先日、10年来の腐れ縁である友人「みかん」と夜を通して語り合った。完全にオフスタイルであった僕と、仕事上がりに何年着てるんだか想像もできないヨレヨレのシャツを着て突然現れた巨大な女が深夜、コンビニのイートインで延々と語り合うその姿は、実にパッとしないダメ夫婦に見えたに違いない。
話しの内容は様々であった。みかんが結婚を前提として横浜である男性と同居していた時、それを破綻に追い込んだ原因が僕であった、という話しを聞いた時などは、周りの視線を無視して笑い転げたものだ。
※みかんはその男性に全く恋愛感情を抱いておらず、当時千葉に住んでいた僕と話している方がよっぽど楽しかったのだそうだ。
その中で印象深かったのが、時折集まる同世代の女子(そろそろ「子」の字を外すべきだ)数名と話しをしていた際、恋愛感情の無い結婚はあり得ないという価値観の同級生があまりに多ことに気付いた、という話しだった。例の、恋愛感情を抱いていない男性と結婚のために1年間の同居をしたという話しをポロッとしたところ、周囲360度から大変なブーイングの嵐が巻き起こったというのだ。
みかんの言い分としては、「結婚とは、双方のニーズとメリットが許容範囲を超えない妥協を伴ってフィットした際に交わされる契約である」というのだ。日本という法治国家のルールに基づいて人生を添い遂げるパートナーを選択する訳だから、この考え方は実に理にかなっている。
しかし、この論をのべつまくし立てたところで恋愛女子(だからそろそろ「子」の字を取り払ってみてはどうか)に包囲された現場においては、圧倒的感情の弾幕にやりこめられ疲労困憊し這々の態にて帰路につくこと必至という判断に至ったみかんは、
「せやな」
と重厚な頬を震わせ、和平の道を選んだのだという。
みかんは腹の底に溜め込んだ毒を吐き出すように続けた。
「結婚相手に対する恋愛感情が消えたらどうするのか」
「結婚相手の他にもっと好きな人ができたらどうするのか」
「結婚相手が自分以外の女を好きになってしまったらどうするのか」
三十路独身女の咆哮が、自動ドアの向こうの闇に消えてゆく。僕はその残響を聞き流しつつ、「言いたいことは分かる」と頷いた。
自分が相手のことを好きでなくなったり、他に好きな男ができてしまう可能性はゼロではない。自分のことならある程度押し殺せてしまっても、相手に他に好きな人ができてしまうことは防ぎようがないのだ。
そうなった時、双方に「他に好きな人ができてしまったが、今のパートナーといるメリットの方が大きい」という『論』があれば、それも許容範囲を超えない妥協として処理できるかもしれない。「付き合いたい」とか「一緒にいたい」っていう感覚はよく分からんけど、と小さく呟いたみかんは
「まぁ、明日ズキュンとくる人が突然現れる可能性もあるんやけどさ」
と言って唐揚げを頬張ると、何か甘いものを買ってくるからと席を立った。
みかんが席を離れている間に、僕は自分の頭の中を整理することにした。みかんの論には全面的に賛成ではあるのだが、どうにも最後の「明日ズキュンとくる・・・」の行が気にかかるのである。みかんは、論が感情を制するものでないことを理解している。にも関わらず、恋愛女子達の感情論に囲まれた瞬間には、角がぶつかることを感じ取り、それを避ける処置をしている。
その場にいた自称恋愛至上主義者達が本当に全員同じ価値観を持っているはずがない。同じ異性を好きになった同士でも突き詰めて話していくと見ているポイントが違うように、自分と全く同じ価値観を持っている他人というのは存在しない。自分の人生は、自分しか歩んでいないからだ。
そう考えると、群をなしてみかんを襲った女たちは、その場において『恋愛至上主義者』という架空の価値観を共有していたということになる。これは「常識」や「一般性」といった共通認識の幻想と同じことである。この世には「こう言うと当たり障りがない」というものがあるだけで、「常識」などというものは欠片一片とて存在しないのだ。
故にみかんが相対した群衆の正体とは、みかんという一般的価値観(と個々別々に本人が思い込んでいるもの)の外側に居る人物の存在を認めることで、自分たちの精神的安全地帯の絶対が揺らぐことを恐れたいくつかの心であると言える。「みんなと一緒の自分」ということで自分の身を守ろうとする拒否反応そのもの、とも言えるだろう。
しかし世の中不思議なもので、この「みんなと一緒の自分」というものだけでは人間、生きていけないのだ。みかんがそうであったように、人は「人とは違う自分」を見つけると、そこに自身の独立を感じるようになる。それがまた、気持ちよかったりするのだ。
人は、人と同じであることを感じても、人との相違を感じても、気持ちがいいのだ。一体感と分離感は表裏一体となって、常に僕たちの心の重心を揺さぶっている。周囲が一体感を持ち過ぎていると分離感を求めるし、分離感を強く持っている人を見かけると自分は周囲の人物との一体感を求めるのだ。
おそらく僕が引っかかった「明日ズキュンと・・・」の行は、みかんが分離感に寄りすぎた自分のバランスを整えるためのフレーズであったのだろう。なぜなら、僕とみかんは今、「人と人は違って当たり前」という共通認識の幻想で一体感を感じていたからだ。一体感を否定する一体感に、無意識に矛盾を感じたのだろう。そして最もバランスの取れるポイントに自分の精神を調整したんである。そう解釈することにした。
ここまでの知的でイケてる考察をしたところで、みかんが大きなロールケーキと新しいカフェオレを持って帰ってきた。僕の分のコーヒーまで買ってきてくれている。礼を言ってテーブルを空けると、みかんのふくよかな肘が先に置かれたカフェオレをコンとやった。
横倒しになったカップをフタがあるからと安心して眺めていたら、フタに空いていた小さな穴からカフェオレが、さながら小便小僧の股間から美しい放物線を描いて放たれる流水が如き謙虚な勢いでもってこう「ぴゅぅぅぅぅう〜」と飛び出し、僕の仕事道具部隊隊長であるMacBookAir大先生のアダプタ接続部をびちょびちょにしているではないか。
「うああお前!うああお前!」
温厚な紳士と名高い僕も、大事な仕事道具をカフェオレまみれにされたとあっては絶叫のひとつも出るというものだ。「それ倒すか!?ふつう!?」と叫ぶ僕に、みかんが言う。
「みかんは倒すんや。」
日付けが変わって2時間ほどしたコンビニのイートインの中で、一体感と分離感のバランスが、また大きく揺れていた。