体重計に乗ってみると、赤い針は77キロを指す。「もう当分来ることがないから」と馴染みのラーメン屋に通い詰めたツケである。僕の体は今、千葉県は船橋市にあるギラギラというラーメン屋のラーメンで出来ている。
「そうだ、ウォーキングしよう。」
ラーメン通いの後、和歌山の実家に収まって食生活はむしろ改善されているにも関わらず体重の低下が見られない。16名の優作ちゃんによる脳内会議の結果、それはひとえに運動不足が原因であろうという結論に至った。あと、ハイスピードロボットアクションゲームボーダーブレイクが設置されているゲームセンターまで片道1時間掛かるのはいくらなんでもあり得ないという結論にも至った。泣きたい。
そんな訳で、僕はマフラーを巻き手袋をはめ、てっくてっくと地元の道路を歩き始めた。耳にはイヤホンを刺し込み、最近ダウンロードした仕事のための音声教材を再生しながらの運動である。文武両道とは、この努力家なイケメンのために生まれた言葉に違いない。
音声を聞きながらせっくせっくと歩いていると、30分ほど行ったところでいつも目の前を通り過ぎているだけの小道の前に来た。和歌山県はその大半を山が占めている関係で、人の住む集落は川沿いに発生している。その川沿いの集落が、時折山の谷間に向けて大きく膨らんでいることがあるのである。だいたいそういう時は膨らんだ集落の中程を小さな川がちょろちょろと流れているのだが、この小道も例外に漏れず、そういった膨らみに続く小道であったのだ。
小さな橋を越え、車同士がすれ違うことなどとてもできないような細い道を歩いてゆくと、結構早い段階で民家の並びが終わり、右手にみかんの木が並び始めた。小川はぐにゃぐにゃとうねりながら道から離れたり近付いたりして、歩くほどにそのせせらぎが、まるで生きているようにその距離感を変えた。などと言いつつも、僕自身はかろうじてコンクリートが敷かれた道の上にいるからギリギリ言い訳ができるというだけで、完全に私有地への無断侵入であるのだが。
もうしばらく進むと、僕の行く道は徐々に鬱蒼とした木々の間に飲み込まれていった。さっきまで一面に広がっていた空が、今は高々と育ったスギの木の向こうにチラホラと見えるだけである。耳元では先生がこれからの時代に必要なビジネスのノウハウを情熱的に語っている。このイヤホンを外せば、うっすら聞こえるザワザワとした山の息吹や、時折割って入る鹿の鳴き声なども、もっと近くに感じることができるのだろう。でも僕はなんとなくそうしないまま、先生の話しを夢中で聞きながら、薄暗い山の奥へとズンズン進んでいった。
もう一息進むと、いよいよ足下はコンクリートでさえなくなってきた。踏みしめるとそこは針葉樹の葉が折り重なった絨毯になっていて、轍が残っている所以外はとてもフワフワとしている。一歩一歩に随分とエネルギーを使う。手袋はいつの間にかポケットの中に追いやられていて、上着のジッパーはバッサリと落として開かれていた。
それでも導かれるように歩を進めていると、とうとう道と呼べるものも無くなった。そこにはボロボロに朽ちた丸太を並べただけの橋と、山師しか行かぬのであろう足場が、細い木漏れ日に照らされてどこまでも伸びているように見えた。
別に何か目的があって来た訳ではない僕は、ここでようやくイヤホンを外した。先生はちょうど、
「セミナー講師として独立するには、自分の土俵で自分に合った営業を自分に合った価格設定でしよう。既存の事業者やセミナー講師の真似をしても、あなた独自の価値を作らなければ、成功は難しい。」
と語っていた。また後でお願いします。頭の中でそんなことを言いつつiPhoneのプレーヤーを止めると、辺りに充満していた圧倒的な自然音が、ざざざとしたりさらさらとしたりしゃぎしゃぎとしたりて、幾千万の音を重ねながらも何の不快感も無く、僕の頭の中を通り抜けた。一瞬たりとも同じ組み合わせのセッションが存在しない。もしかしたら僕が生涯を掛けようとしている音楽というのは、こういった自然音への憧れでしかないのかもしれない、などと。そんなことを思ってしまうほどに、音とは元来生き物の心拍であるという説得力を持って、その空間は空間であったのだ。
僕は最奥地から少しだけ戻った所にあった小川沿いの岩に乗っかって、少し目を閉じてみたりした。空気は肌に冷たいのだけど、逃げ出すほどではない。やはりそこにも、さっきとはまるで違う、素晴らしい音があった。今の暮らしは和歌山のど田舎で、大好きなボーダーブレイクが置かれているゲームセンターまで車で片道1時間掛かる。けどまぁ、それでも僕は満たされているのである。
ところで、皆様はどんな電波の届かない場所でもGPSは起動出来ることをご存知だろうか。僕はふと、小一時間以上掛けて登ってきたこの山がどれほどの山奥であるのかを知りたくなり、ポケットからiPhoneを取り出してマップアプリを立ち上げた。画像中心部ちょっと右上の青い玉が、僕の現在地である。ええと、42号線の方から歩いてきたから・・・
僕はまだ、序の口でもないところで満足していたようです。