自分の言葉にしないとだめだ。
すっごく素敵なことを言ってくれてるはずなのに、僕の人生にシンクロしてるはずなのに、それを表現してる言葉がピンとこないから無意識に距離を取ってることが、結構ある。そういうことを少し、考えてみたい。
「言葉」と「中身」
アタシのいるマーケティングの世界だと「コピーライティング」が非常に大切だと言われます。個人的に大好きな文章の世界でも「言葉えらび」ひとつで快楽に身もだえたり、一気に冷めて読むの止めちゃったりすることは、本当によくあるのです。
で、結局表現の方法や、表現のスタイルというのは、「中身」を伝えるための手法でしかない。表現は「パッケージ」でしかないのです。
だから、中身を受け取ってもらうには、まずパッケージを受け取ってもらわなければならなくって。転じて、中身を受け取るにはパッケージも受け取らなければいけないわけで。
で、で、パッケージを受け取れるかどうかというのは、もはや「スキかキライか」の世界の話しなのです。もっというと、「ピンとくるかどうか」の世界の話しなのです。同じ中身なら、ステキと感じるデザインのパッケージに包まれてた方が魅力的に見える、というのは、だからどうしたというくらい、当たり前のことだったのです。
受け取り手として:「中身」を受け取るために
ところが、世の中にはパッケージが魅力的ではないのに、商品の価値が分かってしまう瞬間が、少なからず発生します。今の僕が、まさにその渦中です。今僕はNVCというコミュニケーションのスタイルを学んでいます。自分の在り方を見つめることを通して、人との関わり方を考えるという、素晴らしいものです。
しかし、NVCを学んでいる場で飛び交っている言葉たちが、ことごとくピンとこないのです。ワークをしている間は非常に充実しているのに、説明を受けている時間が苦痛でさえあります。そんな時は、僕は言葉を意味のある言語ではなく、「音」と「中身」に分けて受け取るようにしています。そして、「音」を捨ててしまうのです。「何を言っているのか」ではなく、「何を言おうとしているのか」に注目をするのです。
発する側として:「中身」を受け取ってもらうために
先ほどの僕の例でいえば、NVCの場にいるメンバーは、みんな言葉を尽くして語ってくれているのです。そこに思いやりや愛情があることは、疑いの余地もありません。
だからこそ僕は前向きに、「音」を捨てるのです。言葉を尽くしてくれるということは、それだけ僕に伝えたいことがあるからです。僕もそれを受け取りたいと願っています。だから、「音」を捨てるということは、少なくとも異文化に馴染みきっていない今の段階では、ベストな選択であると胸を張って言えるのです。
しかし、自分が発する側になった時、そういった「受け取る努力」を人に強要することは絶対にできません。「受け取る努力」は、まあ有り体に言えば超メンドクサイからです。特に相手が話しの「中身」の価値を理解していない時などは、「受け取る努力」をしてもらうことは至難です。
ピンとこない人は、自宅にやってくる宗教の勧誘を断った時のことを思い出していただけるといいでしょう。多くの人々の精神を支え続けている宗教であれば、イイことを言っているに決まっています。しかし僕たちはその勧誘を歯牙にも掛けません。ひとえに、「中身」(この場合、宗教を信奉することが人生に与える良い影響)の価値を理解していないからです。
ということで、「中身」を受け取ってもらうということは、めちゃめちゃ難しいのです。
とはいえ、「受け取ってもらうための努力」はできるのです。
受け取る側の人の世界観や知識を理解して、「こういう言い回しだったらどうだろう?」というトライアンドエラーを繰り替えすことはできるのよ。
が、しかし、ここたぶん大事。
「受け取ってもらうための努力」をする時は、受け取って欲しい人に対する「リスペクト」を忘れてはいけないのです。でないと、「こんなに言っても分かってもらえない」という気持ちがわいてくるのです。
そして
「受け取らなくてもいいよ」という選択肢も、一緒に渡した方がいいのです。でないと、「私の意見には価値がない」という気持ちがわいてきてしまうのです。
「受け取る」ことも「受け取ってもらう」ことも、どっちも奇跡
僕らは全員、同じ日本人でも、実は異なる言語でコミュニケーションを取っています。「かわいい」という言葉に込める意味が男女で大きく異なる、、、なんてことがよく言われていますが、その程度の話しではありません。やりとりされる全ての言葉には、各々がそれまでの人生で培ってきた経験が「意味」として、つまり当記事が言うところの「中身」として、添付されているのです。
だから、
人に自分の意見を受け取ってもらうということは、奇跡的なことなのです。
自分が受け取ってもいいと思えるパッケージを用意してくれている人がいるということは、奇跡的なのです。
表現が気にくわなくても、中身の価値を理解して受け取る努力をする、そんな自分がいることも、奇跡的なことなのです。
世界は、奇跡の連続で動いているのだー。
そう思うと、なんだかちょっと嬉しくなりませんか?