尻の下には砂と岩が擦れる。
拒まれている訳ではないけれど、受け入れられている訳でもない。
たまたまそういう場所があって、僕が勝手に腰を下ろしているだけという、それだけの場所だ。
時々強い潮の流れがやってきて、重心はすっかり浮いてしまっているから、簡単に姿勢が崩されてしまう。
それは優しく肌を撫でるように圧を掛けてきて、あっさりと僕の体温を奪ってどこかに行ってしまう。
静かなようで騒がしい海の底には孤独と繋がりが同時多発的に存在する。
目を閉じて息の残量を忘れると、ぞっとするような安らぎを発見する。
もしかしたら死とはこういった感覚なのかもしれない。
開発が進むほどに便利になって、ここからあそこまで車で行きやすくなった。
その変わり気軽に潜れる海がなくなった。
いつか子供が生まれてその道を走ることになっても、思い出話ししかできない。
風力発電はクリーンなエネルギーなのだともてはやされて、山のてっぺんにたくさんの風車が建った。
持ってきたパーツを運ぶために山を切り開き、組み立てをするスペースを作るために更地を作り、事業がひと段落した頃には、地元の農家は山から下りてきた動物たちに畑を荒らされて苦労している。
罠を仕掛けて餌を撒いて中に入った鹿や猿を殺さなければ、自分たちの仕事が立ち行かなくなっている。
山は危ないからといって、子供がロープやスコップを持って登っていくということも減っているらしい。
田舎に帰ると、世間の勘違いがどうしたって目に入る。
インフラが整備されて観光産業が盛り上がっても、生きながら死を感じた海の底は水深以上に遠くなってしまった。
山頂で生み出される僅かなクリーンエネルギーが踏みつけているものは、きっと誰にも気付かれない。
仕事ができて、助かっている人もおりましょう。
便利はとても良いことでしょう。
だけども、便利だけを受け取ることは、やっぱりできんのですね。
表と裏で、プラスには必ずセットでマイナスが付いてきているのです。
それに気付かないでいると、いつか病気になる。
病気になってから、どうして自分が病気になったのか分からないということになる。
薬のカプセルの中には必ず毒が入っているのです。
不安になれ、という意味ではなくて、覚悟を決めて受け取ろう、という話しでした。