最近よく鶴見区のイオンモールで書き物仕事をするのだが、同じイオンでも何度か通っているとお気に入りのトイレというものが出来る。同じような規格のトイレでも、フロアごとの配色やテーマによって若干雰囲気が異なるのである。最近ではフードコート横のトイレがすっかりお気に入りで、もはや我が物。他のお客が入って行く後ろ姿を見つめては
「おう、よお来たな。まぁゆっくりカマしていってくださいよ。」
などと寛大な独り言をつぶやいている。
そのトイレの中でも、個室は特別だ。小用方面はある程度はオープンな使用を許容できるものの、個室の、特に再奥部にある少し広い個室はもはや僕の書斎に近い存在であるから、どこの誰とも知らないオッサンに気軽に下腹部を押さえつつ突入されても困るんである。
しかし、文化人としての人生が滅亡の危機に瀕しているオッサンを隣から制するほど、僕は薄情ではない。プライベートエリアだろうが何だろうが、どんどん使えばよろしい。僕の書斎でオッサンが一人、救われるのだ。書斎を持った甲斐があったというものだ。そう考え、自らの資産を無償で分け与えることこそ、愛なんである。
それにこの個室には、僕が使用した後1週間は僕の支配下におかれ、何人たりともその独占を揺らがせることはできないというルールがある。使用を1週間以上開けることは基本的にないから、基本的にこの個室は僕の支配下にあるのだ。その間に誰が使おうが、どう使われようが、痛くもかゆくもない。
先日もそのトイレで小用を足していると、細身の兄ちゃんがまっすぐに僕のプライベートエリアに入って行った。僕はいつものように
「君君ィ、そこはねェ、僕の書斎なの。落ち着くでしょう?まぁズボンでも下ろして、ゆっくりしていきなよ。」
などと寛大な心で向き合い、自身の用事を済ませていた。するとどうだ、書斎の方から、「ぐあっ・・・」「くぅ・・・」「くそ・・・っ」という呻き声が聞こえてくるではないか。僕は最初こそ面食らったが、次第に冷静さを取り戻した。大の男が大の個室で呻き声を上げなければならない理由など、ひとつしかない。
「痔・・・なんだね。」
何を隠そう、僕も痔の経験者である。痔ろうと呼ばれるちょいと厄介なもので、根治のために背骨に麻酔を打ち、尻にメスを入れたのだ。通院のため自転車のサドルから少し中心点をズラして座ったこと。初めての診察でいきなり膿を抜かれて悲鳴を上げたこと。その後トランクスに生理用ナプキンを張り付けられたこと・・・
この胸に去来する様々な思い出を噛みしめているうちに、自身の用が済んでいた。今でこそ健全な肛門を持つ僕であるが、決して見えることのない患部から襲い来る鋭い痛みを思い出すほどに、その深いシワの一本までもが恐怖におののくのである。
この扉の向こうではあの黒いコートの兄ちゃんが、その細い体では背負いきれないほどの業を背負い、苦しんでいる。入って腰でもさすってやりたい気持ちをグッと堪える。「分かるよ」の一言がどれだけ彼を救うことになるのか、僕はよく知っている。しかし、その戦いがやはり孤独であることもまた、揺るがぬ事実なんである。
きっと彼には、彼を支えてくれる誰かが付いているはずだ。僕の時もそうだった。彼女様が痔に苦しむ僕の見舞いに来ては、
「彼が手術して入院してるから見舞いに行くって言ったらまとまった休みを取れって言われたんやけど、痔ですって言ったら撤回されてスゴイ恥ずかしかったから今から大病患ってくれへんか。」
などと辛辣な言葉を投げかけてくれたものだ。辛い入院生活を、何としても彼女様の職場の友人方に「痔のダーリンです!痔で入院した際にはシフトにご迷惑おかけしました!痔でしてね!」と声を書けることだけを目標に乗り越えたのも、今となっては懐かしい。
手を洗い、ジェットタオルで水気を吹き飛ばし、トイレを出ようという時に、僕はまた振り向いた。例の書斎の扉は、まだ硬く閉ざされている。特に大きな音がしないから、今はきっと後始末に追われているのだろう。切れやイボの場合、その作業が最も辛いのだと聞く。僕は胸の前で十字を切った。
「その書斎・・・ゆっくり使ってくれよな。」
僕の止めどない優しさが、イオンモール鶴見緑地店の3階男子トイレ周辺を満たしていた。
僕の書斎がある職場です。