【自分とイチャイチャする】「自信」はいらない。他人の「評価」の責任も取らなくていい

音楽をしていた時、ステージを降りた時にファンの方から言われる「すっごく良かったです!」という言葉を、どうしても信じられませんでした。

ノリノリで踊ってくれても、涙で目を潤ませていても、帰りぎわに僕の曲を口ずさんでくれているところを目撃しても、僕はその人からの嬉しい評価を、心で受け取ることができなかったのです。

褒めてもらったことに対して「ありがとう!」と笑顔で返事をしたり、人に褒めてもらったことを何度もいくつも紙に書き出してみても、僕の心に自信は宿りませんでした。いつの間にか褒められることも批判されることも怖くなって、気がつくとステージに立つことが苦しくなっていました。

ところが、ライフステージの転換に合わせて音楽に距離を置くことになり、数年が立った先日。まさに昨日のことです。僕が運営に関わっているwebサイト「みんらぼ」の所長であり、僕が勤めている会社の社長である代橋亭ずずこ氏との共感的な議論の中で、とうとう僕はあるひとつの答えにたどり着きました。

あまりに予想外の結論だったので、未だに興奮しています。そしてそのおかげで、あんなに恐ろしかったステージに、僕はまた戻りたいとさえ考えはじめました。どうかシェアさせてください。「自信」という言葉にうんざりしている全ての仲間たちに、この記事を捧げます。


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この世の中には「自信」を持つ必要がない人間が存在する

世の中には「自信」という何か想像をはるかに超えたものがある。それを手に入れることで、どんな場面でも緊張せず、悲観せず、あらゆる出来事に対して前向きに取り組むことができる。また、批判のような言葉に振り回されず、常に自分の中にたくましい芯が一本通る。

僕はずっとそういう風に思い込んでいました。それが、違ったのです。全く、とんでもない勘違いでした。少なくとも僕という人間は、そういう種類の「自信」を持つ必要がない人間だったのです。

自分の世界と遊ぶタイプの人に「自信」は必要ない

僕は一人でダンボール工作をしたり、絵を描いたり、ブロックでロボットを作って遊んだりしていることが好きな子どもでした。

幼稚園の運動場に行っても、友達とじゃれ回ることより、頭の中で決めたルート通りに黙々とアスレチックを飛び回ることが好きでした。中学の時にやったテニスは、ラリーよりも変化球サーブの研究が好きでした。高校の時に取り組んだ空手は、組手で殴り合うよりも黙々と取り組める演舞が好きでした。

僕は僕以外の人々との交流よりも、自分の思い描く世界とイチャイチャすることが好きで、そういうことを当たり前にしてきていた人だったのです。音楽もそうでした。僕にとって「音楽をする」というのは、僕が演奏してもしなくてもそこに存在する「素敵な何か」を、僕の体とギターを使って音にする遊びだったのです。

自分の世界と遊ぶだけなのですから、緊張するとか、前向きとか後ろ向きとか、そんなことは存在しようがないのです。僕の生き方、ライフスタイルに、「自信」の項目は存在しない。世の中の常識に全くそぐわないこの事実に気付いた時、僕は大いに驚きました。

そして、その勘違いを得てきたプロセスを、深く理解したのです。

時間をかけて「自分の世界と遊ぶ」本来の生き方に、「人の評価を得るために生きる」偽りの生き方を上書きした

純粋に自分の世界と遊ぶことだけをしていられたらよかったのですけど、残念ながらそうはなりませんでした。ほら、子どもって大人に評価されるじゃない。自分の世界と遊んでばかりいると、こんなことを言われるわけです。


「ゆうさくくんはもっと他の子の気持ちを考えて」

「そんなしょーもないことしなくていい」


実際はもっと色々言われれているのだけど、大きくはこの2方向のことをよく言われました。僕は「遊ぶこと」が好きでした。限りなく主観的な世界を生きていました。ので、ね?怒られたり嫌味を言われたりした時に、その時している「何か」がダメなんだ、ではなくて、「遊んでいることそのもの」がダメなんだ、という意味で受け取ってしまったのです。

