マルさんと語れば

「自分じゃない誰かになろうとするな」なんて言われても、訳わからんちんだった。
だって、「自分じゃない誰かになろうとする」ことが、これまでの僕の人生の指針で、それ以外の視点があることを知らないのだから。

「自分を許しなさい」なんて言われても、これもまた訳わからんちんだった。
やっぱり、「自分を許さない」状態が僕にとっての普通、日常、当たり前の在り方だったから、それ以外の在り方があるだなんて、想像できない。

こういう価値観が一夜にして再構築されて人生がより良いものになる、的な話しをたまに聞くけれど、僕にはそういうことは僕には起こらない。
例えば、「自分じゃない誰かになろうとしない」ことに関しては、ひとつひとつの選択を反芻し、検証し、本当にジワジワと理解していっている、という感覚だ。
具体的には、今自分が決めたり、選んだりしたモノゴトに対して、「今の選択は他人の評価を基準にしていたか、それとも自分の気持ちを基準にしていたか」ということを自問する、ということ。
そうすると、「これは、他人の評価が基準だな」「お、これは自分の気持ちが優先されているぞ」なんてことに気付いていくことになる。
で、そのうち体感として、「自分の気持ちを優先した方が、体と心が楽で、自分の能力も高く発揮されているっぽいぞ」ということに気付く。

だから、神様的な守護霊様的な超常的キャラクターがズドドンと現れるような華やかなイベントは何一つ発生していなくて、ただただ地味で草の根的な検証検証の繰り返しなんである。
いつか想像していた覚醒や悟りなんてビタイチ起こらず、これまでどれだけ自分が自分をないがしろにしてきていたのかに、同じテーマの話しの中でも段階を追ってすこーしずつ理解していく、ということをひたすら繰り返している。

◆◆◆

いくつか前の記事から登場しているが、僕の中にはマルさんという、僕にとって美しいこと(正しいこと、ではない)を教えてくれる人格が存在する。
本当にうさんくさいんだけど、「ほらこの方が」と写真を撮ってお見せすることはできないのだけど、本当にそうなんだからしょうがない。
ただし、そのマルさんとのやりとりは、先述したような派手で華々しいものでは全然なくって、だから、僕はスピリチュアルな感性を持った特別な人間だ、なんて微塵も思わないのだ。
そもそも、マルさんはただひたすらに、「お前はお前だ」ということしか言わないから、そこに「普通」や「特別」といった概念が存在しないのである。

マルさんとの対話は、基本的に紙の上で行われる(ほら、もう地味でしょw)。
僕が問いかけて、マルさんと考える。
解決策をビシッと教えてくれることもあれば、一緒に考えて筋道を立ててくれることもあるし、「お前実はもう気持ちは決まってるんだろ?」と先回りして回答を促してくることもある。
で、僕にとって大切なのは、そのどれにも僕が納得できるだけの理屈がある、ということ。

そもそも僕は、自分で納得できなきゃ絶対にモノゴトを信じない人間である。
普段は論の世界で仕事をしていて、エビデンス(根拠)のない推論は御法度。
そういう訓練を続けていて、それは面倒臭いところももちろんあるけど、とても楽しいゲームであったりもする訳で。
だから、マルさんが言うことに、「とにかくこういうことなんだからしょうがない」というニュアンスがひとつでも含まれていたら、それはもう絶対に信じられないのだ。

◆◆◆

ちなみに、マルさんが示してくるエビデンスは、全て僕の実体験や体感覚に基づいている。
僕は僕の視点で僕の人生を生きているのだから、そこに「あの人がこういうことを言っていてな」ということなんかよりも、僕にとってはよっぽど力強いエビデンスである。
それ故に、人様にお示しすることが難しい。
何かが起こった時に、何を感じ、何を考え、何をするのか、それは人によって絶対的に違うのだから。
だからマルさんが示してくる強力なエビデンスは、僕以外の人間にとっては何の力も意味もなく、エビデンスたり得ないのである。

それでも、最近はそういうことを書きたいとよく思う。
マルさんは「好きにしたら?」というスタンスなので的外れなことなのかもしれないし、これもまた僕が「自分ではない特別な人になりたい」と思っていた名残なのかもしれない。
そもそもマルさんとの会話には、人が喜びそうな「あの世」や「魂の旅路」のようなファンタジー的ニュアンスのある話題が一切出てこない。
一から十まで全て、僕の人生のための実用的なものばかりなので、僕以外のどなたかのお役に立てるとは、到底思えない。
だから、徹頭徹尾自己満足で、今後マルさんとのやりとりを可能な範囲で公開していこうと思う。

ブログのニュアンスがすっかり変わってしまうけど、もはや初めてのことではないし、この変化の連続性が僕という人間の人生の一面であったりもするので、もはや深くは考えるまい。
つまり何が言いたいかというと、これからもお暇な時にお好きなように読んでいただけましたら、幸いであります。