいる僕や妻は骨も残らない。何なら、あまりの高温と高圧に原子がアレする感じのヤバめのアレが起こって、放射線とか出ちゃってたかもしれない。ごめん。

ちょっと取り乱したけれど、とにかく彼は可愛かったのだ。可愛い子には旅をさせろというが、それは間違いだ。可愛い子は抱きしめて、一緒にお散歩をして、カットしたリンゴをあげて、毎晩ていねいに歯みがきをしてあげて、一緒のお布団で眠るべきだ。

目が見えなくなったら間取りを変え、家具の角に保護材を設置し、泣く泣く生活エリアを切り分けて、能力の限りに快適な空間を提供する。したくなる。してしまう。

彼は凶悪な爆撃能力に加え、脳髄を鷲掴みにするような人心掌握能力さえ持ち合わせていたのだ。

インターネットには猫の飼い主のことを奴隷と呼ぶスラングがあるが、わが家で発生していた事象を正しく捉えるなら、僕と妻は生まれ育った街から連れ去られ強制労働を強いられた奴隷ではなく、自分の意思でその身を捧げることを誓った「騎士」であった。

余談がすぎる。結論を言います。可愛い子には、何でもしてあげたくなっちゃう。誰かに頼まれたからでなく、自発的に。義務感からではなく、喜びから。

姿と所作が肝要だ。中身は問題ではない。中身を見ると、大河は中年のオッサンだったこともあるし、頑固なじじいだったこともある。そんなことはどうでもいい。見た目。そして動き。これらが可愛いことで、大河はあらゆる罪を逃れ、あらゆる施しを受けた。

可愛いは、最強である。

手を抜かず可愛いげを持って生きることが、俺に良く、お前に良い

ここまで気付いたことを改めて整理しておく。

まずひとつ目は、大切なものに手を抜かずに取り組むと、誇らしい気持ちになれること。ふたつ目は、可愛いことは最強だということだ。

これらをひとつの学びとしてまとめると、「手を抜かず、可愛く生きる」ということになる。

前半はなんとかなりそうだ。面倒なことを面倒と思わず、ひとつずつ丁寧に取り組んでいくということを、大河に経験させてもらった。この肌感覚は、他のあらゆることに激しく応用できる。

問題は後半だ。可愛いく生きられるのか。この僕に。無理だ。絶対に無理だ。僕はあと数年で40歳になる小太りのおっさんだ。可愛いとは対極に位置する存在である。16歳の時の自分を二重の意味で裏切っている。やっぱり顔向けできない。

では、「可愛げをもって生きる」ではどうか。「可愛い」と言うとヴィジュアルも抜かりなく可愛くないと成立しない気がするが、「可愛げがある」だと所作や言動でなんとかなる気がする。天才か。

さて、仮に僕が「手を抜かず、可愛げを持って生きる」を実践すると、何が起こるか。

まず、僕が満たされる。手を抜かずに生きるというのは、それだけでかなりQOLを底上げしてくれる。これについては先述の通り。経験則から真であると断言できる。

そして可愛げを持って生きていると、可愛いほどではないにせよ、周りの人が僕に何かをしてくれる。そして僕は可愛げを持って生きているので、それらの行為に笑顔で感謝をする。

あと数年で40歳になる小太りのおっさんであっても、笑顔にはそれなりの効果があるに違いない。あってくれ。

あるとしよう。そうすると、僕に何かをしてくれた人は、満たされる。誰かに貢献するということは、嬉しいことなのだ。

誤解を怖れずに言い換えるなら、可愛げを持って生きるというのは、身近な人に貢献の喜びをプレゼントするという、高尚な生き方である。仏教には「貧しい人から施しを受ける」という修行があるそうだが、その超ライト版だと言えるだろう。

これらの考えが正しければ、「手を抜かず、可愛げを持って生きる」というのは、自分に良く、他人にも良い、最高の生き方である。そして僕は今この瞬間から、「手を抜かず、可愛げを持って生きる」を実践すると、強く誓う。

この素晴らしい仮説を与えてくれたのは、愛しい愛しい大河と過ごした幸福な日々と、身を裂かれるような別れの悲しみである。この生き方が僕を豊かにし、僕の周りの人を豊かにするなら、それは大河が、この世界を豊かにしていくことと同義である。

僕はこれからも大河と一緒に生きる。大河と一緒に、この世界を豊かにしてみせる。いつもみたいに、彼を左腕に抱っこして。

大河、いくよ。