強欲のすゝめ


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叔父は喉を鳴らしてミルクと砂糖をたっぷりと入れたコーヒーを飲み込んだ後、僕の母に向かって噛んで含めるように言った。

「最近の子は我慢を知らんからな」

母はそれを、焼酎のお湯割りを傾けながら聞いている。
死んだおじいちゃんは怒ると手が付けられなかったとか、死んだばあちゃんも口がきつくて酷い目にあったとか、そいういう話しを返したりもする。

僕は隣りで猫のシロをモフモフしつつクールにブラックのコーヒーを嗜んでいたのだけど、ふとした疑問が頭を過ぎった。
我慢しなくていいって、良い時代じゃん。

人の世は、少しずつ時間をかけてマシになってきているのだ。
生まれるのがほんの80年ほど違ったら、爆弾や鉄砲の飛び交う戦争の時代だった。
500年早かったら、斬り合い殺し合いが当たり前の戦国時代だ。

人の世は荒れたり落ち着いたりを繰り返しながら、だんだんとマシな方に向かっている。
子供が我慢をしなくて良い時代というのは、素晴らしいではないか。
それを実際に時代を変えた世代の人たちがどうのこうのと言うのは、何か妙な違和感を感じるんである。

「今の若いもんは刀の使い方も分からん」と言うのはいいけれど、刀の使い方を知らなくても襲われないし殺されない時代になったということだ。
それは、実に誇るべき、素晴らしい進歩ではないか。

なぜそのような言葉が出てくるのかというと、叔父や母が拗ねているからではないかという思いに至った。

「俺はこんなに我慢しているのに」
「私はこんなに我慢しているのに」
「「今の奴らは我慢してない(風に見えるから)のはズルい!」」


という塩梅だ。

だから僕はひとつの決意をした。
極力、何の我慢もせずに生きてみよう。
極力、楽しいことばかりに注目して生きてみよう。

そのためには、無意識にしている「我慢」や「やりたくないこと」に気付いて、淘汰せねばならない。
僕が叔父や母くらいの歳になった時に、

「最近はさらに我慢しなくて良い時代になったのう。デュフフ」

などと言って、ハードボイルドにウイスキーを傾けるという義務を全うしなければならない。

今僕は歌いながら街を歩き、電車の中では本を読み、多くの同僚がいる職場で一番勉強をしている。
その時「やりたい」と思ったことに対して躊躇せず、飛び込む姿勢を貫いている。

すれ違う人が不思議な顔をする。
電車の中では隣りの人が胡散臭そうな目でこちらを見る。
お喋り好きな同僚が隣りの席で物足りなさそうにしている。

実に痛快である。
自分の人生を生きている実感がある。
そして実際に、歌がどんどん楽しくなるし、本は人生を導いてくれる。
ややこしい仕事も、かなり頭に入ってきた。

「人に迷惑を掛けてまでそんなことをしたくない」と言う人がいるかもしれない。
しかし僕は人の耳元で大声を出している訳でも、電車の中で本を音読している訳でも、隣人のお喋りに全く付き合っていない訳でもない。

具体的な迷惑を掛けていないにも関わらず気分を害するのは、その人が勝手に迷惑と感じているからだ。
勝手に迷惑を感じるような人に合わせていては、自分の人生は歩めない。
拗ねている人に合わせていては、時代は進まない。

もっと強欲で良い。
もっと傲慢で良い。
もっと自分勝手で良い。

自分の「気持ちよさ」や「楽しさ」や「幸せ」は、全力で追いかけるべきだ。

そんなことを思っていたら母が、職場の同僚と飲みにいくから今日の晩飯は何かこう適当に済ませておけ馬鹿者共が、といったメッセージを残して出て行った。
随分と楽しそうに、言葉も弾んでいた。

ほら、やっぱり我慢しない方が、楽しいじゃないか。