「色々な視点でモノを見ろ」、というのは古今東西あらゆる場面で使われる金言である。
ところが、この金言には大きな欠点がある。
色々な視点でモノを見ろと提言される人間は、そもそも視点の増やし方を知らないんである。
つい最近も色々な視点でモノを見ろと言われた僕が言うのだから、間違いない。
最近でもそうなのだから、若いころはもっとひどかった。
自分からワンパターンな楽曲しか出てこないことを嘆き先輩に相談すると、決まってこう言われたものだ。
「もっと色んな曲聴いたらええねん」
ハッキリ言って、それをやりたくないから聞いているのだ。
今までと何も変えず、何も変わらず、目覚めたように名曲がジャバジャバ湧いてくる方法を聴いているのに、そんなことを言われてはがっかりする他ない。
たまに「そうかぁ」と意を決して勧められたCDを聴いてみても、結局その日聴きたいのはサザンの東京シャッフルだったりして、アルバムの2曲目くらいで飽きてディスクを交換することになる。
そうこうしている内に何年か経って、自分の周りの環境が変わって、周りの人間が変わって、自分が変わったような気になる。
ところがまた次の場所でしばらくやっていると、どこからともなく聞えてくるのだ。
「毎回似たような曲だよね」と。
このように、新たな視点を手に入れるということは生半可ではない。
新しい視点は周りの人がいくらでも教えてくれる。
難しいのは、これまでの視点を手放すことだ。
これまでの自分を手放すことだ。
そうしたいと思ってやってきたことを、やめることだ。
今自分の身に起こっていることは、全て今までの自分の考え方の集大成である。
僕はサザンだけをウットリ聴いて生きていたかったから、自分の中に色々な形の音楽を入れることをしたくなかった。
それが、いざ音楽を作る側になった時に、当然似たような曲しか出てこない。
ちょうど庭の畑に大根の種しか蒔いていないのに、ナスが取れないと嘆くようなものだ。
何というか、正気の沙汰ではない。
ところが、僕たちは時折そんなことを本気で思ってしまう。
困ったものだ。
待てど暮せどナスの収穫の日は来ない。
彼女様の足のような立派な大根が取れたとしても、「ナスがほしいのに」とブツブツ言っているものだから、つまらない。
隣の家のナスが収穫できている人は「ナスの種を蒔けばいいよ」と言われて種を分けてくれる。
でも自分は大根の育て方を良く知っていて、ナスを蒔いても自分の知っているセオリーと違うからしっくりこない。
気が付くともらったナスの種を腐らせていたり、蒔いた種に水をやらないようになっている。
結果、昨日と同じ大根が取れる。
昨日と同じ曲ができる。
昨日と同じ悲しみがやってくる。
ナスがほしいのに大根の種を蒔き育てていても、決してナスは実らない。
しかし、答えは簡単だ。
隣の家の人から、ナスの種を貰って、蒔いて、言われた通りに育てればいい。
それができない理由は、たったひとつ。
ナスの種を貰うこと、ナスの育て方を教わることを、「負けてしまう」と感じるからだ。
それが悔しくて、僕たちは差し出された愛を握りつぶしてしまう。
受け取ることが、できない。
あのね、ナスの種を貰っても、ナスの育て方を教わっても、いい。
とっとと負けてしまえばいい。
勝負に勝つための唯一の方法は、負けを認めることだ。
隣人はナスを作ることができる。
自分にはできない。
アンタの負けなんである。
認めて、白い旗を振って、手とり足とり教わればいい。
そのうち、聞かれるはずだ。
「ところでアンタとこの大根、ずいぶん立派だけど、どうやって作ってるの?」と。
負けて初めて、勝つことができる。
負けて初めて、勝負などなかったことが分かる。
負けて初めて、自分が自分を敗者に仕立て上げていたことが分かるものである。
先日、彼女様から要冷蔵のドレッシングを常温保存していた件で非難轟々罵詈雑言の弾幕を浴びた。
「少しくらいは台所周りに気を回す視点を持て」という。
言っておくが、僕は台所周りに実に多分に気を回している。
ただ、初心者なんである。
初心者とは、何が大事で何が大事でないのか、判断できない者のことを言う。
カフェのキッチンで働いている料理人が初心者に本気でダメを出すのは、いくら何でも無茶ではないか。
しかし、口は悪くとも(手も足も悪い)隣人がくれたナスの種だ。
僕はしっかりと受け取って、せっせと蒔いて水をやった。
涙ぐましい初心者の努力である。
こういう努力の積み重ねで、僕も徐々に初心者を脱却するんである。
ところで、先日冷蔵庫に入れたみりんの注ぎ口の周りや内側にガリガリの結晶が付いて困っているのだけど、これも怒られるだろうか。
怒られるだろう。
怒られるにちがいない。
新しい視点を手にいれるのは、難しい。