無念である。吟味に吟味を重ねた記事のタイトルが、ひとつ前のそれと酷似してしまった。昨今バズっているwebコンテンツの傾向や、検索キーワードのボリューム、マクロ視点による社会情勢の変化とそれに伴う社会意識の変容など、さまざまな要素を加味して検討した結果、望まぬ奇跡が起こってしまったのだ。
そんな嘘はどうでもいい。大切なのは「どうしてゴミ拾いをすると運も拾えるのか」、その根拠が明確に示されることだ。
まずはこちらの、いしはら親方の記事を読んでほしい。いや、読まなくていい。案外長い。適当なところで改行を挟み、スマホの縦スクロールに対応した気の利いたライティングを意識しているが、それでいてかなりのボリュームの情報が詰め込まれているからだ。
迂闊に読み始めると帰ってこれなくなる。ただでさえあなたが今読んでいるこの記事の方が中身がないのだ。この記事に戻ってくる価値がないことがバレてしまう。ユーザーの離脱を防ぐのは、webサイトの運営においては重要な観点である。危ないところだった。
元記事を読まないでもいいように、今回論点としたい点を引用しておく。
ところで。
以前ブログで読んで
ものすごく腑に落ちた
言葉があります。「道端にゴミを投げ捨てる人は
自分の運と徳を投げ捨てている。
ということは、それを拾う人は
運と徳も拾っているのだ。自分が持っている運と徳に
そこで拾ったのを足せるのだから
ゴミを捨てた人に怒るどころか
感謝感謝」元記事:ゴミ拾いは運を開くこと?
よく見たら元記事でも、どなたかのブログの一文を引用したものだった。その元々記事がどこかは示されていない。参照元不明な引用の引用である。
まーた親方の記事に噛みついちゃうんだかんね、と意気揚々書き始めたのに、噛み付いた箇所は親方ではない、顔の見えない誰かの腕だったといったところだ。やだなにそれこわい。
気を取り直そう。意味のない前書きをもう既に800文字も書いているるのだ。費やした時間を無駄にしてはいけない。間違って噛み付いた誰かの腕を、このまま噛みちぎろう。
ということで本記事の命題はこうである。「どうしてゴミを拾うと運を拾うことになるのかを、可能な限り論理的に語ってみる」。
ゴミ拾いや掃除は、単なる「めぐりあわせ」を「よいめぐりあわせ」として受け取れる自分づくり
前回の記事では、運の定義を「よいめぐりあわせ」とした。非常に抽象度が高い。新規の大口顧客獲得もも、地方のレストランで隣りの席に新垣結衣が座ることも、ふと見上げた空が青かったことも、全て「よいめぐりあわせ」と言える。
ところが、もしかしたら新規の大口顧客獲得からプレッシャーを感じて体を壊したり、新垣結衣の美しさに当てられて「どうせ自分なんか」と落ち込む人は、少なからずいるだろうと想像される。また、青い空をよいとする価値観が、まるで理解できない人もいるかもしれない。
何とめぐりあっても、それをよいと感じる自分がいなければ、それはただの「めぐりあわせ」である。大口顧客獲得や新垣結衣との相席、どこまでも広がる青空を「よいめぐりあわせ」として受け入れるには、自分の中にそれらを「よい」と判断できる意思や感性、思考回路の存在が必要不可欠だ。
そしてお掃除には、ただの「めぐりあわせ」を「よいめぐりあわせ」として受け取ることができる自分を育てる、そんな効果効能があるというのが、『よろこび開運掃除』の主張である。
だからこそ親方は、お掃除の仕事をください、だけではなく、この道20数年のベテランの掃除屋として身に付けてきたお掃除のワザと、お掃除に向き合う心構えを広げようとしているのだ。
たぶん。
実際にゴミ拾いをしてきてみました
そんなわけで、実際にゴミ拾いに行ってみた。さる1月30日、小田急線は新百合ヶ丘近辺である。改札を出たところで待ち合わせたら、親方はむき身のトングを持って現れた。驚く僕に「今日は車できた」と言う。改札待ち合わせなのに。いきなり意味がむずかしい。
うれしそうにむき身のトングをカチカチする親方
この日のプランはこうだ。まず地元の神様に挨拶をすべく、高石神社へと向かう。挨拶が終わったら、神社から駅までの道々およそ2km弱を、落ちているゴミを拾いながら引き返す。
親方の神様講座を聞きながら神社に向かう途中、歩道の脇に落ちていたタイヤのホイールカバーと目が合った。間違いなく帰路で拾うことになる。材質によっては粗大ゴミ扱いになるため、廃棄に手間とお金が掛かるだろう。
「いやしかし、落ちているゴミを拾うだけでなく、それをお金を出して廃棄するともなれば、得られる徳ポイントは凄まじいものになりましょう」
必死で心を奮い立たせる。あるいは、神様とお掃除のプロであるところのいしはら親方が、まさに僕が拾わんとするその刹那に颯爽と登場し、「ここは僕が」と言いつつホイールカバーをさらっていってくれるかもしれない。希望を捨ててはいけない。
「お、いいねえ。この幸せ者ォ」
万策尽きた。価値観が違いすぎる。具体的には、高校の時の友だちとルームシェアをしながら、原宿のアパレル路面店で「どぅぞごらんくださぃませェ〜」と連呼しているきゃりーぱみゅぱみゅ好き系女子と、背中にワニの鱗状の傷を彫り樹液を塗り込まないと成人を認めてもらえないニューギニアのセピック族系男子くらい違う。
