「好きなことで食う」VS「好きなことでは食えない」あなたはどっち?


maxresdefault

「好きなことで生きていく」という言葉が流行ったと思ったら、「好きなことを仕事にしちゃけいない」という言葉が流行る。ちょうど彼女に「今日は何を食べる」と聞かれて「ラーメンを食べに行きたい」と答えたら、「行きたくない」という答えが返ってくるのと同じである。もう慣れたが、参考くらいにはしてほしい。

パワーのある言葉にアンチテーゼが生まれるのは、社会としては自然なことである。例えば100人が同じ言葉を聞いたなら、必ずその中に「納得した人」と「憧れたけどうまくいかない人」、そして「知っただけで行動しない人」というが現れるのだ。そこに市場がある。流行り言葉は儲かるが、流行り言葉への逆説もまた儲かるのだ。

しかし今回僕は話したいのは、それではない。もっとシンプルだ。即ち「好きなことで生きていく」という人と、「好きなことを仕事にしちゃいけない」という人は、別人である」ということだ。

違う人生を生きて来た人物が同じテーマについて語るとき、そこには必ず視点のズレが生まれる。例えば、「好きなことだから仕事にできるんだもんね」という人の根底には「好きなことだから止めどなく努力し続けられるじゃないか!やったぜ!」というものがあるかもしれない。しかし、「好きなことは仕事にならんのよ」という人の根底には、「努力してこなくてよかったから”好きなこと”なんでしょ?」という考えがあるかもしれない。

このズレは、当然なんである。なぜかというと、この二人は別の人生を歩んできたからだ。ギターが好きなA君はギター熱中する過程で努力を惜しまず人に認められた。ギターが好きなB君はそうならなかった。そういう人生なのだ。どちらが良い、悪いの話ではない。違う環境、違う考え方、違う人たちに囲まれて生きる別人なのだ。「好き」という言葉の解釈が、そもそも違っているのだ。「恋人」と「奴隷」が同義語だと思っている女もいるのだ。


発する側が発する側なら、受け取る側も受け取る側。1000人がひとつの本を手に取り読んだとしたなら、それは1000の人生というフィルターが、その本からの情報を汲み取っていることになる。感動して涙を流し人生が変わる人もいれば、時間を無駄にしたと怒り始める人もいる。当たり前である。

彼女に蹴られた経験のない男には、彼女から定期的に蹴られる男の苦悩は分からない。亭主関白に憧れる男には、女に屈する男の美学(良い言葉だ)が理解できないだろう。


みんな気付いているのではないか。この世の中に「正解」など、どこを探してもない。あるのは「法則」だけである。「法則」は「答え」ではなく「式の作り方」なんである。情報の発信者達は、誰しもが「答え」を探していることを知っているから、人目を引くために「答え」を提示する。その後に「法則」を伝える。この順番こそが、人に話しを聞いてもらう時の「法則」なのだ。

僕たちは今直面している「問題」からその「答え」までの間に、必ず「式」を通る。これらの問題は全て文章問題であるから、まず自分で「式」を作るところから始めなければならない。その時に「法則」を知っていると、間違った「答え」を出さずにすむ。

彼女から「今日は何が食べたい」と聞かれた時に「法則」を知っていれば、返すべき「答え」が、


「君と食べられるものなら何でもいい。何なら、今日は僕が何か作るよ。え?昨日の洗い物が終わっていない?やっておこう。食べてからの洗い物が面倒?やっておこう。肩が凝っている?揉んでおこう。」


であることが分かるのだ。


そういうえば先日読んだ何かの記事に、

〜「無理やりポジティブな言葉を使うとせっかく生まれたネガティブな感情が抑圧されて苦しくなる。感情は感じるために生まれるのだから、しっかり感じていればいいのに。」〜

ということが書かれていて、「上手いな」と思った。これは一見ポジティブトークへのアンチテーゼに見えるのだけど、実は違う。これは「ポジティブトークで上手くいかなかった人に向けたメッセージ」なんである。ポジティブトークで上手くいっている人も、ちゃんといるのだ。そういう人たちはこの人のお客ではないから、気遣う必要がないんである。

彼女の目を見つめて「綺麗だよ」と言うと本当に綺麗になるからやってみな、という人がいる。それは事実なのだろう。しかし、目を合わせると動悸息切れ発汗の症状が現れ、無意識に口から許しを請う言葉が溢れてしまう男に向けられた言葉ではない。「綺麗だよ」という前に、「今日は絶対に蹴らないから」という誓いがほしい(信用できるかどうかは別問題だ)。


「いろんな人がいる」、ということなのだ。そしてその中で、自分は下でもなく上でもない。ここ数年、外国の危険地帯に行って痛い目に合う人のニュースが続いているが、危ないところに行けば危ない目に合うのは当たり前なのだ。覚悟の有無にかかわらず、降りかかってくるのだ。

亡くなった方の魂が安らかであることを祈り、救える命が救われることを祈っている。しかし僕の人生は、僕の仕事は、音楽や言葉を使って人の人生を豊かにすることだ。僕がやるべきことは、「I Am Not Abe」のプラカードを持って国会前に駆けつけることではない。僕がそう決めたのだから、そうなのだ。そういう人生を生きているのだ。

「いろんな人がいる」んである。あなたは、どういう人生を生きるのだろうか。この記事をここまで読んだあなたの胸の内には、どのような思いや感情が芽生えているだろうか。引用文にもあったが、感情は感じるために生まれてくるのだ。どうか目を閉じて、良いとか悪いとか考えずに、自分がいかに矮小でゲスな感情を抱いているのかを感じてほしい。