何する訳でもなき日の祝福。


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土日に少し時間ができたので、和歌山の実家に一泊帰省をしていた。
両親もじーちゃんも猫のカイちゃんも健在で、実に安心した。

僕の地元はメインストリートの十字路に信号もないようなど田舎だ。
地域住民はモラルとアイコンタクトで角を攻める。

我が家はそんなメインストリートから200メートルほど山の中に入っていったところにある。
窓を全開にして寝転がれば水と稲の間を泳いできた風がカエルの鳴き声や木々のさざめきを連れてやってきて、僕を優しく撫でてくれる。
ただそこに居るだけで心が静かになり、余計なものが落ちていく。

雨の合間に曇天を見上げていると、白くて大きな鳥が二羽、連れ添って飛んで行った。
隣りに居たじーちゃんが、

「あの鳥が本流の川からこっちゃの細い川に来るから、魚が随分減ったど」

と言う。
確かに、広い川よりずっと漁がしやすいだろうと返すと、

「うぇあからっちゃらあぁぁょお」

と返ってきた。
一か八かで大きく頷くと、じーちゃんも満足そうに頷いた。
今回は僕の勝ちだ。

街で生きていると、そこにはたくさんの雑音がある。
いやきっと、田舎に生きていても、その雑音は聞こえてくるのだろう。

僕らはどうしたって過敏だから、その雑音の中から悲しい音や辛い音を拾ってしまう。
ただ、極端な環境を往復していると、その雑音は実は外から聞こえてきているのではなく、自分の中で鳴っているものなのだと気付く。

当然、いかに田舎の環境が素晴らしくても、親父が酒を飲むと暴れるとか、母親がガミガミうるさいとか、そういうのでは今ひとつピンとこなかったかもしれない。
しかし幸いなことに、僕の両親やじーちゃんや猫のカイちゃんは僕のことを笑顔で歓迎してくれるのだ(一部、ペディグリーチャムを要する者がいる)。

こんな幸せなことはない。

窓を全開にして、カーペットの上に枕だけだして、そこで昼寝をする。
生まれてこの方見上げつづけてきた天井がそこにあって、ぼんやり眺めてウトウトしているとため息が出るような至福が押し寄せてくる。
あまりに気持ちよくて、そのうちに自分と自分以外の境界線が曖昧になってくると、今度は感謝の気持ちが止めどなく湧いてくる。

そしてまた、この瞬間が永遠でないことも感じる。

既に僕は何人も家族を見送ってきた。
僕自身が子供から大人になるというプロセスも経てきた。

それは、僕たちの家族が生きていることの証である。
死の天使はいつでも、今この瞬間の幸福に感謝せよと、僕たちに語りかけてくれるのだ。

戻ってきた大阪は、雑然としていて狭苦しい。

だけど、僕は知っている。
この雑然とした狭苦しさは、僕の中にあるものだ。
本当なら今この瞬間に、家族や自然との繋がりを感じることだってできるのだ。

母が持たせてくれた弁当を食べていたら、ふとそんなことを思った。
出かけるまでまだ少し時間がある。
後で枕を持ってきて、事務所の床に寝転んでみよう。

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