妙な意地を張らなければよかった。後悔の念を背負って、高石神社へと続く長い坂を登る。神社では親方にお参りの作法を教わりつつ、高石神社の歴史を紐解く講義を受けつつ、今日この後お足元でゴミ拾いをさせて頂くご報告をした。
帰りの道すがらゴミを拾っていくのだが、往路では全く見えていなかったゴミが見つかるったらない。一番多いのがタバコの吸殻。次いで紙くず。時々ビニール系の何か。そして、ホイールカバー。
ゴミを拾うのだ、という意識ひとつで、街の見え方がまるで変わるのだと実感した。とはいえ新百合ヶ丘近辺はお住まいの方々の意識が高いらしく、ゴミは思っていたよりもずっと少なかったことが、とても素敵だと感じられた。
嬉しいこともあった。ホイールカバーはプラスチック製だったのだ。プラゴミの日に普通に捨てられることが分かり喜びつつ、
「これは1000徳ポインツは頂きましょう」
などとはしゃいでいたら、親方が植え込みの奥から骨の折れたビニール傘を引っ張り出してきた。勢い800ポインツゲット!と叫んだら、
「これはあの、うちの地域だと本当にお金出さないと捨てられないと思うから、できたら850ポインツはいただけると嬉しいです」
と訴えるので、ならばと1000ポインツを付与した。親方、意外ときゃりーぱみゅぱみゅ好き系女子寄りなのかもしれない。
800ポインツでは割に合わないと訴える親方
ゴミを持って駅前の交差点で信号を待っていたら、品のいいマダムから声を掛けられた。僕のホイールや親方の傘を見て、「こんなのが落ちてたの?ありがとうございます」と言ってくれたのだ。
ワイワイと騒ぎながらゴミを拾って帰ってきたおっちゃん2人は、それだけで随分気持ちが良くなっていた。だからマダムによる感謝の言葉を受けて、我々は開運したぞ、おお開運したともさ、と、大変に喜んだものだった。
ゴミ拾いで運が拾えました。マジで
実際にゴミを拾って運も拾えたのかというと、これが驚くほど「拾えた」というのが、僕の実感である。
まず、見ず知らずの品のいいマダムに手放しで感謝されることは「よいめぐりあわせ」だと感じた。しかも僕たちは、それまでのゴミ拾いに義務だから仕方なく、ではなく、遊びながら楽しく取り組んでいる。楽しく遊んで、品のいいマダムに感謝される。圧倒的に「よいめぐりあわせ」である。
めっちゃ感謝してもらった
冒頭の主張に戻ろう。僕たちは運のことを「よいめぐりあわせ」と言い換えた。つまり、ゴミ拾いをせずにいたら出会えなかった「よいめぐりあわせ」と、ゴミ拾いをしたことでめぐりあえたというのは、「ゴミと一緒に運を拾った」と言えないだろうか。
それだけではない。途中割愛したが、神社へと続く厳かな石階段の雰囲気や、地域の方々を迎え入れるために節分祭の準備が進められている拝殿周辺の空気感。道中の風景や、吸殻が落ちてはまっていた小さな凹凸など、様々な風景や感覚が鮮明に思い出される。
そういった風景や感覚もまた、間違いなく「よいめぐりあわせ」である。思い出すだに気分がよくなるからだ。これも実際に、ゴミ拾いをした当人だけが受け取ることのできるものである。
ということで結論。ゴミ拾いで運は拾えました。マジで。
掃除で開運もゴミ拾いで運を拾うことも、やってみた人にしか分からない
できるだけ論理的に説明すると言っておきながら、経験談に終始してしまった。タイトル詐欺だね。詐欺を働きながら気付いたことがあるので、騙されついでにもうちょっと聞いて欲しい。
僕たちの普段の生活の中には、実行する前からその物事についてある程度理解することができるものと、やってみないとどうなるか分からないものがある。「よろこび開運掃除」で取り扱う「掃除で開運」や「ゴミ拾いで運も拾う」などは、やってみないと分からないことのの筆頭のようなものだ。
どうして家を掃除すれば開運できるのか。そのことについて理詰めで語ることはできる。しかし理詰めで語ったところで、それを読んだ人が開運するかというと、そんなことはない。開運とは、徹底的に個人的な体験だからだ。
実際に掃除やゴミ拾いをしてみないと、当事者にならないと、本当に開運したかどうかは分からない。当たり前やね。
だからこんな長い記事を書いておいて何なんだけど、まずはていねいに掃除をしてみてもらいたい。家の近所のゴミ拾いをしてみてもらいたい。合理主義の観点で見れば一切メリットのない行為に、よろこびと感謝の気分を持って取り組んでみてもらいたい。
やってみる前に分かろうとしてはいけない。この項の頭で「実行する前からその物事についてある程度理解することができるものもある」というニュアンスのことを言ったが、嘘である。そんなものはない。また騙されたな。ムハ、ムハハ。
仮に人と運との間に扉があるとして、それは取手に手をかけ、手前に引いた者にしか開くことはできない。自動ドアではないのだ。IoTだのAIだの5Gだのと言われるこの時代に警鐘を鳴らす、圧倒的なアナログ感である。
大切なことなのでもう一度言う。やる前から分かった気になった時、それは100%勘違いだ。僕たちは何も分かっていない。「やってみた」を増やしていこう。便器を磨き、雑巾で床を拭き、神社で拝んでからゴミを拾おう。ゲーム感覚でいこう。
そうそう。2月4日、親方が正式に「よろこび開運掃除」を開業しました。初日は何してたのかブログを読みにいったら、正装して神社に行ってメシ食ってたらしい。開業日に働いてない。やっぱり、ニューギニアのセピック族系男子かもしれない。