豚骨ベースのスープが舌の上を滑りながら、噛み砕かれた麺から溢れる小麦の香りを内包して、喉の奥へと駆け下りてゆく。
時折やってくるネギと粗挽きのコショウの刺激と逢瀬を重ねる度、そのまったりとした味わいは相対的に深みを増して、さらなる高みへと上りつめる。
合いの手を入れるように飛び込んでくる餃子と煮卵が、この食に飽きることを許さない。
このラーメン屋の「こってりラーメンセット」は絶品である。
豚骨醤油のダシに中太縮れ麺がよくからむラーメンと、カリッとしてジューシーな餃子のセットで、今日1日の頑張りが報われる。
席に着き、威勢の良い兄ちゃんに「こってりラーメンセットください」と呼び掛ける至福は、何物にも変え難い。
「こってりラーメンセット」は、「こってりラーメンセット」を頼まなければ出てこない。
「こってりラーメンセット」を頼んだ後に「やっぱりあっさり塩ラーメンセットで」と言っても、やはり「こってりラーメンセット」は出てこない。
このような当たり前を、僕たちはしばしば見落としてしまう。
頼みもしないのに「こってりラーメンセットが出てこない」と言って不機嫌になったり、「あっさり塩ラーメンセット」を食べながら「こってりラーメンセットの方が良かったのに」などと言って不機嫌になったりする。
所謂一つの、馬鹿というやつだ。
どいしてこのような馬鹿をしてしまうのか。
理由は簡単だ。
まず頼みもしないのに「こってりラーメンセット」を待っている者は、自分が望むものは周りの者が察して用意して然るべきという勘違いをしている。
手を上げ、人を呼び、声に出して注文をするという最低限の行動さえ起こさずに、まさしく口を開けて好みのラーメンが出てくるのを待っている。
「あっさり塩ラーメンセット」を食べながら文句を言う人は、やれ「塩分が」やれ「カロリーが」と、余計なことを考えすぎている。
その時自分が求めているものを食べる際に飲み込む毒よりも、求めていないものを食べる時に飲み込む毒の方が多いことに気付いていない。
そして何度も繰り返すが、こういった症状を自覚している者はいない。
何故なら、自覚した瞬間に全て解決してしまうからだ。
「こってりラーメンセット」が食べたいのなら、手を上げて店員を呼び、注文をして待機し、お勘定を払わなければならない。
それを当たり前だと思っていないから、僕たちは口を開けたまま、隣で「こってりラーメンセット」を楽しんでいる人を横目に涎をいっぱいに垂らして、自分は不幸だと言い張る。
「あっさり塩ラーメンセット」を頼んだのなら、「こってりラーメンセット」のことは忘れて、「あっさり塩ラーメンセット」を楽しめば良い。
雑念ばかり抱えて人生を謳歌しようなどと、そんな馬鹿げた話しは無いではないか。
人はなぜか、「こってりラーメンセット」は叶いやすく、「自分の目標」は叶わぬものだと思っている。
「あっさり塩ラーメンセット」は楽しめても、「自分の現状」は楽しめないものだと思っている。
原理は同じだ。
自覚がない。
当たり前に気付いていない。
自分の目標に向かっている者を僻み、自分の現状を楽しんでいる者を小物だと嘲る。
大した問題ではない。
自分が望むものが手に入らないことは、おかしいのだ。
自分が現状を楽しめないのは、おかしいのだ。
自分が何かを間違えているのだ。
人のせいにしても、問題は解決しない。
自分のせいにして初めて、問題は解決に向かう。
手を上げて、「こってりラーメンセット」を注文しよう。
目の前の「あっさり塩ラーメンセット」を楽しみ尽くそう。
そして何があっても決してこれだけは忘れてはならない。
食べ過ぎると、太る(涙)。