人生というゲームを堪能するイケメンと発狂する凶暴な女。


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人は刺激なくしては成長しない生き物である。それは逆に言えば、刺激さえあれば人は成長するということだ。

個人的に人が最も大きく成長するのは「誰かの死を受け入れた瞬間」だと思っている。自分の力ではどうしようもないことに直面し、信じられない、受け入れられないと抗い、しかしやはりそれは人ひとりの力を遥かに上回る出来事だから、遅かれ早かれ「まいりました」をする。この「まいりました」の瞬間に、人は変わる。

スピリチュルの世界では、「そんなはずはない」と事実に抗うことを『カルマの燃焼』と呼び、「まいった」することを『サレンダー』と呼ぶ。ちょうど、亭主関白に憧れる男が、年をとるほどに強烈になってゆく女に降伏してゆくようなものだ。

涙を流している場合ではない。まさに「女が経年するとより容赦のない凶暴性を抱き始める」ということが、男に課せられたこの世の真実であり、刺激であるのだ。それは「まいった」するために僕たちの目の間に現れ、破壊の限りを尽くしてゆく。「まいった」したところで被害が減る訳ではないが、少なくともブログのネタにする程度の心の余裕は生まれるのだ。

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僕が言う刺激というのは、「事実と出会うこと」だと思ってもらっていい。では、「事実」とは何か。それは、今体験している全ての出来事である。

「事実」はいつだってシンプルで、大量に存在する。


「大切な誰かが死んだ」
「パートナーの女が凶暴だ」
「夢が叶わない」
「旦那の稼ぎが悪い」
「仕事が上手くいかない」



などなど、数え始めると枚挙に暇がない。人は常々これらの「事実」・・・つまり、「刺激」にさらされながら、人生を歩いているのだ。それらはまさに四苦八苦、大小あらゆる苦しみを連れてやってきては、認め難き感情の揺れを巻き起こしてゆく。

人は常に、自分は人生というゲームを駆け抜けるキャラクターだと思っている。しかし、「事実」は違う。僕たちは人生というゲームをプレイする「プレイヤー」である。「事実」に抗うというのは、正面からクリボーがやってきたら、「こんなとこでクリボー来るとかありえへん」などと言いつつBダッシュ一閃、そのあまりにも浅い懐に飛び込んでは、デスを重ね続けているようなものだ。

目の前からクリボー(事実)がやってきた時、「クリボーが来た」という事実を認めるのが、『サレンダー』である。何も迫り来るクリボーに相対し、膝を付き頭を下げることではない。そんなことをしていても、奴は眉間にシワを寄せたまま迫ってくるだけだ。

では、どうするのか、クリボー(事実)が来たら、それを確認して(サレンダー)、ジャンプでかわせばいい(成長)。実にシンプルである。そうすると人生というゲームは、次のステージへと進んで行く。また新しい敵や穴が迫ってくるから、ジャンプでかわす。この繰り返しである。

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ここでもうひとつ、知っておくべきことがある。それは、「デスを重ねてもいい」ということだ。例えばスーパーマリオを初見で一度もデスを出さずにクリアできる人はいないだろう。それでいいのだ。人生はやり直しの連続である。とんでもなく難解な仕掛けがあるように見えたなら、何度も挑み、クリアできるまで様々なアプローチを取ればいい。

しかし、ここで問題がある。仕掛けが難解になればなるほど、その仕掛けに対しデスを重ねれば重ねるほど、僕たちは意地になる。新しいアプローチを掛けることを忘れる。それはつまり、目の前から迫り来るクリボーに体当たりをすることと何ら変わりない。そして絶望の果てに、こう叫ぶのだ。


「このゲームバグってるぞ!」


と。まさに『カルマの燃焼』である。断言しておくが、このゲームにバグは無い。どのような難解に見える仕掛けにも、クリアできるルートがある。それを見つけることが、その「事実」と出会った時に「プレイヤー」に課せられた課題である。

その仕掛けは、これから先の人生を楽しむための細やかなテクニックや、集中力を磨くためのものかもしれない。あるいは辺りをよく見回すとワープが出来る土管があって、目の前の出来事だけに目を向けてはいけないという教訓を連れてきてくれているのかもしれない。

まず、ヤケになってその仕掛けに飛び込むことをやめるのだ。そして「まいった」すればいい。こいつは難しい。今の私には攻略し難い。そうして初めて、僕たちは「なんとかしよう」という発想を得るのである。

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ニコニコ動画やYouTubeで「自作マリオ」と検索するととんでもないものがヒットするぞ。



全ての「事実」は、ダッシュとジャンプでクリアできるようになっている。何もない平面が続くだけのゲームは、まるで面白くないんである。

「面白い」「楽しい」「気持ち良い」という感覚を得るには、「上手くいかない」「難しい」「モヤモヤする」といった感覚が必要不可欠だ。よく「人生を楽しむ」という言葉を聞くが、それはつまり「プレイヤーの視点で生きる」という意味である。

今何か問題が起こっていないだろうか?それは一体、どのような問題か?何かが上手くいかない時は、何かを間違えているのだ。クリボーの懐に飛び込み続けているのである。人によっては、それを何年も何十年も続けている。

よく見つめる。クリボーはそこにいて、まっすぐこちらに向かってきているのだ。それほどに、「事実」はシンプルである。

ジャンプした先に穴があった。そういうこともあるだろう。しかし、穴が見えないのはマリオの視点で物事を見ているからだ。僕たちは「プレイヤー」である。クリボーの向こうの穴は、もう見えているのだ。


最近彼女様が新しい仕事の準備を始めた。僕は僕で自分の仕事をせっせとしている。ふたつのゲームは重ならない。僕の画面には僕のゲームが映っているし、彼女様の画面には彼女様のゲームが映っている。時折目配せでもして、「面白いなあ」などと言い合えれば、それが幸せなのだ。

問題は、比較的頻繁にコントローラーやゲーム機やテレビが、「死ねぇぇぇボケェェェエエエ!!」といった怒号と共に飛んで来ることである。目線など合わせようものなら、何をされるか分かったものではない。もしかしたら、僕の人生はバグってるんじゃなかろうか。


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