【自分とイチャイチャする】自分が素晴らしく偉大に産まれたことを思い出すだけ

先月の末に息子が産まれました。3190gの元気なメンズです。成人した人類としては小さい部類に入る妻が年末ごろから

 
「お前、そこそこのサイズ感で出てくるんやで。そこそこやで」

 
と、日々巨大化していく自身の腹部に向かって語りかけていましたが、リクエストは聞き入れられませんでした。その妻も先日まで尻が痛いともんどりうっておりましたが、今では体調は大きく回復。日々息子の世話に心を砕いてくれています。

さて、僕は職場のボスの厚意もあって、なんと里帰り出産をする妻に同行。約二ヶ月間妻の実家で世話になりながら、新生児のお世話をするという経験をさせてもらっています。

もちろん分娩にも立会いました。これが、その時はハラハラドキドキだったのだけど、後からジワジワと感動的なのです。気付きが止まらないのです。その辺りのことを、どうかシェアさせてください。


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「まだ早い」から「急いで来い」へ

散歩中におしるしが出た次の日だったでしょうか。妻が子宮の痛みを訴えるので、予定日より一日早いけれど、僕たちは掛かっている産婦人科に赴きました。ところがこの時は空振り。「なんで来たの?」くらいのことを言われた妻は、しょんぼりとして病室から出てきたものです。

「まだまだやって言われた」ということで、一旦妻の実家に帰った翌日。その日は出産予定日で、でも前日に「まだまだだ」なんて言われたものだから、妻は朝からコンスタントにやってくる子宮の痛みにひとりで耐えていました。

なんでも、世の中には「陣痛」未満の「前駆陣痛」なんてものがある。それは通常の陣痛よりも短いスパンでやってくる。前駆陣痛はいくらきても分娩には至らないから、病院に行ってもまた追い返される。なんて、ネットでイマイチ確信を得ない情報を漁りながら、ただただ時間が過ぎていきました。

夜になっても痛みのスパンは変わらないままでしたが、痛みの強さは増しているようでした。定期的に歯をくいしばる妻を風呂で手洗いし、出て乾かしたところでまたさらに痛みが強くなったようだったので、これはもう、と病院に電話をしたら「今すぐ来てください」とのこと。その時点で23時。ちょうど風呂上がりだったお義父さんに声をかけて、車を出してもらいました。

いざ分娩室

病院に着いて早々、妻は車椅子にのっけられて物々しい自動ドアの向こうに運ばれていきました。時間差で分娩室に入ると、助産師さんがぱたぱたと走り回る部屋の真ん中のベッドで着替えた妻が横になり、唸りを上げています。その時点で子宮口の直径は8センチ。これが10センチになったら分娩開始なのだそうです。

時折やってくる強い陣痛を逃しながら妻とおしゃべりをしていたら、「パチュッ」という軽快な音がして破水。いよいよ助産師さんたちがざわめき出し、本格的な分娩が始まりました。

陣痛に合わせていきんで、収まったら休む。そのうち助産師さんが「頭見えてるよー」と声をかけてくれます。いよいよのタイミングで男性のお医者さまがやってきて、淡々を取り上げの準備。ほどなくして赤ん坊がずるりと登場し、産声をあげたのでした。

それはこの世に数えるほどしかない正しいもの

僕は妻の分娩に立ち会うにあたり、YouTubeで出産シーンを撮影した動画をいくつか見ていました。始めて見る光景に気圧されては、その場で起こっている物事の大切な部分を見落としてしまうのではないかと考えたからです。

とはいえ、分娩は圧巻でした。記録された映像を遥かに超えるものでした。

これから大きく育っていく新しい個人と、役割を果たしてこの後朽ちるだけの胎盤。彼らを包んでいた卵膜の残がい。力強い産声。僕がハサミを入れたへその緒の硬さとしなやかさ。そこから出てきた重い血液。赤ん坊の皮膚に溜まった垢と、意外なほど伸びた爪。

生きているものと、役割を終えたもの。きれいなものと、きたないもの。まさしく陰陽入り混じった光景です。僕たちが何で出来ているのか、その真実の一つのように感じられました。この世にある数少ない、正しいものを見たような、そんな気分でした。

素晴らしく偉大に産まれたのだから

妻は少々出血が多かったのですが、無事に5日間という一般的な入院期間を経て退院。息子は黄疸が強かったので一晩長めに入院しましたが、こちらも大きなトラブルなく退院と相成りました。義理の両親のサポートも手厚く、僕たちは少しずつ新しい日常に馴染みつつあります。

そうそう、息子が産まれたその日の深夜のことです。妻宅に帰る車の中でお義父さんに「価値観変わったか?」と聞かれて、「変わらんですねぇ」と答えました。思えばそれは、自分が目撃させてもらった出来事がまだまだ咀嚼できていなかったというだけのことでした。

お義父さん、僕の価値観は見事に変わりました。まず、出産という大仕事を成し遂げた母という存在が偉大に見えるようになりました。子供を抱いた全ての母親が、戦場帰りのシュワルツネッガーのような猛者に感じられます。子連れママの集まるイオンのフードコートは、屈強な傭兵たちが集まり情報を交換するギルドです。油断なりません。

また、今目の前にいる人たちがみんな、何らかの誕生のプロセスを経てここに在るのだと思うと、それだけで愛おしく素晴らしいもののように感じられます。泣き笑い、食べて出して、老いて死んでゆくことは、それだけで価値のあることだと無条件に信じられるのです。

そして何より、真っ白な魂で産まれてきた息子や、かつて同じように産まれてきた自分自身が自由な心で生きることを邪魔しない。それが現段階における、わが人生の命題となりました。

ひねくれてしまった僕にとって、息子は偉大な先生です。先生に学びながら、息子と同様に素晴らしく偉大な自分自身を思い出していく。そんな人生が始まったのだと胸を躍らせながら、今日は筆を置くことにします。

ご静聴ありがとうございました。素晴らしく偉大な、あなたへ。素晴らしく偉大なゆうさくちゃんより。


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