仕事の関係で今Windowsのデスクトップをメインマシンとして使っているのだけど、Macの歴が長くなっていたのと画像の編集などに使うアプリの使い勝手の関係で、ブログ記事の仕上げは今まで使っていたMacbookしている。
実際小さな画面の方が集中できるし、キーボードの使い勝手も(F9キーなどの短縮変換機能を除き)Macの方がいいもんだから、持ち運びができて記事が仕上げられて最低限の仕事もできるということで、やはりMacbookは良いものだと思う。
よくMacとWindowsでどっちがいいだのなんだのと論争が起こっている。
僕もケータイ屋時代に、Mac信者と呼ばれる、んもうMac製品のことを語っている時が人生の至福と言わんばかりのおっちゃんから酷く専門的なクレームというかイチャモンを付けられて、困惑したことがある。
おっちゃんは「自分たちが扱っている製品の知識くらいきちんと持っておけ」と言うが、どう考えてもMac素人相手に知識を振りかざして気持ちよくなりたいだけのイチャモンだったから、僕はいい歳こいたおっちゃんの自慰行為に巻き込まれたアワレなイケメンだ。
「現場個人のレベルにはどうしてもバラつきがあるから、メーカーのサポートデスクというものがあるのですよ」
などともっともらしいことを言ってみたが、ウサ晴らしのターゲットに指定した若造からもっともらしいことを言われたおっちゃんは、んもう引っ込みがつかなくなってしまった。
当方の仕事ぶりがいかに稚拙であるかを、iPhoneとiPadの同Wi-Fi環境下における通話転送機能活用方法を交えつつこんこんと説いてくださった。
これは失敗だった。
そういう一部のメンドクサイおっちゃんにはなるまいと決意を固めつつ、しかしやはり僕はMacのこのロジックではなくマジックに訴える構造や発想が好きである。
Windowsは世の中のスタンダードだからPCを商売道具にする上では必ず一台は持っていないといかんのだけど、自分に合っているものや素敵だと感じられるアイテムを知っているというのは嬉しいことだ。
行為にせよ、物理的なモノにせよ、自分の好き嫌いを知るには「比較」が重要である。
僕はずっとWindowsユーザーだったのだけど、ある時ふと思い立ってMacを導入したところ、これが実にフィットした。
それは即ち、Windowsとの「比較」があってこそのMacへのフィット感であって、最初からMacを当たり前に使っていたらこの「合致感」といいますか、そうそうこれこれという「巡り合えた感」は、なかったと思うんだなあ。
よく自分の好きなことが分からない人が多いという話しを聞くけれど、それってつまり、「比較」するものが少ないからなんでしょう。
僕の知り合いには異常なほど音楽を聴いている気持ちの悪い人が何人かいるけれど、本当に山のような情報が自分の中にあるから、ワタクシの統計学と言いますか、そういったフィーリングが実に高度に発達している。
笑顔で
「ビートルズは全部レコードを買って、全部聴いたよ。やっぱりすごいバンドだよね。大っ嫌い。」
と語る某音楽バーのマスターを理解するには、今世残った時間ではどう考えても足りない。
Windows/Macと一緒で、どれだけの音楽を聴いているのかと一緒で、何ならどれだけ沢山のアニメを見ているのかと一緒で、頭の中にある体験や経験や知識の量がそのまま自分という人間の好き嫌いの振り幅になる。
好き嫌いがあるというのは、先述した「比較」ができるだけの知識と体験、そしてそれらへの「理解」と「解釈」があるということだ。
僕は『勇者警察ジェイデッカー』というロボットアニメが好きで、ビールがあれば二晩でもぶっ通しで語れる自信があるのだけど、それは同シリーズの別アニメ『勇者特急マイトガイン』とか、『太陽の勇者ファイバード』とか、そういうものを見まくってよく知っているからである。
「なーんつーかよう、他の連中は個々のロボの個性が全然なくってよう、後半になったら飛び出してきて合体してやられっちゃうだけなんだけどよう、ジェイデッカーつーのはな、オイ、寝るな、あのな、この番組だけはな、最終回前後で合体して悪いヤツとくんずほぐれつ大爆発なーんてことがなくってよう、みんなで合体もしねーで並んで自分の考えを述べて、オイ、だから寝るな、オイ」
といった濃厚なトークは、「比較」と「理解」と「解釈」なくしては成り立たないのである。
逆に、「比較」と「理解」と「解釈」さえあればある程度の好き嫌いや自分への向き不向きが見える訳だから、沢山のサンプルを得て、体験して、その渦中に身を置き続ければ、いずれ明確なものが見えてくる。
それがつまり「色々な体験をしなさい」という大変抽象的な言葉として世の中に飛び出していくんだけど、色々な体験をすること自体が楽しいと理解してない人にとっては、やっぱり抽象的すぎてよくわかんねーんだな、これが。
という訳で結論。
ちょっとでも興味が湧いたものには、手を出してみる。
僕は自分の嗜好が見えなかった時期が長かったから言いきっちゃうけど、自分が何が好きなのか分からない人は、その物事が「こいつァ間違いねえ!」的100点満点を自分に提示してくれないと動かないのだ。
でも、やる前から100点を見せてくれるものなんか、こっちの財布を狙ってる娯楽業界の広告くらいしかないもんだから、行動してみたところで消費者という立場から抜け出せない。
別に生産者になろうと言いたいわけじゃあないんだけど、少なくとも自分自身は、まあ30点くらいの赤点を回避した物事に関しては、こう、びしばしと手を出していきたい。