子供の頃、よく母親から「落ち着きなさい」と叱られた。
あまりによく「落ち着きなさい」と叱られるので、日々叱られるのではないかと不安がつのり、ますます落ち着がなくなったものだ。
このように、「〜してはいけない」という指示は高い確率で望まない結果に繋がる。
この事実は指摘されて久しいが、実践出来ている者は少ない。
その理由は、以下のものが挙げられる。
①「〜してはいけない」という指示を出すのが楽
人に「〜してはいけない」という指示を出すとき、出す側は高い確率で怒りや不快感を覚えている。
それを押して肯定的な指示を出す精神性の高さを兼ね備えた人物は、少なくとも僕の恵まれない交友関係の中には存在しない(疑わしければ、僕を見よ。類は友を呼ぶのだ)。
加えて、発音の問題もある。
「いいよ」よりも「ダメ」の方が言葉として言いやすいし、「Yes」よりも「NO」の方が咄嗟の時に口を付いて出るだろう。
関係ないが、「ゆうさく」よりも「おまえ」の方が言いやすく、「ここを直してほしい」よりも「地獄の底までぶっ飛べ」の方が言いやすいとという証言も、一部の人物から上がっている。
言葉を制するというのは、己の感情を制することと同義である。
感情を制することができないうちは、言葉を制することは叶わないだろう。
感情を制する気がない者も、言葉を制することはないだろう。
②代案を考え出せない
「〜してはいけない」という指示を出さないというのはつまり、「〜してほしい」という代案を出すということだ。
代わりにどのような言葉を使えばいいのかというのは、感情を制する能力に加えて、目の前の物事を別の視点で見つめる能力が必要となる。
事実を湾曲して捉える人物は多数存在するが、建築的な別視点で言葉を生み出せる者は少ない。
そんな人物にこの問題を相談したらきっと、代案を考え出さなくて済むような代案を出そうと言われるだろう。
③行動を矯正する気がない
理由は分からないが、否定形の指示が相手の行動を変える力を持たないことを知った上で、わざと「〜してはいけない」といった指示を行うパターンだ。
そうすることでどのような利益があるのか分からないが、もしかしたら注意をする振りをして相手の人生を棒に振ってやろうと考えているのかもしれない。
そう考えると僕に向かって日常的に「食べすぎるな」「無駄遣いをするな」「怠惰な生活をするな」と指示している彼女様は、僕の人生を破滅に向かわせる諸悪の根源であると考えられる。
それはジョーズで言うところのジョーズ、エイリアンで言うところのエイリアン、ドラゴンボールで言うところのフリーザ様である。
たぶん一度二度打破した程度ではパワーアップして再登場してくるるから油断ならない。
肯定的な指示を出すことの困難が理解していただけたかと思う。
思えば僕たち自身が様々な場面で「〜してはいけない」といった指示をされてきたから、肯定的な指示がどのようなものであるかを知らないのかもしれない。
あるいは、自分がこれほど否定的な指示をされてきたから、後輩にも一発カマしてやらねば気がすまないといった前時代の体育会系的発想もあるだろう。
しかし僕たちは過去に住まう大人達でもなければ、前時代的体育会系マッチョイズムに燃える先輩でもない。
今を生き、未来に向かう理性的な現代人である。
今この瞬間に僕たちが変わること、過去や前時代を許し、決別のために優しい歌を歌うことが、理性的な現代人に課せられた使命である。
だからこそ、忘れないで頂きたい。
「〜してはいけない」という指示は絶対にしてはいけない。