周りの大人に認めてもらったり、僕のことを目の敵にしているいじめっ子に狙われないようにするには、自分の世界と遊ぶという基本的な生き方を曲げなければならない。隠しておかなければならない。僕は少年時代、そんな考えをじっくりと時間をかけて育ててきました。

けれど、本来の生き方を曲げたり隠したりすることは、根本的に悲しくて辛いのです。時が経ち、本来に生き方に偽りの生き方が分厚く上書きされたころには、内容の良し悪しに関係なく、人の評価に耳を傾ける行為そのものがとても不快なものに感じられるようになっていました。

本来の生き方を隠そうとしていると「自信を持て」と言われる

さて、偽りの生き方をしている時、人は本来の生き方を隠そうとします。だから「うまく自分の本来の生き方を隠せているだろうか?きちんと人の評価に耳を傾けているだろうか?」と不安になる。そんな気分の時、人は周りを気にしてオドオドします。そしてオドオドしている人に向けられる決まり文句こそが、


「自信を持て」


という焦点のズレたアドバイスなのです。それはもう、散々言われました。散々言われた結果、


「僕には『自信』が足りないのか。なら『自信』さえあれば、本来の生き方を隠したまま人の評価と向き合って生きていけるのかもしれない。よし、どうすれば『自信』が持てるか、研究しよう。」


と考えるようになりました。そうやって、そもそも自分に全く必要のなかった「自信」を得ようと、本を読みネット記事を漁り、奔走し迷走し心をすり減らしていたのでした。

「自信」のいらない生き方と人からの評価を共存させるために、人から評価されたら心の中で「そうなんですね」と言う

昨日のずずこ氏との対話の中で気付けた素晴らしい発想の転換。それは、人から何かしらの評価を受けたら、それを僕という人間の事実として受け取るのではなく、その人の意見として取り扱うというものでした。

たとえば、「素敵な声ですね」と褒められたとしたら(実際褒められること多いんスよ?)、「よかったですね」と考えます。「なんだかイマイチでした」と言われたら、「残念でしたね」と考えます。

人の評価を人のものとして、他人事として取り扱う。僕の遊びを見た人々の感じることに、責任を持たない。そうやって責任を手放して軽やかにいることが、結果的に僕の遊びの質を高めてくれる。僕というコンテンツの魅力を最大にしてくれる。

自分の世界と遊んでいるところを偶然見られた時に「すっごくいいよ!」という評価をもらうことが多かった僕にとって、これは直感的にも経験則的にも信頼のおけるアイデアでした。未来に希望を感じられる考え方だったのでした。

「自信」はいらない。「評価」の責任は取らなくていい。自分の世界とただ遊ぶことが、最高のアウトプットになる

まさに昨日気付いたこのアイデアを、僕はまだ意識的に実践できてはいません。しかし思い返してみれば、何かの拍子に自分の世界に深く潜り、周囲の目を完全に忘れて自分の世界とイチャイチャと遊んでいた時、僕の音楽は最も僕の音楽でした。そしてはたと気付いて恥ずかしい気持ちで目を開けた時、そこには高揚した表情のオーディエンスがいたものです。

きっと僕たちは、本来の自分を隠そうとしたまま実力を発揮することはできないのです。本来の自分で生きることを許せた時、僕たちに「自信」は必要ありません。人の評価の責任を取ろうとして右往左往する必要もありません。

大切なものを捨てて捨てて、軽くなれば軽くなるほど、僕たちのアウトプットの質は高くなっていきます。それはひとえに、僕やあなたの本来の姿は魅力的なのだということに他なりません。

もし今「自信」を探し求めて納得のいく答えに出会えていないなら、そんな視点で自分というものを見つめなおしてみるといいかもしれません。「自信」はなくても、僕たちはいつでも「自身」です。「自身」はいつも、ここにあるものですものね。


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