縁があって、わが事務所にWindowsPCがやってきた。
すっかりとMacの術中にハマっている僕はすっかりとWindowsの使用感的なものをどこか千葉県の船橋あたりに置き忘れてきていて、特にMacbookがメインマシンであったものだから、手元にマジックトラックパッドがなければPCじゃないんだかんね的様相を呈していたのである。
ところが、Macには大きな欠点がある。
それは、世間のメインマシンがWindowsである、ということである。
僕も実業家である以上、他の方とファイル共有やofficeソフト的なものを使ってやりとりをする機会がとても多い。
ところがそうすると、だいたいの方は仕事用のマシンがWindowsなものだから、誇り高きMacユーザーである僕は自らの誇りを誇示する前に周囲から煙たがられてしまうんである。
埃っぽいったらありゃしない。
それを見かねた僕の取引相手というか秘密裏に仕事をさせて頂いている施主様というかお師匠というか、そういう方がどーんとWindowsPCを会社の資産としてお貸しくださったのである。
そんなカッコいいことをして頂いたなら、Macユーザーの誇りなどまさに塵芥、圧倒的懐の深さと熱意という大気の流動に煽られて、大阪の鶴見区あたりの空に雲散霧消したんである。
PC?
Windowsに決まってんじゃん。
ワールドスタンダードですよ、やっぱりさ。
ところでマシンが新しくなると、ひとつ非常に大変な作業が生まれる。
セッティング?
いや、最近のPCは本当に繋ぐだけで使えるから、そんなものに時間は要らない。
僕が苦しむのは、単語登録の作業である。
僕は普段の仕事の中でよく使う単語をユーザー辞書にどんどん登録していく。
Macbookに登録されている単語は150近い。
たとえば、
「や」とうてば「山本優作」と出るようにしているし、「ひ」と打てば「2015-07-01」などと出るようになっている。
あるいは、こういったネットに記事を上げる時に必要なHTMLと呼ばれるコードなんかも登録しているから、今実際に使っているものだけでも新たに登録し直すのは、実に骨の折れる作業なんである。
その点、MacはひとつのMacアカウントを同期できるから、たとえばiPhoneでユーザー辞書に登録した単語はMacbookにも同期される。
当然別のマシンにも、たとえば以前仕事用に使っていたMacminiにも、反映される。
「あ、これ要るわ」と思った単語はその場でメインマシンに辞書登録できるものだから、それはそれは楽チンなんである。
しかし、そんなことはどうでもいい。
僕のMacユーザーとしての誇りは既に鶴見区を離れ、城東区の上空あたりをさらさらと漂っているのだ。
もはやダイソンの最新式空気清浄機のフィルターに引っかかるのを待つだけのPM2.5的存在なんである。
Windowsのテーマカラーを眼球にガツッとくるショッキングイエローにしたことを若干公開しつつ、黙々と単語登録をする。
それはまさに写経の行に勤しむ修行僧の如き風体である。
足、痺れてきました。
ちなみに、僕が100も150も単語を登録しているというと、「単語登録をして手を抜いて文章を書いて、不謹慎ではないか」と言う人がいる。
しかしそれは大きな間違いだ。
日本語は実に複雑で、その組み合わせ次第では千にも万にも姿を変える。
「愛している」の一言を伝えるために、過去何人の詩人が言葉を紡いできたかわからない。
しかし、たとえば仕事で使われるメールの
お疲れさまです。
山本です。
表題の件について、作業が終了致しました。
お手数ですが、お時間のある時にご確認をお願いします。
という文章がほぼ登録された単語で作られた文章であったところで、誰の感受性が傷付くというのか。
事務的なメールを送るたびに
「君の報告メールには心を揺さぶるものがない。一文字一句魂を込めて作文したまえ。」
などという純文学の鬼的ダメ出しをもらっていては、仕事が前に進まない。
まして
「あの人の事務メールはなんかこう、じーーーんとくるんだよなぁ」
などという訳の分からないニッチなポジションを確立したわけでもない。
言葉というのは物事の本質ではなく、あくまで”指し示すもの”である。
小高い丘の上で竹林の囁くような歌を乗せた風に肌を撫でられながら輪郭の曖昧な満月を見上げる感動を、言葉が表現できるだろうか。
おそらく、それは果てしなく高めてゆける。
しかし、どれほど言葉を尽くしても小高い丘も竹林も風も輪郭の曖昧な満月も、この場には登場しない。
伝えたいことの本質は言葉ではないのだから、言葉の選ばれ方をとやかくいうのは実にナンセンスである。
いかに情報を的確に素早く伝えられるか、という場面では、むしろ画一的な型にはまったテキストが望まれるものである。
それを予め用意しておく愛情、思いやり、仕事への意識の高さを褒められこそすれ、非難される覚えなどさらさらない。
僕は自分の襟元を正し、姿勢を正し、単語登録の作業に戻る。
コードは後でまとめてコピペしてくるから、まずは文章文節の登録だ。
思いつくままに登録すべく、キーボードを叩く。
いちばん最初に登録した単語は、「ほ」から始まる文章だった。
「本当に申し訳ありませんでした。」