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水遊びの時間と水泳の時間
広川幼稚園は夏になるとプールの時間があった。プールの時間にも2種類あって、ひとつは幼稚園の正門を出たところにある駐車場にビニールプールを広げるだけの簡易的なもの。もうひとつは、すぐ近くにある広川小学校の小プールを借りるというものだ。
ビニールプールを広げる時は、プールの時間というよりは、水遊びの時間と言った方がしっくりくる。ビニールプールに入ってもいいいのだけど、もう水着も着ずに水鉄砲を持って走り回るだけの時間だった。幼稚園公認の下みんななでびしょびしょになるための時間のはずなのに、水鉄砲で撃つと異常に怒るヤツがいたのが、今も不思議だ。
それも楽しかったけれど、どちらかというと小学校のプールを借りた時の方が印象深い。その頃僕はプールの中で目を開けるのが苦手で、たまに頑張って目を開けてみても、眼球にギシギシくるあの感じが嫌ですぐに水から顔を上げていたものだった。
大人の証明
ある時、びしゃびしゃになった顔の水を手のひらでぬぐっていたら、隣りにいたよっちゃんに「それはおかしい」と言われた。顔の水のぬぐいかたが、変だと言うのだ。僕は特に何も考えずに、両手で顔を左右にふくという、それだけの動きをしていたのだけど、よっちゃん曰く、手の動きは左右ではなく、上下でなければならないらしかった。
僕は多少不服な気持ちになりながらも、ためしに手の動きを上下に変えてみた。変えてみたが、実に物足りない。手のひらを下に向かって動かした時はともかく、上に向かって動かした時は、一緒に上に移動した水が改めて顔面を下降するのだ。これなら、左右に水を飛ばしてしまうようにする方が合理的である。
しかし、僕は合理性よりも、よっちゃんの指摘を重視した。自分の納得よりも、「それは変だ」と言われることが、とても恥ずかしく感じたのだ。とはいえ、結局水はぬぐえないのだから、顔を拭く時は両手を左右に動かす。その度によっちゃんの言葉を思い出して、「僕は変なんだぁ」と、ちょっと悲しい気持ちになったりしたのだった。
他人の意見は絶対
なんてことを思い出してみると、どうやら僕は「自分が感じることよりも人が言うことの方が正しい」という価値観を、どうやら随分小さいころから持っていたようだ。おそらくその原体験は「好きな事をしていたら親から怒られた」的なことだったのだろう。
そんなことを書いていたら、自分が父と一対一で話しをするのが苦手なことを思い出した。僕が何か意見を言うと、「それは違う」と否定される気がするのだ。父の前で語る自分の意見は、その論理性に関わらず、自分の実体験の有無を問わず、全て間違っているような気になるからだ。そのため当たり障りのない言葉を探したり、逆に父の価値観とは真逆のことを言ったりして、なんとか正面から向き合うことを避けていると、今気付いた。
さらに言うと、自分が「目上」と判断した人に対してロクに話しができなくなるのは、やはりそういう感覚が自分の中にあるからだと確信した。山本家は決して亭主関白な家庭ではなかったと思うのだけど、それでも僕にとって、父は絶対だったのだ。「目上」の人は、「絶対の意見」を持っている人だ。その人が持っている「絶対の意見」をうかがいながら無難な言葉を選ぶのは、自分の意見を無視することとイコールだ。だから僕は、得意先に行ったり、営業をしたりするのが苦手だったのだ。
おおお、繋がった。
ブログは一旦切って、この辺りについてはもう少し考えてみよう。
さすがになあと思ってフリー素材を探し始めたけど、
似たような画像ばっかりになってつまんないよね。
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