マリオとモモンガとイケメンの苦難の道。


lgf01a201304120300


同じパターンを繰り返すのは実に心地よい。
子供の頃スーパーマリオの得意なステージを延々とプレイし続けたことがあるのだけど、一つの流れの中で同じ作業をベストなタイミングで繰り返すというのは、他では味わえない絶妙な快感を連れている。
そういった繰り返しが高じて僕らは技術を磨いたり、得意なものを身に付けたりしてゆくものだ。

ところが、同じパターンだけを繰り返し続けていると、いずれ限界がくる。
マリオの目的はピーチ姫を救い出すことであって、フリーランのエキスパートになることではない。
キノコ城のガバガバなセキュリティ環境や危機管理体制についても検討の余地があるのだから、配管工の仕事をしている場合でもない。
ひとつのステージをクリアしたら、次のステージをクリアしないと、ヒゲのオヤジやヒゲのジジイとなり、桃の姫もいずれババアになってしまう。
亀だけが、万年生きて元気だ。

姫を助けるためには、水中ステージが苦手でも、水中ステージを超えていかなければならない。
勝手に画面がスクロールしていくステージが嫌いでも、超えていかなければならない。
「姫を助けない」という選択をすることもできるが、その後に残るのは「スーパーマリオがクリアできなかった」という事実のみだ。

自分がやりたいと感じたことに向かう道中で出会う苦労や苦難は、やりたくないことに耐える苦労や我慢とは、全く異質なものだ。
挑んでいる間は辛いかもしれないが、その次には必ず達成感や進行の喜びがある。

コーラは、あのとんでもない量の砂糖が入っているから甘くておいしいのだ。
美味しさは欲しいけど砂糖は要らないというと、とんでもない量の人工甘味料が入ったコーラ・ゼロがやってくる。

都合の良いことと悪いことというのは、常にセットでやってくるのだ。
新しく彼女ができたら、その彼女の過去や家族がセットでついてくるようなものだ。
ケータイを買ったら、月々の支払いが付いてくるのと同じことだ。

願いがあって、期待があって、それを叶えたい。
だけど、苦労も苦難もごめんこうむる。

そういったことを言っていると、人工甘味料たっぷりのアヤシイコーラが出てくるんである。
それを飲んで、「美味しくない」などと文句を言ってみたり、「結局人工甘味料ってヤバいんだよね」なんて言っているのが、僕たちだ。
もう何がしたいのかサッパリ分からない。

大量の砂糖を引き受けてみることだ。
飲んで、太ってしまえばいい。
そうすれば少なくとも、甘くておいしいコーラが飲みたいという願いは叶う。

コーラが良いという意味ではない。
コーラ・ゼロが悪いという意味でもない。

コーラが飲みたいのなら、飲めばいい。
大量の砂糖を引き受ければ良いのだ。

同じパターンを繰り返すことは心地よい。
しかし、コーラ・ゼロを選び文句を言い続けることが「いつもと同じパターン」になっているのなら、苦手で嫌いな水中ステージのように、不安で不快なものを引き受けなければならない。
少なくとも、コーラ・ゼロを飲みながら文句を言い続ける未来より、コーラを「美味しい」と言いながら飲み続ける未来の方が、よほど健全で健康的である。

先日僕の事務所で飼っているモモンガのきゃしーに食事制限が言い渡された。
食事の量は1日25グラム。
種のような種子系は1粒までなのだそうだ。

これまで日がな食べ続けていたきゃしーにとっては、苦難の日々である。
自分がゲージの中で飼われるモモンガでなくて良かったと胸をなで下ろしていると、ある日彼女様が僕のおやつにと持ってきた松の実の袋に、このようなメモが書かれていた。

・ゆうさく→1日10個
・きゃしー→1日1個


遥か遠い苦難の道に、地雷地帯とか有刺鉄線とか猛獣地帯とか、そういうものがゴロゴロ転がって見えた。