わが愛しのAm P.32:いちばん僕だった(2018/08/21)

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素晴らしき津木小学校旧校舎

津木小学校は、少し小高い棚の上に三階建ての校舎がどどーんと建っているという趣の学校だ。生徒たちは学校のシンボルであるイチョウの木を見上げながら、校門に続く坂を登って登校する。それは現代の話し。僕が生徒だった約20年前、校舎は100年近い歳月を経た、シブいの木造平屋建だった。

僕は小学校の校舎が大好きだった。コンクリ打ちっ放しの土間になっていた廊下も、消しゴムを落とした床板の穴も、ウサギの糞まみれだった中庭も、もう無くなってしまったからこそよく思うけれど、本当に素敵な校舎だったのだ。

靴を上履きに履き替えて坂になっている小さな廊下を上がると、正面には六年生の教室がある。右を向くと長い廊下がまっすぐ走っていて、いちばん奥、ちょっと広い7つ目の部屋が一年生の教室だった。どうしてひとつ教室が多いのかというと、僕たちの3つ年上のクラスに障害を持つ先輩が二人いて、その二人のための特別学級がひとつ用意されていたからだった。

光の教室

津木小学校の旧校舎では、一年生が自分たちの教室に辿り着くためには、六年生から二年生の教室の前を歩いていかなければならなかった。僕は学校の廊下を歩いているだけで楽しかったから、走ったり、歌ったり、つまりまあドタバタして、実に騒がしく歩き回っていたのだったのだ。教室の前を通るたびに、お兄さんやお姉さんたちがチラチラを視線を向けてくる。僕はそれを、非常に気持ち良く感じていた。

教室に辿り着くと、さらに楽しい。自分の勉強机にはランドセルを掛けるフックが付いていたし、お道具箱にお気に入りの粘土やクレパスやハサミが入っていたし、大きい声で教科書を読むと、とっても褒められたのだ。目を閉じてもうこの世にはない校舎を歩くと、一番奥の一年生の頃に使っていた教室は、きめ細かい輝きで満たされているように感じる。自分がステキだと思うものが詰まっていた教室に今でもたまに帰ることがあるのだけど、やっぱり、本当に楽しかったのだと思う。

今日から大人になっていく

はたと気付いた。僕の楽しかった思い出には、友だちがいない。キラキラした光を書き分けて目を細めてみると、そこには自分がステキだと思う道具や、活動のことしか見えてこない。幼稚園時代には既に自分の意見より人の意見のプライオリティを高く見積もるクセが付いていたと思っていたけれど、小学生になるというのは、本当に大きなライフスタイルの転換だったのだと思う。僕は、僕がステキだと思うものだけを見て生きていた。

今はどうだろう。アドラー博士もコヴィー博士も、人生の悩みのほとんどは人間関係に起因するものだと断言しえている。同意だ。人生を謳歌していた頃の僕は、他人のことなど気にしているヒマがなかった。絵を描いたり、ブランコを漕いだり、好きなアニメの主題歌を歌ったりすることに、とにかく一生懸命だった。そこに他人はいなかった。そしてそんな僕は、もう思い切って自分で言ってしまうけれど、ものすごくキラキラしていたと思う。まさにわが世の春である。最も人間らしく生きていたと思う。

僕はよくノートを使って自分と話しをするのだけど、最近そこに登場するようになったチビは、まさに小学一年生の頃か、それ以前の僕である。僕が最も僕であった時期の、僕である。彼がガンプラが欲しいというので、買って作った。彼がipadが欲しいというので、買って使っている。彼がヒーローになりたいというので、毎週仮面ライダーを欠かさず見て、ヒーローとは自らの意思と行動で人生をビルドしていくものなのだということを思い出している。

もっともっと、思い出さすべきことがあるのだと思う。あのキラキラしていた6歳の少年は、15歳で自傷癖になる。25歳の頃には鬱になって、仕事ができなくなる。その過程で忘れてきたことを、もっと思い出していきたいと心から思う。そして、彼の願いを行動力と経済力で漏れなく叶えていこうと思う。それがきっと、僕にとっての「大人になる」ということなのだと、今日からそういうことにして、生きていこうと思う。
 
 
現在の津木小学校の校舎の様子

現在の津木小学校の様子。体育祭か何かですかね。
右手奥の校舎とは別の建物は、変わっていなければ一階が音楽室で二階が図書室。
ここだけは、旧校舎の時代から残っている。

 


 
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